朝鮮半島で終戦を迎えたジョンさん(仮名)(米国生まれ二世)(帰米組)


  ジョンさんは、1925年生まれの日系二世である。最初、ジョンさんの祖父がカリフォルニアへ渡った。そして、労働環境の厳しい鉄道で働いた。のち農園に移り働いたが、痛風にかかり日本に帰ることになった。入れ替わりに、次男の伯父と19歳だった三男の父が、アメリカに渡った。祖父は郷土で農業をしていた長男のところで、そのまま隠居の身となった。

 父はカリフォルニアの農園で働いていたが、結婚のため一時日本に帰国、アメリカに帰ってからジョンさんが生まれた。しかし母は若くして19歳で病死した。そのため、父は母の妹(叔母)と再婚した。やがて腹違いの弟が生まれたが、義母もまた結核にかかってしまった。義母(養母)は父をアメリカに残して、子供二人を連れて日本に帰国した。やがてジョンさんの祖母が二人の面倒を見るようになり、尋常、高等小学校を卒業した。旧制中学に入ったところで、太平洋戦争が始まった。1941年(昭和16年)であった。忽ちアメリカの父からの送金が途絶えてしまった。そこで、生活のために中学を中退し、八幡製鉄所に入社した。


召集令状
(通称、「赤紙」)(ス)
                      
 21歳になったとき、「赤紙」(召集令状)が来た。軍には「わたしはアメリカの市民権があるアメリカ人です」とは、到底いえるものではなかった。兵隊は嫌いだし、戦争にも行きたくはなかった。もしそれらを言ったらどうなることやら。自分だけではなく、家族、親戚縁者にまで迷惑がかかることになる。日本人でも「徴兵拒否」をすると、大変なことになると聞いていた。まして私は「敵国アメリカ人」である。ひょっとすると、生きてゆけないかもしれない。ずいぶん悩んだ。

大韓民国地図
(赤下線が関係都市)

 意を決して、北陸にあった第31航空通信連隊へ入隊した。翌5月に博多港から船に乗せられ、韓国の釜山(プサン)に上陸した。京城(ソウル)の近郊の基地にいた後、大田近くの山の中に通信施設をつくり、駐屯した。この通信所は、僅か4,5名しかいない小さなものだった。毎日、日本、朝鮮、満州の軍関係の通信を担当していた。山の中とはいえ、そこはさすが軍隊で、食料はふんだんにあり、ひもじい思いをしたことはなかった。幸いだったのは、実戦部隊でなかったので、戦闘をしなくてよいし、また弾も飛んでこなかった。輪番で「休暇」をとり、町まで息抜きをしに行くこともあった。
   
 この通信隊には「暗号解読器」があったので、戦況はよく知っていた。昭和19年も5月になると、「この戦争はもうダメだなあ」と思うようになっていた。1945年(昭和20年)8月15日の終戦は、2日前から知っていた。しかし「満州国」の「関東軍」の動きは、電波の周波数が違うのか、全然分からなかった。
 
 敗戦後2,3日して久しぶりに町へ出た。町の雰囲気がガラッと変わっていた。人々の目が変わっていた。刺すような目つきでこちらを睨み付ける。追われるように、急いで隊に帰った。リンゴ畑を歩いていると、泥棒と間違えられて、棒をもって追いかけ回された。何か世界がひっくり返ったような気がした。
   
 しばらくして、軍から連絡が入り、「大田駅から汽車で釜山へ向かえ」と命令された。大田駅に集合すると、近郊各地の部隊も集結していた。汽車に乗ると、全部の窓を閉め、中が見えないようにした。朝鮮の人に襲われるかもしれなかった
のだ。緊張感があった。そうでなくても暑い時期に窓を閉めたので、たまらない暑さになった。長いことかかったが、釜山までは食事も出来ず、ただ水を飲んだきりだった。それでもなぜか空腹感はなかった。           

           1928年頃の大田駅(4)
 
 釜山からは、日本から帰国する朝鮮人を乗せてきた船の「帰り船」に乗った。博多港に着いたが、何年ぶりかの日本であったわりには、感動はなかった。疲れ果てて、頭がボーとして何も考えられなかった。とりあえず、博多駅から八幡駅(現北九州市)に向かった。そのころ、「復員兵」は汽車賃はタダだった。用事を済ませてから、熊本の伯父の家へ行った。生きて帰ったので、大歓迎してくれた。当時は、「白木の箱」(骨)で帰ることも多かったのだ。しばらく居てから、応召前に勤めていた八幡製鉄の寮に戻った。

       日本へ帰ってきた帰還船(5)(文章とは無関係です) 

