私たちが住んだアルジェリア 


アルジェ中心部ののランドマーク、アルジェ・グラン・ポスト(中央郵便局)・新マウル様式


<相互扶助のアルジェリア人>

 これまで述べてきたように、基本的には「大家族・同族主義」の彼らで他人を信用しないが、条件さえ整えば全く別の面を見せる。いちばん身近なケースでは、他人が困っている時である。こういう時には、すぐに手を差し伸べることである。

 この国では自動車の車検制度がないので、車を輸入する時に多額の税金を払ってしまえば、あとは検査らしきものがない。従って街中の車にはとてつもなく古い物がある。それも半端ではない。ひょっとすると、独立した頃から走っているのでは?とも思える車が、プスプスいいながらヨタヨタ走っていることもある。日本だったらとっくの昔に「廃車」の車である。

 こういう車は特に田舎に多い。そうなると、路端にエンコして難渋している場合も多いが、通りがかりの車はすぐに停まって助けに行く。「押しがけ」でまた走ることがあるのである。もちろんそれでも全く動かないこともあるが、そこは「気持ち」の問題であるし、「お互い様」ということもあろう。

 話は変わるが、すでに書いたように、妻は昼日中にアルジェ中心部にある「フランス文化センター」に週三回通っていた。一台しかない車は、筆者が仕事先に乗って行っていた。そこで彼女は「市バス」を使うのである。アルジェに行った方はご存知であろうが、ラッシュ時は当然のこと、それ以外の時間帯でさえもバスはけっこう混んでいる。

 そういう時、妻は以下のような何度も体験をしたという。満員のバスは当然ながら身動きが取れない。日本のバスなら乗車時に金を払うか、降車時に乗車場所の番号を書いた紙とともに金を払う。ところがこの地はそういう仕組みではなかった。車掌がいても客の場所まで辿り着けない。いちばん最初に乗った時、妻は小銭をにぎってオタオタしていたらしい。するとそばの青年が、「金を渡せ」と言う。「??!」妻は何のことだか分からなかった。「切符がいるんだろ?」また青年は言った。そこで妻は小銭を渡した。するとバラの小銭は十人くらい客から客へと手渡しされて、車掌に渡った。車掌がパンチを入れた切符は、今度は逆方向にまた「空中輸送」されて、妻の手に渡ったという。

 その日の晩、妻は「今日は驚いた!」と前置きして、以上のような話をしたのである。わたしはその光景を想像して、日本と比較しながらただ唸るしかなかった。


<イスラムの「戒律」に忠実な国民>

 イスラム圏には共通のことであろうが、人々の中にイスラムの教えが生活の中に生きている。「戒律」とは、以下の5つである。
「アッラーはただひとつの神にしてアッラーの他に神はなし」と唱えること
一日に5回、マッカ(メッカ) の方向に向かってお祈りすること
貧しい者に施しをすること(喜捨「ザカート」という。)
年一回陰暦の「ラマダーン月」に毎日、日の出から日没まで断食をすること
ゆとりのある者は一生の間に聖地マッカ(サウジアラビア)に巡礼すること
 まず目につくのは、一日5回の礼拝である。町中のモスクの尖塔にあるスピーカーから、「アッザーン」が聞こえてくると、モスクが近くにある人はそこに行って、ない場合は家や仕事先で床に携行している小じゅうたんを敷いてお祈りをする。私も仕事場でよくその姿を見たが、声を掛けるのも憚られるほど真剣に集中していた。

 この国は「社会主義」と標榜しているが、街中に乞食の姿は多かった。「みんな」と言わないが、多くの者が路端にしゃがみ込んで通行人に手を出している彼らに気楽に小銭を渡す。これも「コーランの教え」である。私も何度かしたのだが、驚いたことに、「ショクラン(ありがとう)」とは言わない。「富者は貧者に施せ」というのだから、貰う方も卑屈ではない。

