私たちが住んだアルジェリア  
(アルジェリアの社会的特性)


1830年のアルジェ港(版画)


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<アルジェリアの基本的特徴


 アルジェリアは、あらゆる意味で日本とは大きく異なっている。それらの点を下に書き出してみる。

1 イスラム教が国教の国
・イスラム教は世界の三大宗教の一つで、信者数はキリスト教に次いで二位であり、10億人とも言われるが、アルジェリア自体は人口は多くなく、したがって同じイスラム教のインドネシアなどからいうと、信者の絶対数は少ない。主にスンニー派であるが、同じ派のサウディアラビアなどからいうと、教義の運用に比較的寛容なところがあり、酒も生産され自由に購入できる。かなりの人が毎日の礼拝などの宗教的戒律を守り、祝日や行事もイスラム教のものが多い。

2 発展途上国
・この国も他のアジア・アフリカ諸国同様、ヨーロッパ先進国の植民地となった。132年間もフランスの過酷な支配に甘んじた。すなわち政治的抑圧、イスラムへの宗教弾圧や経済的収奪である。更に生活様式の「フランス化」が加わる。その結果国が「モノカルチャー・植民地経済」となり、食料の自給自足さえままならない体質となった。そのため独立後も経済的自立が困難な状態となり、これが「発展途上」の国に甘んじている理由のひとつである。

3 原油生産国
・上記のことがらにもかかわらず、この国にとっての救いは、その豊富な石油、天然ガスなどの炭化水素資源である。ハシメサウドなどサハラ地区で生産された原油をパイプラインで地中海岸の港まで運び、タンカーで輸出をしてきた。またこれまでに地中海には天然ガスパイプラインが引かれ、EU諸国を中心に供給が始まっている。そういう意味では、サウディアラビア、クウェートほどではないにしても、途上国にあっては比較的財源的にはゆとりがあるといわれる。


4 社会主義国
・発展途上国は歴史的発展性からいって、過渡的に「社会主義」の形態を取ることが多い。「対先進国、対宗主国」という最初の意味に加えて、国家的統制・計画経済で国家建設がし易いからである。ただ憲法で「社会主義」と謳われてはいるが、実態としては後で述べるように、とても「社会主義」といえない面も散見される。
                  
5 複数民族が存在する国
・この国の先住民族は「ベルベル人」といわれる。紀元前後には独立国も作っていた歴史があるが、以後は入ってきたアラブ人やフランス人などに追われてカビリーなどの山間部や南部を中心に生活をしている。文化的にはレヴェルが高く、学者教師などのインテリ層には「ベルベル人」も多い。更に独立以前にはユダヤ人も多く生活していた。
                 
→筆者注・「ベルベル」は元来、蔑称語であるのでカッコ書きにした

6 複数言語を使用する国
・上記のことのため、公用語としての正統アラビア語に加えて、アラビア語アルジェリア方言、話し言葉としてのベルベル語数種に、今でも旧宗主国のフランス語が多く使われる。就中高等教育ではフランス語の比重が高い。それはフランス語の方が表現能力(語彙)に優れているためともいわれる。またインテリ層では英語が通用することも多い。
                  
                 
→参考サイト"World Language"

7 長い被征服の歴史を持つ国
・紀元後ローマが侵入しその支配に入る。そののちゲルマン人の一派、ヴァンダル人の荒々しい支配下に入り、さらに7世紀にアラブ人のイスラム帝国の支配の時代が来る。この時代にイスラム教が多いに流布された。長いイスラム時代の後に、オスマントルコに支配され、のちにスペインの海賊が侵入した。1832年になってフランスが帝国主義的に進出し、1962年まで過酷な支配が続く。

8 独立戦争により多数の死者をだして独立した国
・既述の如く、フランス帝国主義・植民地主義と戦い、民間人も含めて百万人以上の死者を出して独立を勝ち取った国であるから、家族の誰かが犠牲者になっている場合が多い。そのためモロッコやチュニジアとは比較にならないくらい民族意識やプライドが高い。割合穏やかな人と話していても、フランスのことになると良い印象は持っていないことが多い。これらの闘争の中心となったFLN(民族解放戦線)が独立後の政治をにぎった。映画「アルジェの戦い」は独立直後に製作されたカスバの抵抗を中心とした名作である。
                  
                  
→FLN関連サイト民族解放戦線」、「フランスとアルジェリア人

9 地中海性(温帯)と砂漠またはステップ(乾燥帯)というやや対極的気候を持つ国

・地中海沿岸は南フランス、イタリアなどと同じ地中海性気候である。これは日本と同じ温帯に属するが、はるかに降水量は少なく、冬に雨が多く夏はほとんど降らない。このため夏は草も枯れ日本の冬のような景色となる。ここでは農産物は主にブドウ、オリーブ、小麦などである。これに対してアトラス山脈以南ではサハラ砂漠となり、温度差の激しい乾燥した気候となる。モノカルチャーの後遺症のためもあり、国全体の農業生産性は高くなく、いまだに食料は多く輸入している。
                  
