下関関門界隈・歴史散歩
(山口県下関市)



源平合戦最後の地 壇ノ浦古戦場址 八艘飛びの源義経(左)と平知盛(右) 現みもすそ川公園 奥は関門橋







幕末の下関戦争時の長州藩の長州砲レプリカ5門

 下関戦争(しものせきせんそう)は、幕末の文久3年(1863年)と同4年(1864年)に、長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国との間に起きた、前後二回にわたる攘夷思想に基づく武力衝突事件。敗れた長州藩は攘夷が不可能であることを知り、以後はイギリスに接近して軍備の増強に努め、倒幕運動をおし進めることになる。
 フランス東洋艦隊のバンジャマン・ジョレス准将率いるセミラミス号とタンクレード号が報復攻撃のため海峡に入った。セミラミス号は砲35門の大型艦で前田、壇ノ浦の砲台に猛砲撃を加えて沈黙させ、陸戦隊を降ろして砲台を占拠した。長州藩兵は抵抗するが敵わず、フランス兵は民家を焼き払い、砲を破壊した。長州藩は救援の部隊を送るが軍艦からの砲撃に阻まれ、その間に陸戦隊は撤収し、フランス艦隊も横浜へ帰還した。アメリカ・フランス艦隊の攻撃によって長州藩は手痛い敗北を蒙り、欧米の軍事力の手強さを思い知らされた。・・                  (以上はWikipediaより部分抜粋)





















壇ノ浦の海際にある赤間神宮 戦いの末、入水した安徳天皇の墓陵がある









関門海峡壇ノ浦の赤間神宮下にある「朝鮮通信使」上陸の碑 通信使は瀬戸内海の鞆の浦、牛窓などを経由して江戸へ向かった
赤間神宮は壇ノ浦で入水した安徳天皇を祀る神社 天皇は平清盛の娘徳子の子






日清戦争の馬関条約(下関条約)の締結地 春帆楼の日清講和記念館






馬関条約(下関条約)の締結の部屋 正面に清国全権の李鴻章、左手に日本国全権伊藤博文が着席した





浄土宗 引接寺







李鴻章道の一部





下関観光案内図



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