 イスラム暦のラマダーン月に1ヶ月の「断食」をするのも、最近の日本でも知られている。これは簡単に言うと、「日の出から日没まで」一切の水、ツバ、食べ物を口にしてはいけない。タバコももちろんダメである。もともとは、「一年に一度は貧者の気持ちになる」ことなのらしい。イスラム陰暦は毎年10日ずつ早くなってくるので、ラマダーン断食が夏に来ると、特に辛いらしい。

 夏場に水も飲めない、タバコも吸えないのであるから、当然イライラするし、ストレスも溜まる。交通事故も多くなるし、仕事の能率も極端に下がる。私の知っている商社マンは、「ラマダーン中は仕事になりません。従業員も取引先の相手も仕事をしませんから・・」と嘆いていた。

   筆者注・断食といっても「日没から日の出」までは何を口にしても良い。従って日が暮れると
         真夜中までパーティーみたいに騒ぐ姿がよく見られた。


 ある人は、「ヒンズーのカーストとイスラムのラマダーン断食が社会の発展の大きな妨げである」-と断言したが、わたしにはむしろ「戒律を当たり前に実行する国民」が羨ましく思われた。


  イスラムに関する参考サイト:


<乞食、コソ泥とスリが多い国>

 コーランにあるとおり、「富める者が貧しき者に施しをする」のは当然のことである。だから上述のように、街中にいるかなりの数の乞食たちも小銭くらいはちゃんと貰っている。だが道端に座り込んで、通りかかる人に無言で手を出すくらいのことで、特に「貰う工夫」はしていない。そして貰っても「ありがとう」とも言わず卑屈でないことはすでに書いた。

 そうしてみれば、パリの物貰いたちはまだ「工夫」がある。よく地下鉄の地下道にいるが、何だか同情を買うような文を書いたプラカードを前に置いたり、車いすや義足を並べたりしている。マドリッドの目抜き通りの「ジプシー」のオバサンは、幼い乳飲み子を抱いて手を出していた。日本でも戦後しばらくは、手足のない「傷痍軍人」たちが、アコーディオンを弾きながら募金箱を置いていた。そういう意味では、この国の乞食には、「企業努力」がない。

 この国は「社会主義国」でありながら、「貧富」の差が大きい。金持ちは10〜20LDKの家に、ベンツが5台くらいあったりする。またアルジェリア在住の外国人は、現地の人間から見ると、物質的に恵まれた生活をしている。「金持ち」なのである。金持ちから少しくらい物をいただいても、コーランの教えから大きく外れていない−とでも思われているのだろうか。やはりこういう人たちの家には、よく泥棒が入る。

 わが職場の同僚の家にも泥棒が入った。それも家人がいる時にである。夜中に二階で寝ていた時に入られたという。一階にあった現金やカセットラジオなど金目の物をまとめて持っていった。そして、後で何にも出てこなかった。プロの手口らしく、静かに鮮やかに行ったので気がつかなかったらしい。

 別の日本人の家では、外出の度に物がよく無くなった。あまりに被害回数が多いので、警察にも届けて調べてみると、犯人は大家の家の息子だった。大家の家には合い鍵があるので、盗る気さえあれば、いくらでも入ることができる。判明のきっかけは、日本人の家で盗られたカセッラジオが息子の部屋にあったのである。これなんぞはあまりに「幼稚」過ぎて笑える話ではある。

 別の外国人の家では、盗まれた品物が町の露天市(俗称:泥棒市)で売られていたという話がある。持ち主が金を払って、「自分の持ち物」を取り戻した−という話は何かおかしくて悲しい。このようにふつうの「コソ泥」たちは暴力的でないケースが多いが、たまにピストルを突きつけられて金を取られた話も日本人から聞いたことがある。アルジェリアは「独立戦争」時の武器がまだ多く残っているのである。それにもかかわらず、通常は「強盗殺人事件」はあまり聞かなかった。これが「コーランの教え」によるものなのか、フランス同様「警察国家」であるためかは判然としなかった。

 また「置き引き」(私がこの国で体験した唯一の犯罪)やスリもけっこう繁華街、人混みでは多い-ということを聞いたが、具体的な話はあまり聞けなかった。これらの犯罪は、この国だけのものでなく、パリやマドリッド、ローマなどの西ヨーロッパ諸国の都市にも多い犯罪である。

