2 バルセロナの旧市街・ゴシック地区で (スペイン)
 それはスペインのバルセロナにあるゴシック地区でのことであった。この街は後にオリンピックが開かれるのであるが、それでなくても観光資源には事欠かない。有名な建築家アントニオ=ガウディの作ったサグラダ・ファミリア(聖家族)教会、ピカソ美術館、コロンブス記念柱、コロンブスのサンタ=マリア号の復元船など歴史、美術の好きなものなら堪らなく魅力のある街である。また政治の街がマドリッドなら、経済の街がバルセロナであり、日本で例えると、ちょうど東京と大阪の関係に当たる。ここの市民感情、歴史から言っても、アンチ・マドリッドのところがあり、それも似てなくもない。


 さて、ここからが本題である。いつもながらの「日本食買いだし」が一段落し、市内を観光しようと言うことになった。この街で一番歴史のあるところが、ゴシック地区である。その中心はカテドラル(大聖堂)で、13−15世紀の建築である。私たちは一枚物の観光地図を片手に古めかしい路地を歩いていた。ちょうど前方にアメリカ人かイギリス人の団体およそ10数名ほどがガイドに連れられ て歩いていた。ガイドはカテドラルの入り口で、「昔こんなことがあった」と英語で説明していた。私たちも何気なしにそれを聞いていた。

コロンブス記念柱(コロン=スペイン語、コロンボ=イタリア語、カランバス=英語:筆者写)

 ふと気がつくと、ワイワイいう声は、聖堂内に消えていた。急に静寂が訪れた。後ろから二人くらいの走る足音が近づいてきた。「こんなところで走るヤツもいるんだなあ」と思っていると、後ろからどんと背中を強く押され路上に両手をついた。一瞬わけが分からなかったが、立ち上がって後ろを見ると、妻がハンドバッグを引っ張られながら、石畳の上を「ギャー」とも「きゃー」ともつかぬ声を出しながら引きずられている。


                            
襲われた場所付近
 わたしを突き飛ばした男はとって返し、妻の方へ向かっていた。わたしは我に返ると同時に意味が飲み込めた。瞬間的に空手のかまえをし、ブルース=リーのように、「キエー」とか何とか叫んでいた。そして男に近づいていった。それを見た男は、ハンドバッグから手を離し、もと来た方へ走っていった。もう一人もその後を追った。それでもわたしはまだ、逃げる男達に向かってその構えのまま叫びつづけていた。

 傷だらけでぼろぼろになってはいたが、結果的にバッグは無事だった。妻は擦り傷や少しばかりの打ち身はあったけれど、何とかそのまま旅行をつづけられる様で、病院に行くほどではなかった。     


  大聖堂(カテドラル)

  興奮が冷めるまでに数分を必要とした。それから周りを見回すと、二人連れの老婦人が10mほど先から見ていたことに気づいた。彼女らが「ポリシア」と叫んだので、警察に行かなくてはと、初めて気がついた。何人にも尋ねながら、やっと警察にたどり着いた。しかし、予想に反して警察の対応は冷たいものであった。ひととおり話を聞くと、調書を作るでもなく、「はいごくろうさん」という感じであった。「被害がないのだからもういいではないか」という感じであった。さらに話そうとする私に向かって、制服の男はぎこちない英語でこう言った。「ここは治安警察だ。もっと言いたいなら、ふつうの警察に行け」と。わたしは、そこに警察が2種類あることなど知らなかった。スペイン語が出来ない私たちは英語で言うし、彼らは英語があまり得意ではない。もうこれ以上粘っても、他所に行ってもダメだと諦めることにした。惨めな気持ちで警察を後にした。

 妻に「バッグには何が入っていたの?」と聞いて、わたしは愕然とした。化粧セットとハンカチとブラシだそうである。金は私が持っていたし、パスポートは、ホテルの金庫に預けていたのだった。ハンドバッグから手を離した方が、痛い目に遭わずにすんだかもしれなかった。もうひとつ、わたしは生まれてこの方、一度も空手を習ったことはない。あの時何故とっさに「空手の構え」がでたのか、いまもって不思議である。  

 あれだけ強く突き飛ばされたわたしだが、幸いにも「ムチ打ち」にならずにすんだし、金銭的には被害はなかった。日本に帰ってからだいぶ経って、イタリアで「旅行会社の添乗員がバッグを取られまいとして離さず、路上を引き回されて死亡した」というニュースが報じられていた。妻の方は、体の傷や服の穴が残ったが、無事だった。不愉快の代わりに、教訓も得た。観光地では、決して独りぼっちにならないこと、まわりの状況をいつも把握すること、大声を出すことやパスポート類はホテルに預けること、バッグやカバンには取られてもいい物を入れること(大切なものは身につける)など、「よい勉強」をさせてもらった。