                  
→モノカルチャー関連記事「キューバの砂糖

 このように見てくると、日本との類似点は決して多くはない。そういう意味では、日本人から見ると理解しにくい国かも知れない。しかしながら、だからこそ逆に「面白い国」ということもできるかも知れない。「発展途上国」に生活または旅行していていつも思うのは、私たち日本人がかつて通り過ぎてきた「みち」が見受けられることである。ここより後は、私たちが見聞したり体験したことがらを中心に、アルジェリアの人たちを特徴的に見てゆく。

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<若人の国>

 20歳未満の人口が60%に達しようというこの国は、町にも村にも子どもがあふれている。この国の独立が1962年だから、それ以後に生まれた世代である。「避妊はいけない」というイスラムの教えからもきているが、一家の子ども数が5人から10人くらいは当たり前で、現に我が大家のファミリーも男3人女4人であった。

 子どもたちの遊びは竹とんぼ、新聞紙を丸めた「ボール」による路上サッカー、鬼ごっこ等々に、どんなガラクタでもすぐにオモチャに代えて遊ぶことなど、昔の日本の子どもの姿を見るようである。しかし、裕福な家の子どもたちはカセットラジオをふつうに持っているし、バイクなども持っていて、ひんぱんに乗り回している。さらに年長の若者たちは、家の中が狭いからなのか、仕事がないからなのか、夜遅くまで路上で雑談をしたり、カセットラジオを聞いたり、所在なさげに目的もなく道路端に座っている。

 人口増加は政府としても放置していたが、さすがに最近では手を焼いてきたのか、バースコントロール(産児制限)の宣伝も目につくようになってきた。しかし長い間の習慣は、今すぐには変わりそうもない。ただ一部インテリ層の間には、「子どもはより少なく」という傾向も出てきている。

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<非行の少ない国>
 
 上述のように、子どもが多く若者の失業率が非常に高いこの国であるが、その割には「犯罪」が少ないといわれる。
政府は「教育こそ国の基本」として、国家予算の21%も使っている。(参考までに国防支出は9%)それでも教室数も教師数も絶対的に不足しており、一部には「三部授業」の所もあるし、教師の一部はエジプト、レバノン、サウディなどの外国人であるといわれる。よく昼日中に町中をうろつく子どもたちを見かけたが、すでに午前の自分たちの授業が終わった後らしかった。

 このように「ナイナづくし」の状態であるが、ふつうのケンカなどはままあるにしても「校内暴力」「非行」についてはあまり聞かなかった。(例外的に日本人学校の子どもが植物園で写生中に画材、画板を取られるということがあった。)現地校を数度訪問することがあったが、教師の権威は絶大で、テストの成績が悪かったり反抗でもしようものなら、親を呼びだし落第させることもあるという。「塾」なども皆無に近く、学校だけが頼りなのであろう。授業を参観したが、授業は活気にあふれ私語をする者はいない。教室は掲示物だけでテレヴィも何もない状態だったが、全員が脇目もふらず授業に打ち込んでいた。ちょうど、昭和20年代の日本の学校のようであった。

 子どもたちは帰宅すると、実によく家の手伝いをする。女の子たちは洗濯掃除などの家事をずっとやっているように見える。男の子たちは買い物、走りつかい、鰯・タバコの物売りをしている姿がよく見られた。農村では更に牛羊の世話や、水汲み、自家生産物の国道脇の販売などをして、家族の一員としてマメに働いている。「いつ家で勉強をしているのか?」と思うほどであった。これらも昔の日本でよく見かけられたことであろうか。

4
<大家族主義の国>

 どの家族も10人近い多人数であるが、一般的に家族の結びつきは強い。「ベルベル人」の我が大家一家も、兄弟姉妹が大変仲が良く、全ての面で助け合っていた。傍から見て羨ましく感じる時もあった。父親には絶大な権威があり、重要なことがらはすべて「家長」が取り仕切る。小さい子がいる家では、子どもが悪いことをすると、例え人前でも父親がバシバシと叩くのをよく見かけた。

 
 外国人から見ると、一般に女性の地位は低く、ごく一部を除いて家事労働は全て女性に掛かっているようである。有名な事実だが、未婚女性以外の女性は家人親族以外に肌を見せてはならず、外出時には左のような「ハイク」などで顔を隠すこととされる。市場での買い物も男性がすることが多い。そういう意味では女性は「保護」されているようにも見えるが、西洋式表現では「自立」ができていないようだ。母親は家にいるのが多い分、家事と子育てに力を注いでいる。そういう意味では、女性の「社会進出」には時間がかかるであろう。

