中央墓地 (3) Zentral Friedhof(3) 32A
フランツ・フォン・スッペ Franz .von SUPPE
(本名 フランチェスコ=エツェキエーレ=エルメネギルド=カヴァリエーレ=スッペ=デメッリ !!)
(墓番号:32a-31)
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ベートーベンの向かって左手の区画にある。墓は上に天使、真中に胸像、下に名前がある。
フランツ フォン スッペ
1810−1895(墓碑銘)
オッフェンバックの伝統の中で、彼の音楽はジング=シュピール(ドイツの民俗的喜劇的歌芝居)の新しい形として、喜歌劇を大成功に導いた。(以下略)(GH)
日本ではあまり知名度はないが、喜歌劇「軽騎兵」序曲で知られている。名前を知らない人も、聴くとすぐに分かる曲である。小学校の音楽の授業で、鑑賞することもあるかもしれない。
(写真・筆者写) |
ヨハネス・ブラームス Johannes BRAHMS
(墓番号:32a-26)
墓は高さが私の身長の倍以上もある大きなものである。写真で分かるように、例の髭のブラームスが楽譜を手にして、もう一方の手を頭に当てている。石には名前と年号が彫ってある。
ブラームス 2.5. 1833 - 3. 4. 1897 (墓碑銘)
ドイツ高ロマン派古典主義の主な代表者、及びヴィーン古典派の完成者と見なされている。4つの交響曲、ピアノ協奏曲、合奏付きの合唱曲と室内楽を書いた。1862年からヴィーンに落ちついてからは、ヨハン=シュトラウスなど多くの友人と付き合うようになった。 (GH)
私的には、この人もわたしの大好きな一人である。ずいぶん前にヨーロッパ・アルプスへ行き、山の上から氷河を見ていると、いきなり頭の中で交響曲第2番の第一楽章の冒頭が流れ始めた。何故かピッタリとハマった。後で帰って調べると、彼が避暑で、オーストリアのアルプスに近い田舎にいたときに、作曲した曲なのだった。彼は毎年、アルプス近辺で静養していたのだ。また、シューマンやその妻クララとの交際の仕方も、私の好きなタイプのストーリーである。
少し脱線するが、他の曲ではずっと昔、まだヘルベルト=フォン=カラヤンが元気だった頃、大阪フェスティバルホールの初日に、ベルリンフィルで交響曲第4番を聴いた。良い演奏だった。カラヤンを嫌う人もいるが、個人的には彼のブラームスのあの独特な世界は好きだ。終了後いくら観客が拍手をしても、何度も出てくるだけでアンコールはなかった。そこでせめてサインでもと思って楽屋に行くと、彼はすでにホテルに帰っていた。ガッカリしているところに、ユダヤ人のコンサートマスター、ミッシェル=シュヴァルベが通りかかり、「私のでも良かったら」と快くサインをしてくれたことがあった。後日、チェリビダッケの指揮で同じ交響曲第4番を聴いた。時代は前後するが、同じベルリンフィルの「常任経験者」でも、ここまで解釈が違うのかと思ったものだ。
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ヨハン・シュトラウス(子) STRAUSS, Johan Sohn (妻との共同墓)
(墓番号:32a-27)
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ブラームスの隣である。高さはブラームスよりもさらに高く、彫刻も手が込んで「芸術的」である。
ヨハン=シュトラウス 1825−1890と彼の妻アデーレ
1856−1930 (墓碑銘)
彼のオペレッタは、世界中の劇場で熱狂的に迎えられた。そして、彼はヴィーンオペラ黄金時代の創立者と見なされている。彼の音楽は軽やかで陽気である。ワルツは彼の作品の中で、特別なものとなっている。彼はワルツを、素朴で簡素な(ビーダーマイアー)ダンスから、交響的器楽的コンサートワルツへと発展させた。(GH)
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→ウィーン市立公園のヨハン・シュトラウス像(ライヴ・カメラ24hrs.:wien.at)
ヨハン・シュトラウス(父) STRAUSS, Johan Vater
(墓番号:32a-15)
