京の名刹古刹
京都五山第五位・臨済宗・
万寿寺(まんじゅじ)
(東福寺塔頭・一般非公開・京都市)
錦綾山聖光寺 華厳寺(通称:鈴虫寺)



鐘楼門(室町時代・国重文・元三聖寺所有)










鐘楼門よりみる内部 「一般非公開」のためこれより中には入れない




浄土宗・錦綾山聖光寺(しょうこうじ)
大石良雄生母「熊」墓・安田善右衛門(天野屋利兵衛)墓・嵐寛寿郎墓 (京都市)





         




















本堂





大石内蔵助良雄生母「熊」松樹院墓(左)と安田善右衛門(天野屋利兵衛)墓(中央)




大石内蔵助良雄母「熊」墓 石刻は元禄四年 戒名は松樹院殿鶴山栄亀大姉 同名の位牌が寺にあるという





大石内蔵助良雄母「熊」墓の側面
「施主 浅野内匠頭家臣 大石内蔵助良雄、八幡 大西坊専貞法印」とある
注:「大西坊」の住職、専貞は良雄の実弟 良雄は大西坊に立ち寄り仇討ちの大願成就を石清水八幡宮に祈願したといわれる
(HP「八幡散策」より)

<参考および引用文献>
Wikipedia:池田由成「熊」の父は岡山藩池田氏の本家筋

柏原新著「赤穂義士の歩いた道」 文芸社 1890yen
Google Books:検索「
天城池田氏 家老垣見氏」→p130〜131「大石良雄母お熊のこと」
・・・於熊(おくま)は・・・(天城)藩主池田由成の娘で・・・第一家老垣見蔵人に預けられ養育された(養女)・・・・・のちに赤穂藩筆頭家老大石良昭に嫁す・・・・・
http://books.google.co.jp/books?id=fqx3h8alE_YC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false

デジタル大工の歴史昔話:岡山城四方山話
・・・・良雄が主君の死を経て討ち入りを決めたとき、熊子と同じ足跡をたどり京、山科に移る。大石家の故郷は京・近江であり、天下への思いを胸に秘めた時、信用できる人物の揃っている京しか策を練る地はなかった。
良雄は母の実家の苗字、池田を名乗る。江戸では垣見五郎兵衛だ。垣見氏は母の養父であり、五郎兵衛は母の兄、由有の名だ。良雄の息子、主税は垣見左内と名乗る
天城池田家はいつも良雄の味方であり、この名を名乗ることで勇気が出て、自信につながった。・・・・(部分抜粋)
http://www.8787pc.com/yomoyama/yomo_okayama.html

境界争いの歴史的考察(4) - 兵庫歴史研究会
池田家 その4
 
・・池田家の系図と直接関係は有りませんが、一族に関わる話として次のようなことがありますので少し述べて見ます。
 これは大石内蔵助に関わることです。
 小牧長久手で討死した輝政の兄之助の子、由之は幼少のため家督相続が出来ず、輝政に預けられ、その後備前で過ごします。この人の子に備前藩家老を勤めた池田出羽由成 ( 天城三万二千石) がおります。由成は四男八女の子沢山で六女の「くま」は由成の用人垣見蔵人 (千石取り) に育てられ成人。万治元年 (一六五八) 赤穂浅野藩家老大石良欽の子権内良昭に嫁ぎ、翌年長男松之丞良雄 (内蔵助) が生まれます。父の良昭は若死にした為、良雄は十五歳で祖父の養子となり、延宝元年(一六七七) 十九歳の時祖父が死亡 (六十歳) 家督を相続し、城代家老を務めることになる。公儀の仕事としては元禄七年 (一六九四) 備中松山城改易の城受け取に出向き、武名をあげ注目されました。七年後に自身が赤穂城を明け渡すことになろうとは悲運とはいえ誠に切ない話です。
 大石家は大津の出身で、初代は豊臣秀次の側近として仕えた大石久右衛門良信で、淀君に秀頼が生まれたため、主人秀次は高野山に追放となり切腹、致仕し生国江州栗田郡大石村に退転、子供で次男の良勝が常陸笠間の浅野長重に仕え、大阪夏の陣の功績により家老に取り立てられ、代々内蔵助を名乗ります。
 良信、良勝、良欽、良昭、良雄 (主税) と続きます。吉良邸討ち入り前、但馬に返された母の手許に残された三男大三郎は父の顔を知らず、元禄十五年七月五日豊岡で生まれ、一時他家に養子に出されますが、また仙石家に引き取られ、正徳三年十月一日、十二歳の時母りく、姉るりとともに芸州浅野本家の浅野安芸守綱長に父と同じ千五百石で召抱えられ、父の討ち入り仲間、武林唯七の従兄弟、武林半之らに迎えられ広島に入り、子孫は今日に至ります。内蔵助は元禄十六年二月四日細川家で切腹、享年四十五歳。
 浅野家は初代が笠間藩主長重のあと長直が赤穂五万三千石に移封され、長友、長矩と三代続き、元禄十四年勅使饗応役のときに、長矩が松の廊下で吉良上野介に討ちかかり即日切腹、お家断絶取り潰しとなります。弟大学を跡目に願い出ますが却下、家臣は翌年主君の仇を討ち本懐を遂げます。
 内蔵助が江戸に下るとき用いた氏名が池田に関係のある人の名を借り、また由成の一族からいろいろな支援を受けています。
 まず池田は母の実家の苗字で、久右衛門は初代大石良信の名を使い池田久右衛門と称し、江戸へ着いてからは垣見五郎兵衛といい、主税を垣見左内としたのは、岡山天城の母の養父垣見の名をかり、五郎兵衛は母くまの兄由有の名前です。後世の芝居は江戸くだりで面白くかかれ、日野家の用人などとしていますが、これは戯作者の嘘で、目立たぬ様ひっそりと人目につかぬよう下向し、この費用も由成の弟由英の子で、山科にいた三尾豁正長の支援を受けています。・・・  (部分抜粋)


https://hyogorekiken.hatenadiary.org/entry/20050616/p
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安田善右衛門(天野屋利兵衛)墓





「鞍馬天狗」の嵐寛寿郎の墓



臨済宗・妙徳山華厳寺(けごんじ・通称:鈴虫寺)
(京都市)



























   
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Date: June20-22, 2012, Digital cameras: SONY F828 & PANASONIC DMC-FT3