<ケンチャンの辛口映画評>
戦争、「アウシュヴィッツ」、強制収容所、ナチ、ゲットー、ホロコースト、ジェノサイド関連映画

2005/7/02

戦場のピアニスト マイ・ファーザー アンネの日記 オデッサ・ファイル
シンドラーのリスト ヒトラー〜最後の12日間 アンネ・フランク」(TV)
「戦場のピアニスト」(原題:The Pianist)


(C)2002映画オフィシャルサイトより転載





あのポーランドの鬼才、ロマン・ポランスキーの話題作、カンヌ映画祭のパルム・ドール(グランプリ)受賞の作品。またアカデミー賞に、作品賞をはじめとして各部門でノミネートされている大作である。
(左下参照)

これまで<ナチ(ス)とユダヤ人>を描いた映画は、「アンネの日記」をはじめとして数多くあるが、「ナチス、ドイツ人=悪人」というステレオタイプから脱したのが、あのスティーヴン・スピルバーグ監督作品の「シンドラーのリスト」であった。この映画も「人間そんなに単純じゃないよ」という作品の一つであろう。

映画前半のナチスの暴力シーンは、残酷すぎて目を覆うばかりだが、ポランスキーは、自分の「ゲットー幽閉、脱出体験」も重ね合わせて、この映画を作ったといわれる。道理で暴行、暴力シーンがリアルなわけである。特にドイツ軍兵士が自分の「慰み」だけで、ユダヤ人を射殺するシーンは見ていてつらい。


 
           上・オフィシャルサイト・リンク

<第75回アカデミー賞ノミネート>
☆最優秀作品賞      :  『戦場のピアニスト』
★最優秀監督賞      :  ロマン・ポランスキー
★最優秀主演男優賞   :  エイドリアン・ブロディ
★最優秀脚色賞      :  ロナルド・ハーウッド
☆最優秀撮影賞      :  パヴェル・エデルマン 
☆最優秀編集賞      :  エルヴェ・ド・リューズ
☆最優秀衣裳・デザイン賞: アンナ・シェパード


: 全編を通して流れるショパンのノクターン、ポロネーズ、ベートーヴェンのムーンライトなどが美しくもあり、また哀しさを余計に引き立てている。クラシックファンも必見の作品。演奏シーンは実際に演技者が演奏しているという。

観客:映画館内は若い人の姿があまりない。シネマ・コンプレックス隣室の「ロードオブザリング」に行っているようだ。その代わり、ほとんど中年で占められた館内は、しっとりと落ち着いた雰囲気である。涙を啜る音も聞こえていた。クラシックファンやピアノ教師もいるらしく、専門的な話がなされていた。

私のおススメ度★★★★☆(5★が満点、☆は半分)
有名なスターを使わなかったことが、よりリアリティーを増している。ただ、あのアルジェリア・イタリア合作「
アルジェの戦い」のドキュメンタリー的迫力、臨場感にはやや一歩ゆずる。 




さて、この上記2人の監督の共通点が「ユダヤ人」であることは有名だが、なぜ戦後50年以上経って、このような「まじめな作品」を作ったかということだ。当時50歳を過ぎたスピルバーグも、どんなに娯楽映画を作っても何か物足りないものがあり、体の中を流れるある「ユダヤ人の血」があの「シンドラー」を作らせたとしか思えない。

やはり齢70を過ぎたポランスキーも、死ぬまでにこれだけは作りたかったのではないか。残り少ない人生で、世界に確実に訴えるものを残したかったように思われてならない。ドイツ兵の描き方がややステレオタイプに描かれているなど、演出に若干の瑕疵はあるものの、全体的にはそんな彼の思い入れが、場面のあちこちに散見され伝わってくる。

もっとも注目したいのが、主人公がナチスやその手先の「ユダヤ警官」に「命を救われた」ということである。「敵」に命を救われたのだ。もうひとつは、この映画では「完全な人間」は登場しないということだ。主人公でさえ欠点だらけである。それが故に、「人間らしい」とも言えるし、映画を見るものが「自分に置き換えて」見ることができるのだ。

あの威張っていたドイツ人兵が、収容檻内では全く別人になる落差も、敗戦直後の日本人とオーヴァーラップする。この映画では、さまざまな人間が登場し、観客に常に何かを訴え続ける。混沌とした現在の世界情勢は、この映画から「教訓」を得ることはできないのだろうか?

