B 日本軍兵士として戦った二世たち 
Japanese-Americans "Niseis”who fought for Japan
日本軍航空隊に入った二人の「帰米組」

 当時の米国生まれの二世に、二種類の人たちがいることは、すでに述べた。「非帰米(組)」と「帰米(組)」である。「帰米組」の中には、次のようなケースもあると聞いた。

訓練中の少年航空兵
(6)(文章とは無関係です)
 
 Aさん(故人)は、カリフォルニア生まれである。父が亡くなったので、母は多くの子供を連れて日本へ帰国した。戦前の1930年代後半、世界的不況の頃である。この時期に、親戚の家での滞在は肩身が狭かった。日米開戦後、Aさんは14歳で少年航空隊に志願入隊した。しかし、飛べる頃にはもう日本には飛ぶ飛行機がなかった。戦うこともなく、そのまま終戦を迎えた。
 終戦になったので、兄のいるアメリカに帰ろうと、アメリカ大使館に行った。自分の経歴(軍歴)を話したが、米側は14歳の子供が入る軍隊など世界にあろうはずがないといって、日本での軍歴を認めなかった。おかげで、思ったより簡単にアメリカに「帰る」ことができた。

整備員に見送られる特攻機
(4)(文章とは無関係です)

 Bさんもアメリカ生まれである。日本にいたときに戦争が始まり、航空隊に入った。戦争も押し詰まってくると、特攻隊(いわゆる「神風」)に編入された。突入する直前に終戦となった。しかし特攻隊の隊長は「最後まで戦う」と主張、Bさんたちを説得し、米艦隊に突入しようとした。突入の当日、まず隊長機が爆弾をつけて飛び立った。二番機 のBさんはエンジンがかからず、飛び立てなかった。「おかげで」生き残った。

 しかし、アメリカに敵対行動をとったとして、戦後東京の巣鴨プリズン(刑務所)へ入れられた。そこは東京国際軍事法廷の被告たちが、入っていた刑務所でもあった。しかし、彼はA級戦犯でもB級戦犯(いずれも重罪)でもなかったので、のちになって釈放された。長い時間がかかって、やっと米国に「帰る」ことが許された。そして、朝鮮戦争が始まると、今度はアメリカ兵として、戦争に参加した。これは、一人の日系二世が日米両軍を「経験」した珍しい例である。