 ある日、寮に若い女性がやってきた。話してみると、しっかりした感じのよい娘であった。男の寮生の「服直し」に来ていると言った。朝鮮の山の中に何年もいたのもあってか、この明るく話好きな娘が輝いて見えた。それに読書好きで、物知りであった。この時、私が25歳、その娘法子が23歳であった。だんだん意気投合して、一緒に散歩したり、趣味の話をしたりと、急速に仲が進んでいった。いつしか、結婚を意識するようになった。

 ちょうどその頃、アメリカに残っていた父親から、手紙と日用品が届いた−と熊本の伯父から連絡があった。手紙には「帰っておいで」と書いてあった。「そうだ、親父のもとに帰ろう」と思った。ほとんど記憶がないアメリカであるが、今となっては、父のもとに帰りたかった。戦争中はずっとひとりで生きてきた。ここでアメリカに帰らなかったら、もう父に会えないような気がしていた。早速手紙を書いた。

 折り返し、父から「出生証明書」が送られてきた。ここからの手続きが大変長いので、簡単にまとめてみる。
   
    1 東京の法務省に手紙を書く(今までの経緯、米国帰国希望の旨等)
    2「貴殿は二重国籍者・・
国籍をどちらか捨てよ」と返事が来る
     (もともと日本の兵隊には行きたくなかったのだから,喜んで日本国籍を捨てよう)
    3 アメリカの
父が雇った米弁護士が日本に来たので会う(1953年)
     (父は下手をすると息子が「無国籍者」になるかもしれないと心配していた。)
    4 神戸にある
アメリカ領事館に出頭する。(日本の軍歴を問題にされる。難題であった。)
    5 アメリカで
「日系の米市民権」取得の法律の条件が緩和された
    6 福岡のアメリカ領事館で、
正式に「米市民権」をもらう
     (
10年間は日本に帰国できないとの条件が付く
      妻を連れて行き、領事の前で宣誓をして
「結婚証明書」をもらう
    7 東京の
法務省で「出国証明書」をもらう

   
 こうして煩瑣な手続きの末、やっとの事で日本を出国できた。1954年11月のことだった。戦争が終わってから9年、手続きを始めて5年の歳月が過ぎていた。「アメリカに迎える準備が出来たら、連絡するから」と、妻子を残したまま船に乗った。まず、アメリカで仕事と家を見つけなければならなかった。サン・フランシスコ港には、迎えに来た懐かしい父と弟の姿があった。弟はいち早く渡米し、朝鮮戦争で陸軍歩兵として実績を積み、すでに『アメリカ人』になっていた。

      サン・フランシスコ港(10) 
 
 それからは、家を探し買って、父と住んだ。考えると、ここまでの自分の人生で、父と一緒に生活したのは、いったい何年あったのだろうか。日本での仕事とは全く違うが、ブドウ園の仕事も見つかった。翌年5月には、妻と2歳の息子を呼ぶことが出来た。やっと、私の遅い「青春」が、やってきたような気がした。
   
 今から思えば、自分はよく頑張ったと思う。「アメリカ市民権」をもったまま、「日本軍人」になったのだが、あの時は「自分は日本人」と思っていた。いや、思うことにしていた。他の日本人に「アメリカ人」と思われたくなかったので、必死だった。しかし、通信兵だったので、人を殺さずにすんだことが、せめてもの救いである。どちらにしても、戦争は絶対ダメだ。「ネヴァーアゲインNever again」と言いたい。二度と、こんな辛いことはゴメンだ。                 (終わり)
                                       

 以上見てきたように、ジョンさんの人生はまた山あり、谷ありであった。アメリカを出てから「帰国」するまでの多くの分岐点で、彼が選べたのはたった一カ所だけ、つまり、終戦後に「アメリカに帰るか、それとも日本に残るか」だけであった。それ以外の所では、選ぶことはできなかった。他の選択肢はないに等しいものであった。

 この時代に生きた者は、大なり小なり似たような境遇ではあったのだが、それにしてもジョンさんの場合は、2つの国の「国家主権の葛藤」の狭間で、あたかも暴風の中の小舟のようにもみくちゃにされ、「運命」に従うこと以外に、自分では何もできなかったのである。歴史に「仮定」は無意味だが、「もし戦争がなかったら?」と考えると、違いがよく分かる。

「民主主義」のことを書いてある入門書には、「国民は幸せになるために政府(国家)を作った」−と説明してある。ところがいったん政府(国家)が成立してしまうと、「国の(利益の)ため」に、国民を「不幸」にしてしまうということは、すでに見てきた。「国家」が始めた戦争でも、犠牲者はいつも「国民」なのである。ここに「国家権力」や「戦争」の恐ろしさある。