21 玄宗と楊貴妃のロマンスの華清池        

 博物館の帰途、バスは2kmほど走って始皇帝陵に寄った。田舎の景色の中を走っていると、何百m先に三角形の丘が見え、道端にバスは止まった。ガイドが言わなければ、気づかずに通り過ぎてしまうほどの小山だ。壮大な家来の大軍団を見た後で、これはいかにも拍子抜けがした。ガイドは、私たちのそんな雰囲気を見て取ったかのように続ける。「この山の下に大地下宮殿があるのです。地下の部分の方が大きいのです」70万人が造成にかり出されたが、築後十年にして、ここもあの項羽に完全に暴かれたという。 ペルシャ伝来と言われるザクロの畑を背に、記念撮影を済ませた。(そういえば、イランにザグロス山脈というのがあった)

 始皇帝陵から遠からずして華清池があった。あの唐の玄宗皇帝と傾国の美女楊貴妃が保養した地である。門をくぐると、御殿様の建物があり、前に大きな池がある。回りに柳の木が茂り、サルスベリが赤い花をつけて池に張り出している。池には蓮があり、亀がその葉の上に乗っている。向かいに東屋があり、回りに回遊路があり、池を一周できる。

 楊貴妃は本名ではない。彼女はもともと玄宗の息子の嫁であったが、義父玄宗に目を付けられ取られてしまう。貴妃は宮殿にいる女官の呼び名で、固有名詞ではない。この後、楊一族は権勢を誇り、皇帝は貴妃におぼれ、政治を顧みなくなってしまう。のちに、有名な安史の乱の中で貴妃は死を賜り、二人のロマンスは終わりを告げる。そして、大唐も滅びてしまうのである。

 そういう歴史をこの池は見てきた。後ろの山も形がよく、今では頂上までロープウェーが行き来している。借景としてもなかなかよいものだ。私は、唐の時代に思いを馳せ、池の周辺近辺を散策した。   

華清池(筆者写)



 
 
集合時間にバスに戻ると、いつも通りの人数確認の後、ガイドが言った。「皆さん、中国一の美女、楊貴妃ゆかりの場所いかがでしたか。一つだけ付け足しますと、最近分かったことですが、貴妃の体重です。何と80kgくらいあったのです。・・」私は一瞬目が点になり、頭の中が真っ白になった。私の脳の内で、「優美な細身の楊貴妃像」がガラガラと崩れていった。  
 
 話は変わるが、私は北アフリカ、アルジェリアのティパサという所で博物館へ入った時、クレオパトラといわれる大理石像を見た。それはとても「世界の三大美女」と呼べる代物ではなかった。私は失望するとともに安心もした。その「庶民的な顔」がより身近に思えたのだ。往年のハリウッド映画超大作「クレオパトラ」のエリザベス=テイラーの方が、はるかに美人である。書物によると、彼女の本当の魅力は外見よりも、十何カ国語を話す語学力と、そのチャーミングでエキゾチックな物腰、雰囲気であったという。楊貴妃もその類だったのか。それとも「樹下美人像」の様な人を、当時は「美人」と呼んだのだろうか。美人の基準は時代で異なる。あのパスカルがそばにいたら、一体何と言うだろうか。彼女の体重の件については、未だに真偽のほどは分からない。