14 あこがれの地、大佛跡・敦煌へ

 敦煌の宿は、「敦煌賓館」といい、街いちばんのホテルだった。商店街や目抜き通りの一角にあり、買い物には絶好の場所だった。この街は、トルファンほどは砂っぽくなく、走り回るロバ車の姿も少なく、人々の様子にも西域特有のエキゾチックな雰囲気はなかった。さすがにもうここは「中国」なのであった。


←西安から敦煌まで

 敦煌は紀元前111年、漢の武帝が、武威、張掖、酒泉とともに郡を置いたところからその歴史が始まる。あの唐の王維が゙「・・西出陽関無故人」と詠んだ陽関の関まで70km、玉門関までわずか80kmである。つまり当時の中国人にとって、敦煌より西は大タクラマカン沙漠の広がる西域で「異国の地」であった。この地は、シルクロード(西域南道)をはるばるやってきた商人や旅人には、生きて沙漠を越せた喜びに満ちて神や仏に感謝し、これから異国に旅立つ者にとっては、仏像に手を合わせて旅の無事を祈る最後の場所であったのだろう。こうして、4世紀の北涼頃から郊外の莫高窟(ばっこうくつ)に仏像、壁画がたくさん制作されるようになる。

           
黄昏ゆく月牙泉

 日本でも「敦煌」は歴史家、歴史愛好者、仏教関係者などには、古くから大変関心を持たれており、明治大正期に京都西本願寺の大谷探検隊が、橘(たちばな)瑞超、吉川小一郎を敦煌に派遣した。また、作家井上靖の同名の本がベストセラーになり、映画「敦煌」が1987年にロケ隊を派遣し完成させるなど、日本人の敦煌熱を煽ったのは有名な話である。私にとっても、敦煌は何十年も心の中にあったいわば「あこがれの地」であり、そこに来られただけでも心躍ることなのだ。浮き浮きした気分はおのずと顔に出たらしい。添乗員に、「なんか、うれしそうですね。」と言われてしまった。