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ヨハン=シュトラウス(子)の奥の方で、ヨ−ゼフ=シュトラウスとは道を挟んでいる。
宮廷音楽監督
1804年3月14日ヴィーン生まれ
1849年9月25日ヴィーンにて死亡 (墓碑銘)
ヨーゼフ=ランナーと共に、ワルツというものを世の中に認知させ、ワルツはその時代のもっともポピュラーな舞曲となった。152のワルツ、32のカドリール(仏舞曲)、ラデツキーを含む16のマーチを作曲した。1825年には自分のオーケストラを創設した・・・。 (GH) |
ヨーゼフ・シュトラウス STRAUSS, Josef (母との共同墓)
(墓番号:32a-44)
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マルクス墓地からの移転墓(既述)で、すでに述べたようにオリジナルは小さな貧弱なもの、しかも母との共同墓である。新墓の方がはるかに立派である。
作曲家 1827−1870 彼の母アンネ=シュトラウス
と共に1909年名誉墓地である中央墓地に埋葬される (墓碑銘)
ヨハン=シュトラウス(父)の第二子、父の望み通りエンジニアリングの学位を終えたが、ヴァイオリンもまた同様に習得した。後に彼は兄ヨハンに代わって、オーケストラを指揮するようになる。彼はワルツを主として250曲ほどを作曲した。
(GH) |
エドアルト・シュトラウス STRAUSS, Eduard
(墓番号:32a-42)
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ヨーゼフの墓とは、マリー=ヴィルトというオペラ歌手を挟んで位置している。
作曲家並びに宮廷ホール音楽監督
1835年3月15日ヴィーン生まれ
1916年12月25日ヴィーンにて死亡
第二指揮者の叔父エドアルト=シュトラウスは
1910年3月24日−1969年4月6日 (墓碑銘)
ヨハン=シュトラウス(父)の末っ子で、1870年に自分のオーケストラを創設し、全ヨーロッパの演奏旅行を成功させた。その後兄のオーケストラに加わり、1871年に音楽監督になった。明らかに兄に影響された300以上もの舞曲やワルツを作った。(GH)
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フーゴ・ヴォルフ WOLF, Hugo
(墓番号:32a-10)
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ちょうどベ−トーベンの墓の後ろになり、大きな木の陰で少し薄暗い。上部に、顔のレリーフがある。
フーゴ=ヴォルフ 1860−1903 (墓碑銘)
後期ロマン派、19世紀における最も重要なリートの作曲家である。彼の歌曲は、それぞれの歌詞のニュアンスが図示されて、歌詞に対する考えが示されているのが特徴である。ヴィーン音楽院で1875−77迄学んだ。彼は、音楽批評家と妥協をしなかったので、多くの敵を作った。 (GH)
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クリストフ・ヴィリバルト・リッター・フォン=グルック Von GLUCK
(墓番号:32a-49)
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少し離れているが、モーツァルトの墓の真後ろ延長にある。余談であるが、姓の前に「von」が付くのは、貴族である。ベートーヴェンの「van」は、オランダ系の名前で貴族ではない。
気高く偉大な音楽家であり、まさに活動的なドイツ人であり、
誠実な夫でもあったC.R.グルックは、132回目の生誕祝いに
立てられたこの墓地に、1846年埋葬される。
1787年11月15日死亡 (墓碑銘)
イタリア及びフランスオペラの慣習(しきたり)を破った、シリアスオペラ(オペラ・セリア)の改良者と見なされている。各地を旅して、最後に1752年にヴィーンに落ち着いた。オペラ改革者としての彼の評価は、1762年の「オルフェウスとエウリディーチェ」と「パリスとヘレネ」に基づいている。 (GH)
(筆者写) |
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