(C)Masuko Kakehi

 娘の結婚についてもまだまだ「家長」の発言権が大きいらしく、「許可」がなければ結婚は難しいらしい。婿側の結納もけっこう額が大きいので負担が大きく、適齢期の男性でもなかなか結婚できないと聞いた。長男はやはり家督相続者で第一相続者だから、扱いが別格のように見える。

 彼らはまた「血縁」を大切にしている。3年間見ていたが、高い塀に囲まれた家の敷地に入ってくるのは全て親族一族で、「赤の他人」が入ってきたのは、我々日本人店子の友人だけであった。子どもたちの学友も家の前でしか話ができなかった。盗難とかの関係で他人を信用していない所があるように見える。私たちも「日本人以外は家に入れるな」と言われていたし、私の同僚ははっきり「アルジェリア人は中に入れるな」と言われていたという。

 反面、一族郎党との結びつきは深く、毎日従姉妹や伯母が大家宅を訪問していた。また誕生日、結婚式、学位取得の祝いなどでは、一族を呼んで庭でパーティーをするのが恒例となっていた。このように一部始終を見てゆくと、ちょうど戦前までの日本の中上流家庭のあり方に類似した点が多い。これらの点のかなりの部分は「イスラム教」から来ているものもあるが、外見だけでは「昔の日本=家父長制封建主義」を見ているような感じであった。

                
5
<浪花節的アルジェリア人>

 イスラム教徒の彼らにもっとも縁がなさそうな「義理と人情」的側面が、実はこの国でも見かけられるのは面白い。前に書いたように、身内以外には非常に用心をして、「内と外」を使い分ける彼らであるが、いったん「内」と認められると大変「義理と人情」が生きてくるから不思議だ。一旦心を許せば、親族同様「身内」扱いになるのである。つまり、非常に厳しい自然の中に生きてきたここの人たちが、ある面ではヨーロッパの白人よりも感性が日本人的なのである。

 ある時、大家の三女が急病(ガス中毒)になったことがあった。その頃大家の家には自家用車がなく、タクシーも辺りにいなかった。彼らが困り切っていた時、私が車をぶっ飛ばして町中の病院に急行した。途中彼女は私の車内で吐きまくって、シートは嘔吐物だらけになった。しかしその結果、彼女は一命を取り留め、しばらくの入院の結果全快し退院できた。

 この日を境にして、「大家と店子」という契約だけの関係は消滅した。私たちに対する彼らの話し方、態度までが変化した。妻がクッキーやすしをつくって持ってゆくと、夫人や娘たちがアルジェリア料理をつくって持ってきてくれた。日本を紹介するテレヴィ番組があると、階段を走って下りて呼びに来てくれた。そして事あるたびに、家庭料理のディナーに呼んでくれた。兄弟たちみんなとは車を連ねて、彼らの故郷にロングドライヴを敢行したこともあった。家族のパーティーには殆ど呼んでくれた。大家族の彼らにはおじ、オバ、従兄弟姉妹が「無数に」いるが、紹介されても多すぎて名前も顔も覚えきれなかった。それでも彼らは何かにつけて話しかけてくれた。

 アルジェリア独立22周年の大パレードがあった。その時はPLOのアラファト議長や当時隣国チュニジアの大統領であったブルギバ夫妻などが来賓として列席した。そのTV中継が夜に始まったときは、大家家にみんなが集まって、夜更け過ぎまで飲食しながらワイワイと見た。何にも知らない私たちに、彼らは代わる代わるゆっくり説明してくれた。またテラスからは戦闘機の空中デモンストレーションも見られて、私たちもスズナリで騒ぎながらずっと見ていた。

 込み入った話は大家夫妻と妻がフランス語で話し、私に通訳した*。兄弟姉妹たちとは妻はフランス語と英語、私は英語で話した。インテリの一族なので、英語はかなり通じたのである。特に高校教師の長男とは、真夜中まで彼の聞きとりにくい英語でディスカッションをした。彼はいつも「イスラム教はやがて世界中に広まる。日本人もイスラム教徒がどんどん増えてゆく。」と言っていた。私がそれには異論を唱えたので、いつも話が長くなっていた。その他ありとあらゆる話をした。その中で彼らの「ものの考え方」がよく理解でき、結果的に二人の間の親近感が深まった。

 私たちが帰国する日の朝、家族総出で見送ってくれた。ムッシューは「まだここに居てもいいよ」と言うし、マダムは妻と抱き合って、「ホントに帰るのかい」と言いながら涙ぐんでいた。妻も私も完全に「ウルウル状態」になっていた。その時は本当に帰国したくなかった。

      

    参考:「望郷」、そして忘れられない人々 (日本アルジェリアセンター・サイト)
 

    *妻は現地で「フランス文化センター」に通ってフランス語を習っていた 私はあろうことか、
      フランス語圏で「西ドイツ」大使館の「ゲーテ・インスティチュート」に夜通ってドイツ語を習っていた。


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 サハラの住人・トゥアレグ族