9
<「お役所仕事」の国>

 132年間にわたるフランス植民地支配のためか、アラブの特性なのか、発展途上国共通の現象なのか、いわゆる官僚組織が十分育っていないように見える。その事務処理の非能率さは日本ではとても考えられないものだ。窓口の担当者によって言うことが全部違うし、時として提出した書類は紛失するし、ひとつのことについてその決裁、処理が半年一年もかかるというのもざらである。
 
 私の場合、フランスのパリからやっと運んでもらった自家用車を登録しようと何度も市役所、県庁、税関等に足を運んだが、ナンバープレートの番号が貰えたのは一年以上後のことだった。その間は赤っぽいフランス・パリのナンバー5348TT75をつけて街中を走り回っていた。何回行っても担当者不在のことが多く、隣の吏員に訊くと「ジュヌシパ」(わしは知らない)または「インシャアッラー」(神のみぞ知る)と言われ続けた。こうなると始末が悪い。空しい気持ちで帰途についたものである。

  日本と違って役所はプレート番号だけをくれて、プレートそのものは民間業者に頼んで2枚作ってもらう。
   蛇足であるが、この国にはいわゆる「車検制度」がない。一度登録すると廃車になるまで乗り続ける。
   街中はフロントガラスのない車、ドアが全くない車が当たり前に走っていた。


 また、中央郵便局で手提げカバンを紛失したことがあった。中にはパスポート、国際免許証など大切なものが入っていた。すぐに郵便局近くの警察に届け出た。すると「今日は担当がいない。明日来てくれ。」と言う。翌朝行くと、「ここは所轄ではない自分の住所のある署に行け。」と言われた。そこへ車を飛ばして行くと、さんざん待たされた挙げ句、「ここではない。元の署に行け。」とおっしゃった。もともと私のフランス語(といえるか?)が無茶苦茶なこともあるが、とにかく疲れまくった一日であった。ずっと後になって、カバンも金もなくなってパスポートなどの書類だけは返ってきたのであるが・・・。

   このようなことは日本人にはたいへん驚きだが、アルジェリアに住んだ者はこのくらいの話では
   驚きはしない。大なり小なりだれもが似たような経験を持つからである。


 
10
<「コネ」が幅を利かす国>

 この国では「コネ」は「生活の必需品」である。すでに書いた「自動車ナンバー取得」の件も、実はコネによるものだった。申請してから1年経ってもナンバーがもらえないので、大家の次男を伴って「県庁」に行った。窓口に着くや否や、次男は窓口の男性と何度もなんども「ほおずり*」を始めた。何が始まるのかと見ていたら、次男は私を指しながら二言三言を言い、窓口氏は後ろ壁際の高さ1mはあろうかという書類に山から私の申請書類を見つけだした。その間およそ10分。あっと言う間にナンバープレート番号が記入された書類を渡してくれた。後で知ったが、同時に申請書を出していた私の同僚は、一ヶ月も遅れてやっと手に入れたという。

 また、ある時、我が家の電話が突然、不通になったことがあった。こういうことは、この国では普通のことであった。私はすぐにPTT(電報電話局)勤務の件の次男に連絡を取った。彼は同僚の担当者に連絡を入れ、その日の内に回線は復旧した。同じようなことが同僚宅で起こったが、復旧に2週間以上かかったそうだ。このことだけでなく、次男氏には大いにお世話になった。彼と私とは何となく「ウマ」が合う所があった。

 このように、親族、友人、知人が多くいると、いろいろな所で大いに役に立つことが多い。聞くところによると、当地での商売、交渉もこうして行うらしい。何となくアラブと中国系の華人(華僑)が似たところがある。要するに、「日頃の人間関係が大切」ということなのだろうか。

   アラブ圏では男性同士、女性同士では抱き合って何度も両ほおに「ほおずり」をする 
   握手などよりもっと親近感を表すあいさつである。ただ日本の街頭でこれをすると
   違和感があるかもしれない。蛇足ながら男性同士も仲が良く、大人が手をつないで街を歩くことがある。