どうした?どうなった家康? 家康関係場所写真
家康に縁のある所を巡りました

真言宗 鳳来寺 本堂 家康父松平広忠と於大の方が当寺で祈願、家康が生まれたとされる 愛知県鳳来町


岡崎城 復興天守 家康の生地 祖父の代から松平氏の居城 愛知県岡崎市
家康父広忠の死後、岡崎城は今川の支城となり城代が置かれた
徳川時代は譜代重臣本多氏居城明治に至る

岡崎城 案内マップ 愛知県岡崎市


岡崎城 「東照公産湯井」 家康が産湯を使ったとされる井戸 この城で三歳の家康は離縁された母と別れた


岡崎城 家康立像



有名な話だが弱小の父松平広忠のため元康は今川氏の人質(配下)で成長した




桶狭間古戦場祉 1560年 織田信長と今川義元の合戦 この地で信長圧勝し、義元は討ち死(享年42)
この時今川配下であった松平元康(家康)は大高城に兵糧を届けていた 桶狭間で今川義元が戦死後、
元康(家康)は岡崎城を取り戻し今川家から独立
織田と同盟を結ぶ(清州同盟) 愛知県豊明市


浜松城(模擬天守) 野面積みが特徴 岡崎城を子の松平信康に譲った家康は1570年浜松入城、城域や城下町を形成した
関ヶ原以後幕府の重鎮が多く出たので「出世城」といわれる 静岡県浜松市






三方原古戦場碑 1572年 静岡県浜松市
家康人生の二大危機のひとつ:三方原の戦い 武田信玄X家康+織田信長 



三方原 犀ケ崖 反撃に出た家康軍の急襲で武田軍を追い落とした場所といわれるが後世の資料で確かではない
全体的には家康軍は多くの家臣を犠牲にした大敗であった


「若き日の家康公」像 浜松城
「三方原の戦い」で武田信玄に大敗した家康は這々の体で浜松城に逃げ帰った




長篠設楽原合戦 1575年 通常「長篠の戦い」といわれるが主戦場は設楽原である 愛知県新城市
現代に再現された馬防柵 信長・家康連合軍の鉄砲隊が活躍したといわれる場所 信長方の圧勝であった


設楽原(長篠)の決戦地図 新城市設楽原歴史資料館 愛知県新城市

   
設楽原(長篠)の戦い決戦前夜の説明 設楽原(長篠)の決戦の説明 新城市設楽原歴史資料館 愛知県新城市 
 

長篠設楽原合戦 設楽原の連吾川を見下ろす丘上の場所 「家康物見塚」 家康がいたといわれる場所
この近辺からは未だに銃弾がでるという

設楽原(長篠)の戦い後の説明 新城市設楽原歴史資料館 愛知県新城市




小牧山城 天守閣 (模擬城) 元は織田信長の城 後年徳川家康は対秀吉作戦として小牧山城山麓に堀や土塁を作った
実際にはにらみ合いがあったが大規模な戦闘はなかった(小牧・長久手の合戦1584年) 愛知県小牧市


小牧山城 山麓下部に造営された家康時代の堀・土塁の復元 愛知県小牧市





国史跡 長久手古戦場 1684年 (小牧長久手の合戦) 愛知県長久手市
羽柴秀吉X家康+織田信雄 本能寺で織田信長死亡後の権力争い


長久手 秀吉側の大垣城主・池田恒興は家康の本隊と会い戦死 その子元助も戦死
その場所に恒興(勝入斎)の塚が立つ 長久手合戦時の秀吉軍の死者は徳川軍の約5倍の大敗といわれる
その後家康は1586年から長い間秀吉配下(豊臣政権)の将とした時を過ごした


1586年家康は浜松城から今川無き後の駿府に移る 1568年の武田信玄の駿河侵攻で駿河は荒れていた
家康はかつて「今川館」があった場所付近を大改造し駿府城を造った



関ヶ原古戦場跡 1600年 家康が権力を握った天下分け目の戦い 奥が西軍石田三成軍方 家康の東軍大勝利 岐阜県関ヶ原町


関ヶ原古戦場跡 三成陣地から見下ろす決戦地と家康陣地


関ヶ原古戦場跡 桃配山 丘上にある家康陣地跡 岐阜県関ヶ原町








家康以後の徳川家の本拠地 江戸城 大手門 東京都


江戸城 巽二重櫓


江戸城 北桔梗門 天守台の裏手にある 平川濠は石垣が高い場所


江戸城は家康以後三代で完成 天守台 明暦大火後は台のみを造り上部は造られなかった 担当は前田家








家康の母於大の方・傳通院の墓 浄土宗・傳通院 東京都

家康の母於大の方・傳通院 1602年七十五歳で没 傳通院像 傳通院蔵


この墓地には千姫(秀忠娘)の墓の他多くの徳川家縁の墓がある




国史跡 二条城 (元離宮二条城) 京都市中京区
1603年家康は後陽成天皇から征夷大将軍を任命、家康は伏見城から二条城に移り御所に参内した
家康をはじめとする徳川家が上洛時の宿所として造営した城 家光の入城後は将軍の入来は家茂、慶喜まで途絶えた


国史跡 二条城 二の丸御殿と二の丸庭園




浄土宗総本山 知恩院 三門 徳川家の宗派浄土宗の総本山である知恩院を家康は
慶長八年永代菩提所と定めて寺領703石を寄進 家康の保護に続き二代秀忠は三門を寄進
した


知恩院 御廟 法然上人の遺骨を祀る根本霊地




名古屋城
関ヶ原後、豊臣家が残るなか家康は九男義直のために名古屋に城を築くことを定めた
徳川御三家・・尾張大納言




駿府城(府中城) 有名な「家康隠居城」 復元巽櫓と東御門 静岡市
家康は1605年将軍職を辞し秀忠に譲り(大御所政治)、1607年駿府に移った なお駿府は以前今川氏の城(今川館)でもあった


駿府城(府中城) 復元巽櫓内の部屋 静岡市


駿府城(府中城) 復元模型図


駿府城本丸跡にたつ大好きな鷹狩りをする家康像




大坂城 元来の秀吉の城は1598年完成したが現在は地下に埋没、現在の遺構は1629年までの徳川秀忠による江戸期のもの
この姿は1931年に再建された鉄筋コンクリート製の模擬復興天守
1614~1615年の大坂冬の陣,夏の陣で大坂城は落城、豊臣家は滅亡した



豊臣の滅亡を確認した家康は1616年七十五歳病で死去 死因は現在では症状から胃ガンとされる


家康公遺言 石碑 岡崎城



家康の最初の墓所:久能山東照宮

楼門 「東照大権現」 後水尾天皇御宸筆の門額 1617年
久能山東照宮 遺言による家康最初の墓所 静岡市駿河区


久能山東照宮 国宝・社殿 死後翌年に秀忠が造営 静岡市駿河区
家康の遺体は死後即夜この地久能山に移された


久能山東照宮 神廟にある家康最初の墓所


久能山東照宮 家康神廟奥にある「家康愛馬埋葬場所」




鳳来山東照宮 父母の祈願で家康が生まれた因縁で造営 愛知県鳳来町

家光発案、家綱完成



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