12 初めて乗った中国の「軟臥車」(一等寝台)
翌日の夕方、荷物をまとめて、駅に向かった。トルファン市内から60kmも離れた天山山脈の麓に「トルファン駅」はあった。土漠(中国人ガイドは「ゴビ景色」と言った。)の中に申し訳ほどの村があり、駅舎がポツンとあった。概してこの辺の駅は、まわりに何もないことが多く、沙漠のど真ん中に駅舎だけというのもあった。駅員の官舎も見あたらないから不思議である。いったい誰が利用するのだろうか。
鄙びた待合室で、添乗員が一行を集めて言った。「実は、これから乗る汽車(中国語では火車)は車両が増設されまして、それに乗ります。増結部分はドアが開きませんので、予定されていた食堂車での夕食が、不可能となりました。お弁当を注文しますので、それを食べて下さい。」車両の変更などこの国では、日常茶飯事だという。出発前まで解散となったが、ゆく場所がない。その場所にいると、やがて15名ばかりの白人の団体がドヤドヤと入ってきた。じーっと聞いていると、どうもドイツ人らしい。ドイツ国内では「秩序インオルドヌンク」を重んじる彼らが、海外へ出ると、どうにもうるさい。「あのシルクロードの名付け親のドイツ人は、今でも絹の道(SeidenStrassen)に興味があるのかな。」と思いながら、ドイツ語のおしゃべりを聞いていた。
ウルムチ発上海行き列車・中国でいちばん長距離の寝台列車(筆者写)
やがて汽車がホームに入ってきた。ホームの高さはレールより少し高いくらい、ヨーロッパなどと同じ高さである。横腹のプレートには、「烏魯木斉−上海」(ウルムチ−シャンハイ)と書いてある。総行程4077kmの中国一長い距離を走る寝台列車で、3泊4日で走る。以前、合衆国のサンフランシスコからボストンまで「アムトラック」で横断した時は、2泊3日だった。因みに、シベリア横断鉄道は一週間でウラジオストックからモスクワまで走るそうだ。この「蘭新鉄道」は、反対方向へゆくと国境を越えて、カザフスタン共和国のアルマティ(アルマトイ)に至る。週に何本か国際列車が出ているらしい。私は「国際列車」という響きが好きである。いつの日か世界が平和になって、韓国/釜山発トルコ/イスタンブール行きの超国際列車「亜細亜特急」ができたら、是非乗りたいと思った。
さて話は戻るが、私たちの列車は長い編成で、最後尾の私たちの増結寝台車はホーム外にはみ出てあった。
車両はコンパートメントで、一室が二段の4人定員であった。古い車両で冷房もなく、ブンブンと小五月蠅い小さな扇風機が、一つついているだけだった。部屋の床の上には、お湯のたっぷりはいった「年季」の入った古いタイプのステンレス製魔法瓶が置いてあった。これだけが、朝までの「公式な飲料水」であった。
列車内の質素な食事(右筆者)写真は変えてあります
乗る時に「はい、夕食です。」といって渡されたお弁当の包みを開けてみた。中には、丸ごと一本の胡瓜、割れて汁の出ているトマト一個、それとパサパサのパン二個とザーサイ、それだけが、今日の夕食であった。期待していなかったので、ガッカリはしなかった。アメリカ大陸横断の時、リクライニングシートにキオスク付きのガラス張りの二階建て展望車で、ビールを飲みながらのロッキー山脈横断を、懐かしく思い出していた。
朝、目が覚めると、汽車はまだゴビを走り続けていた。トイレにゆく途中に車掌室を覗くと、女車掌2名は床の上に海老のように転がって赤子のように寝ていた。しばらく走って柳園駅に着いた。ここの駅前も十軒ほどの旅籠(はたご)や食堂、食料品店しかないさびしいものであった。しかし、あまりにも有名な仏教遺跡、敦煌(とんこう)の玄関口に当たるので、シーズンにはきっと賑わっているのだろう。西域では日課になっている「ミネラルウオーターの仕入れ」をしてから、迎えのバスに乗り込んだ。今日の水は、うれしいことに凍らせていた。思わず2本買った。乾燥地帯では、冷たい水が日本以上にうまく感じる。