私は立場がどうであれ、できるだけ多くのひと(できれば若い人)に、この映画を見て欲しいと思う。人の性、戦争、人命、人間の尊厳、民族、平和、音楽のもつ普遍性、愛情、友情等々、見たものの心に何か残り、かならず考えさせてくれる映画だからである。
(筆者とのつながり)・・・ポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所に行くと決めた頃、時期的ドンぴしゃの映画が封切られていた。「戦場のピアニスト」であった。「これを見ずにはアウシュヴィッツには行けない」と思いこみ、出発前にあわてて倉敷まで見に行った。館内は中年ばかりで、若い人たちには敬遠されていたようだ。歴史好きでクラシックファンでもある筆者には、内容的には哀しくも映画の出来にはかなり満足して家路についた。その数日後、首都ワルシャワのユダヤ人ゲットー跡地(公園)にも行ったが、そこは記念碑があるばかりのタダの町中の公園(左写真)で、映画のイメージがあったからこそ、種種の想いに耽ることが出来たし、次のアウシュヴィッツ収容所も心の準備が出来て訪問できた。また同時にこのたびでは、映画に流れるショパンの生地も訪れることが出来て、心に残る旅となった。

PAGE・TOP









 
 最初に公式サイト(ブログ)、公式ガイドブックから引用する。(以下青色が引用部分)
「マイ・ファーザー」
原題:My Father,
Rua Alguem5555)

(C)アルシネテラン公式ブログより転載
父の罪は幾千もの命を奪ったこと
子の罪は、その男を父に持ったこと…
父は残酷な犯罪者だったのかー
実在した死の天使″ヨゼフ・メンゲレ。
その息子の証言を元に描かれる、
衝撃の真実!
監督エジディオ・エローニコ
製作ゲラルド・パリエイ
脚本エジディオ・エローニコ/
アントネッラ・グッシ
原作 ペーター・シュナイダー
「Vati」(Rewohlt in Reibek 刊)
原題:MY FATHER
- Rua Alguem 5555
英語
イタリア=ブラジル=ハンガリー合作
112分/1:1.85ヴィスタサイズ/
35mm/カラー/ドルビーSRD
2003年/配給:
アルシネテラン
2大アカデミー俳優と、
ドイツの注目俳優の豪華競演
出演は
チャールトン・ヘストン
(「ベン・ハー」)と
F.マーレイ・エイブラハム
(「アマデウス」)の2大アカデミー俳優。
「戦場のピアニスト」での
ドイツ軍将校役で注目を浴び、
本年度のアカデミー賞
外国語映画賞ノミネート作
「ヒトラー 〜最期の12日間〜」
にも出演している俳優
トーマス・クレッチマンが、
息子のヘルマン役を見事に演じている。

 1985年6月、ブラジル、マナウス。この町の郊外の小さな墓地で白骨死体が見つかった。アウシュヴィッツ収容所で数々の人体実験を行い死の天使″と呼ばれ恐れられ、戦後30年にも及ぶ逃亡生活をし続けたヨゼフ・メンゲレ。果たして、この遺体は本当に彼のものなのか?このセンセーショナルな事件を記録におさめようと、世界中の報道記者、カメラマンやTVクルーが、殺到した。群衆の中には、被害者であるユダヤ人、アメリカ人弁護士ポール・ミンスキーそして、メンゲレの息子へルマンの姿もあった。かつてナチによってつけられた、ユダヤ人の印を腕に持った女性がヘルマンに向かって叫ぶ― 「人殺し!父親が人殺しなら息子も同罪だ!」

 弁護士ポール・ミンスキーは、息子のヘルマンが父親の死を偽装しているのではないかと疑いをかけた。ニューヨーク・ユダヤ人協会はアウシュヴィッツ収容所で行われていた、医師たちによる残酷きわまりない人体実験から奇跡的に命を取り留めた双子たちの、損害賠償請求のために、ミンスキーを雇ったのだった。ミンスキーの目的は2つ、被害にあった双子の治療のためにメンゲレのカルテを入手すること。そして、ドイツへ損害賠償を請求するために、メンゲレが本当に死んだのかを確認することだった
・・・。

 
 世界史の現代史、ナチの強制収容所や外国の社会問題などにくわしい方には、こういう類の映画は今でも「作るのがかなりむずかしい映画」という認識が理解できよう。
 
 すでに「戦後」60年になり、今年2005年1月には、「アウシュヴィッツ解放60周年」記念式典がドイツ本国で大々的に開かれた。ドイツ大統領シュレーダーの演説は、それが例え「旧アウシュヴィッツ強制収容所の生存者」を前にして行われたものとはいえ、「ドイツ人の良心」を表現吐露したものといえるだろう。普通に読んでも、倫理観・使命感の素晴らしさに心がうたれる想いがある。
 
