連合軍墓地を丁寧に見過ぎたので、もう一つ残っている博物館のための時間が無くなりかけていた。ここはどうしても見たかったから、汗をかきかき小走りで町はずれまで行き聞いてみたが、なかなか見つからない。探し回って、やっと寺院のそばにある粗末な竹と茅葺きの建物にたどり着いた。
粗末な外観は、当時の収容所に似せて作ってあるという。ここは珍しく宗教団体が経営している施設である。お布施程度の入場料を払うと、暗い室内に展示があった。収容所で使った生活用具、やせ細った連合軍捕虜の写真、捕虜の服や手製の靴、錆び付いた武器、地図や説明などが雑然と並べられ、若者を中心に外国人が熱心に見ている。どの展示品も、「物言わぬ戦争の生き証人」であったが、私がいちばんショックを受けたのは、連合軍捕虜がスケッチブックに描いた収容所内の生活であった。風呂代わりの水浴び姿が褌一枚である。当時の日本兵は褌姿でも別に構わないが、連合国兵士にはつらかったであろう。また、傷口に蛆がわき、手で取っているところもあった。
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内部展示資料・当時の新聞 (筆者写) |
しかし何にもまして強く焼き付いたのは、拷問の絵であった。空腹のあまり食べ物を盗んだ兵をロープで縛ってぶら下げて叩いたり、座らせた足の間に棒を入れて立てなくなるようにしたり、考えられるありとあらゆることをしている。
帰国後、インターネットで調べてみると、元捕虜のFred Seiker氏の”Lest We Forget"(忘れないために)他いくつかの関係サイトがあった。Seiker氏のスケッチによると、次の様であった。日本兵にたまたま通りすがりに挨拶しなかった者が、三角柱の木を並べた上に一時間正座させられたり、
空腹故にフルーツ缶を盗んだ者が、炎天下に裸で48時間木に結わえられたりしたという。(まるで江戸時代だ!)日本軍には「捕虜に関するジュネーブ協定」などは、さらさら守る気もなかったらしい。
(C)Fred Seiker's Web-site (Click above)
映画の中では、なぜかこんなに非道い場面は出てこない。イギリスが作った映画だから、当然よく調べているはずだ。イギリス人の中には、捕虜経験者もたくさんいるのだ。それにもかかわらず、あまりに残酷すぎて出せなかったのだろうか。それとも製作者が、そんなことは信じたくなかったのだろうか。あるいは残酷すぎて、映画のコードに引っかかるので省いたのだろうか。今もって、理由は分からない。
映画では、せいぜい言うことを聞かなかった英指揮官を、灼熱の炎天下に立たせたり、何日も重営倉に入れるくらいだ。(これでも結構ひどいが)
ふつう、リアリティーを出すために、映画は事実を誇張して表現することが多いが、このような反対の例は数少ない。
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上はいずれもSeiker氏ホームページより転載
These 4 picutures were reprinted from Mr.Seiker's Home-page (C)Mr.Seiker |
さて、話は博物館に戻るが、不思議なことに、ここには、あの「戦場にかける橋」周辺にいた日本人たち、特に戦争経験のありそうな老人たちの姿がなかった。彼らはなぜここに来ないのだろうか。あの橋は、単にむかしを懐かしがるためだけに行ったのか。私の知っている人にも旧日本軍経験者がいるが、私が旧軍の残虐行為の話に触れると、きまって機嫌が悪くなるか、無視しようとする。思い出したくないことがあるのだろうか。
考え事をしていてハッと気が付いた。バンコク行きの最終列車の出発時刻が迫ってきていた。あと5分足らずだ。駅までは20分は優にかかる。しまった!乗り遅れた!! 帰れなかったら、今夜の宿も探さなければならない。頭の中が真っ白になった。あさっての朝の便で日本に帰るのだ。明日もう一日あるが、格安航空券だから、万が一乗り遅れると、別のティケットを買わなければならない。ぜひとも今日中には帰りたかった。
顔を引きつらせて、博物館出口横の売店の婦人にそのことを言うと、にっこり笑って「大丈夫です。まだバスがあります」という。思わず飛び上がった。長距離バスがあるとは知らなかった。勉強不足だった。彼女は門まで私を連れて行くと、二輪のバイク・タクシーのお兄ちゃんに二言、三言指示をした。「これに乗りなさい。バスセンターまで乗せてくれるから。」かなり流暢な英語でこういった。礼を言う間もなく、バイクは猛スピードで町中を飛ばし始めた。私は振り落とされないように、しがみつくのが精一杯であった。こうして、発車5分前のバンコク行き冷房つき、ミネラルウオーターつき長距離バスに乗ることができた。合掌。
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