船内巡り
 
身辺も一段落したので、一通り船内を回ってみることにした。最下層は当然「自動車用デッキ」である。船客部分は、全部で三つの階からできており、最下階が出入り口、2等B(大部屋)とデューティーフリーショップである。飛行機のショップは、店はなくカタログを見て注文するのだが、船の場合狭いながらもちゃんと商品が並んでいるのがよい。値段もまずまずであった。
 
 既述のように、むかしフランスからイギリスへ行くのに、ドーヴァー海峡フェリーで渡ったことがあった。この時のデューティーフリーショップ(免税店)は、大きな店で地方空港のそれと同じ位の品揃えであった。後で知ったことだが、イギリスは酒が高いので、イギリス人は酒購入のためだけにフェリーに乗る人もいるという。しかし、この関釜フェリーの場合、客は筆者以外には見あたらず、いつ通りかかっても そんなに客は居なかった。このフェリーが、観光客よりも生活者によく利用されているということだ。


(左)関釜フェリー公式サイトより転載


 次に2等B船室をのぞいてみた。たくさんの小ブロックからなり、ひとつのブロックは10−20人くらいの定員で、カーペット敷きに毛布と枕が積んであり、すでに半分くらいの人が利用していた。寝転がってウォークマンを聞きながら本を読んでいる一人旅のGパンの青年、座ってトランプをしている3人の若い娘さんたち、すでに酔っぱらって口を開けて気持ちよさそうに寝ている中年のおじさんなどいろんなひとがいた。誰も静かで騒いでいる人は居なかったが、当然の事ながら、話していなければ誰が日本人で誰が韓国人か見分けはつかなかった。目につくのは、バックパックの白人学生二人だけであった。

関釜フェリー内部 
(パンフレットより)
 

 次の2等Bの二段ベッド室でやっとあの 「おばさんたち」に出会えた。彼女らは「自営業」のはずであるが、いつも一緒に行動している。不思議である。しゃべりはハングル語なので分からないが、日本で言う世間話の感じである。どうも食事は手弁当かカップラーメンのようだ。そこには(船に乗って外国へ旅する)という雰囲気はない。生きるための生活そのものである。

 これらのフロアーから入り口のロビーを通って階段を上がると、自動販売機のあるフロアーがあり、食券発売カウンターの奥に食堂があった。メニューはいくつかの韓国料理をのぞけば、豚カツ、カレーなど日本の大衆食堂なみのものであった。メニューを見て注文して食べている人たちは、日本人が多い。韓国語を話す男の一団がどやどやと来たが、みんな同じ弁当を食べていた。しばらくして、あの「オバサンたち」の一人が入ってきたが、手には韓国製のカップラーメンをもち、給湯器からお湯を注ぐと、そそくさと出ていってしまった。

                             

 それはともかく、食堂の窓から見える対馬海峡、朝鮮海峡を航行する船や広々とした海の雰囲気は、瀬戸内海のフェリーのそれとはずいぶんと異なる。半島や島影はもはや見えない。ふと、日露戦争(1904-05)の「日本海海戦」のことを思いだした。あのとき、ロシアの「バルチック艦隊」の来襲に際し、この海峡付近にいた日本の見張り船が、自分を犠牲にして無線で連絡し、東郷元帥率いる帝国海軍が大勝したのだ。

 ふと思いついて、携帯電話を持ち出してスイッチを入れると、何と電波は充分、「三本線」である。当たり前のことだが、岡山にかけると通じた。この船は対馬の近くを通るので、島影が見えなくても、海上と言うこともあって、遠くまで電波が飛ぶのである。後の話だが、驚いたことに携帯電話は、翌朝プサン港入港直前まで使用できたのである。