 しかしだからといって、私はここで、近隣諸国に同じような「罪=侵略・殺戮」を犯したわが民族の現首相が「ある神社参拝」に執心し近隣の国々から「非難」されている問題を取り上げる気持ちはまったくない。
 
 有名な事実だが、ドイツは戦後一貫して「ナチの惨禍」の反省と修復に努めてきた。金だけの「弁償」ではなく、「反ナチ」という明確な政治姿勢と学校教育においても他のヨーロッパ諸国より数倍も歴史教育に力を入れてきた。

 それにもかかわらず、最近のドイツ国内世論調査では、「ドイツの若い世代はナチの犯罪、惨禍をよく知らない」という結果が出ているが・・。蛇足ながら、日本で同様の調査をすると、もっと「すごい結果」が出るかもしれない。

 
 既に亡きワイツゼッカーという「ドイツの良心」と言われた元大統領は、「過去に目を向けない者は現在に対しても盲目*である」と述べた。これは「真っ当な人間のまともな見識」である。彼は長く大統領職にとどまり、ドイツ国民の尊敬を集めてきた。
 
               *「盲目」・・原文のままであることをお断りしておく

 さて話を映画に戻そう。ドイツはそういう国だから、現在でも「ナチ関係」の再現、記述は厳しく法で制限されている。ナチマークの使用はもとより、「親ナチ」的表現は許されていない。だから、取りようによっては、メンゲレを取り巻く人たちの主張も伝える-このような映画はドイツ本国では作り得なかったのだろう。

 この映画の顔ぶれ(キャスト)は映画ファンから見ると確かに「すごい」ことなのだが、このテーマではむしろ「戦場のピアニスト」のように無名に近い俳優を集めても良かったかもしれない。すでに「功なり名遂げ」た俳優たちは、ある面ではイメージが出来てしまっているのだ。例えばヘストンは、「苦悩に耐え、努力し、戦い、最後には成就する正義のヒーロー・英雄」でなければならない。

 しかしここでは、キリスト教でいう「原罪」のような大罪を犯した「アウシュヴィッツの天使」とよばれたメンゲレの役をしている。別に例えて言うと、「キリストの生涯」でキリスト役をせずに、ユダの役をするようなものだ。特に長年の映画ファンには若干抵抗がある。とはいえ、「007」ジェームズ・ボンドのイメージが固まったショーン・コネリーが、後に「薔薇の名前」などで演技力のある名優になった先例もあるが・・。俳優の成長の過程で、いつかはまったく異なった役に挑戦せざるを得ないのかもしれない。

 弁護士役のエイブラハムもこれまでの「アマデウス」のサリエリなど「悪役」的配役のイメージがあり、最初は見ていてやや「抵抗」がある。顔だけ見ていると「悪人面」である。クレッチマンも同様である。「戦場のピアニスト」のやや「非ナチ的」ドイツ人将校のイメージがオーバーラップする。

 それにもかかわらず、映画を見てゆく内に3人ともあまり役に違和感、抵抗感はなくなってくるのだ。それは何と言っても、3人の演技力から来るのであろう。元全米ライフル協会会長でタカ派のヘストンは「地ではないか」と思われる演技である。彼は私生活では実際は「痴呆症」が現れ、最後の演技になるかもしれなかった−と言われる。

 メンゲレは初めて会った息子の詰問に対して、「動物は自然淘汰する。しかし人間は弱い劣った者も保護され生き残る・・。こういうことは望ましくない。だから「われわれ」が自然の摂理に従って選別行動してきた・・。」という意味のことを述べるくだりがある。これらのことばこそがヒトラーを頂点にした「ナチの傲慢」としか言い様がない点なのである。「われわれが神に代わってユダヤ人(他の「劣等民族」も)を殲滅するのだ。」という意味なのだ。そも神以外に、人間の中で誰がそういうことを決定できるのであろうか?「神への冒涜」としか言い様がない。

 広い意味での「戦争」と「平和・共存」は、人類の歴史上でせめぎ合ってきた。その一方の極がナチの犯罪であり、対極が「平和共存追求」の動きである。そういう意味で、この映画が扱っているテーマは「その時代だけの特殊なこと」ではなく、現代でも世界中に散見される重要な問題である。

 「青年らしい正義感」を持つ息子へルマンは、少年時代周りにいじめられた自分の「アイデンティティー」を探して父に会いに南米に渡る。彼は初めて会った「父」に反感と憎悪をもち、ナチが犯した罪に食い下がってゆくが、父には完全に克つことが出来ない。そして心の隅では完全に父を憎みきれない。警察にまで「告発」しようとしても、どうしても「父を売る」ことは出来なかった。正義と血のつながりの板挟みに陥ったのだ。

 この二人に絡むのが弁護士役のエイブラハムである。彼は完全に「被害者、正義の側の人」を代弁している。あくまで「世界の多数派」の代表を演じている。そしてこう言う、「われわれは許してはいない。これからも追求してゆく」と。事実もそうだが、こうしないと、この映画はただの「父子の葛藤」映画になってしまう虞がある。

 もう一つの問題は、現在にも普通に見られる事柄である。先述のように、「アウシュヴィッツの殺人者・メンゲレの息子」は物心ついた時から、地域社会や学校で差別されてきた。味方になるべき教師たちも仲間のいじめを無視・見て見ぬ振りしている。本来なら「殺人者・犯罪者」はともかく、その妻・子には何の罪もないはずだ。しかし誰ひとり「味方」はいない。それでも彼は「グレ」なかった。

 同様なことは、日本でも見かけられる。「極東軍事裁判」で「A級戦犯で死刑」になった東条英機の家族は言うに及ばず、普通の殺人事件の犯人の家族も似たような経験をしているはずである。「差別」というこのような卑しい心根は「村八分」の日本だけでなく、どうやら世界に共通の事実であるらしい。映画の扱ういくつかのテーマは、どこかで現在につながっているのだ。

 私はこの映画を見終わって、通常あるはずの鑑賞後のある種の「快感」が全くなかった。それは例えこの映画の結末のように、「殺人者で逃亡者で世界中が探していた男」の死が確認されたからといって、何一つ歴史上の問題が解決されないからである。あのアウシュヴィッツの事実やホロコーストの現実は依然そのままである。この映画は歴史の一つの節を象徴しているが、人類がかかえる大きな問題をわれわれに提起してくる。そういう意味では、大変「重い映画」ではある。しかしながら、特に若い人たちには、「一見の価値」があるだろう。映画のあの青年を、「自分に置き換えて見る」ことも出来るから・・。

私のおススメ度★★★☆(5★が満点、☆は半分)
歴史物のこういう類のストーリーが好きな方には、キャストの素晴らしさ、彼らの好演もあって、お薦めできる。しかし上述のように、大変むずかしいテーマ・内容をもつ映画であるから、あまり「一般受け」はしないかもしれない。だから、こういう映画を扱う配給元には敬意を表したい。
(筆者とのつながり)・・・ある日のこと、映画の配給会社「アルシネテラン」からメールが入った。どうやら、このサイトの「アウシュヴィッツ強制収容所」が担当者の検索に掛かったらしい。「試写会に来ませんか?」というものだ。私はサイト内で、この映画の父のメンゲレについて触れていたのだ。それにしても、岡山〜東京は遠い。担当者は「HPで近くに感じたので、まさか関東以外とは思いませんでした」と仰った。これがネットのすごい所である。しかし、「これも何かの縁、せっかくだから・・」と思い、長距離夜行バスで東京まで往復した。これもアウシュヴィッツが取り持つ縁だろうか。試写会は、内容は深刻だが「地味な映画」だけに配給元が懸命に宣伝する姿勢が見て取れた。(担当者)

アウシュヴィッツ強制収容所 アウシュヴィッツ強制収容所/メンゲレ
PAGE TOP


不都合な引用、記述がありましたら、お知らせください




























配給会社アルシネテランから
 
お世話になっております。映画配給会社アルシネテランのMです。東京は蒸し暑くなってまいりました。
岡山は気持ちの良い暑さなのかなぁ、と想像します。
  
さて、貴サイトの「マイ・ファーザー」ご感想を読ませて頂きました。
本作品をあんなにも味わって下さって本当に嬉しく思いました。
 
ドイツシュレーダー首相の演説内容も、繰り返し読みました。
国のトップとして真摯に歴史に向き合い、それを分かりやすく、また真摯に伝えている。
その姿勢に胸を打たれました。
 
全てが円満に解決されると言う事は、絶対に有り得ない、終わらない問題を
この映画を見て実感しました。一人でも多くの人の心に残ればと願っております。

                 
2005/6/13 アルシネテラン・担当M様