アメリカへの「忠誠」を拒否した久史さん(仮名)(米国生まれ二世・非帰米組)

 
 久史さんの両親は広島県の出身である。彼自身は、1921年に、ニューメキシコ州で生まれた。家族は大家族で、5人の兄弟と4人の姉妹がいた。決して豊かではなかったが、家族の団結は強く仲も良かった。そんな家族の運命が変わるのは、1941年12月8日(米国時間)である。前日の「日本軍ハワイ真珠湾攻撃」のニュースは、臨時ニュースで大きく伝えられ、国を挙げての大騒ぎとなった。奇襲(Sneak-attack)であると報じられた。


軍隊に監視されて
移動集結
(カリフォルニア州
・サンタアニタ)
(3)
(文章とは無関係です)
 

 その日の朝突然FBI(連邦警察)が現れ、日本人の地区長を連行していった。やがて命令が出て、日本人、日系人全員が引き払うことになり、短い時間で慌ただしく荷造りをさせられた。手で持てるだけしか、荷物は許可されなかった。車に乗せられたが、行く先も何が待っているかも分からず不安だった。着いた所は、日頃は「博覧会(fair)」をしている広いグラウンドで、仮設の建物の中で寝ることとなった。

 
 しばらくして、長い時間をかけて正規の収容所に移送されたが、そこは荒れ地の中のバラックの建物が並んだ場所であった。場所はアンカーソー州のローワー(Rohwer)というところであった。まわりには何一つなかった。情けなかった。齢20になっていた。


現在のローワー
収容所の墓地(オ)
 

 やがて、一人ひとりが、監督官によって面接をされる。この国への「忠誠心」をはかるためである。私は、一連のアメリカ政府のやり方に、不満不審を抱いていたので、「Yes」とは言わず「No」と言った。このことが、のちに私の運命を変えて行くことになった。

 
 こうして、およそ3年半にもわたる長い収容所生活が、始まった。まず思ったことは、「どのくらいの間入るのか?」と「またカリフォルニアへ帰れるのだろうか?」ということだった。それと、監督官と面接したときに、「この国に忠誠を尽くせ」と言われたが、一体どうしたらよいのだろうか?ということをずっと考えていた。

   
 
 さて、収容所のおよその様子は以下の通りである。施設のまわりは鉄条網で囲まれ、所々には監視塔があり、大きなサーチライトがあった。建物はいわゆる「縦割り長屋」で、片側に入り口が並んでいた。下の図のように、棟の横には食堂、洗い場、シャワー室があり、食堂は集会所も兼ねていた。このようなユニットが延々と続いていた。建物の一区画には、一家族が入った。室内に簡単な仕切はあったが、決して広くはなかった。

 
 こういう「監獄」のような収容所ではあるが、人によっては救いがあった。それは、日系人の中でも貧しくて、平和時でも持ち家もなく、三度の食事がきちんととれない人たちだった。贅沢を言わなければ、きちんと今までよりも良い食事が与えられ、服も支給品がもらえた。風呂も毎日のように入れた。さらに、生け花、英会話、洋裁、和裁など他にも多くの「教室」があり、本気でやれば結講、生活は「楽しめた」。

 
宿舎の入り口付近
(壁はタールを塗った紙)
(3)(文章とは無関係です


 
概して、収容所の米兵士たちも親切で、虐待などはなかったと思う。たまにではあるが、「日米対抗ソフトボール大会」も開かれた。鉄条網の外に畑があり、出て耕作をすることもできた。作業者の見張りもいたり、いなかったりした。仮に「逃げた」としても、地平線の向こうまで無人の荒野で、果たして成功したかどうか。

 施設の中では、ラジオが比較的自由に聴けた。中には、日本の「宣伝放送」を聞き、それを鵜呑みにして、「いつか日本が勝って、迎えにきてくれる。」と信じていた者たちがいた。彼らは毎朝5時に、「わっしょい 、わっしょい!」と叫びながら、所内を走ったりしていた。「わっしょいグループ」と呼ばれていた。また所内では、それぞれが分担で仕事に就くが、コックはいくら、ボイラー係はいくらと、「服代」も足すと、月に16ドルから19ドルの間で、政府から金が出ていた。その金を使うのは、所内のPX(売店)で、ひととおりの物はそろえることが出来た。
           
 ラジオはほとんど毎日聴いていたが、1945年の8月6日になって、ヒロシマに原爆を落としたと放送があった。広島の出身なので、「市民を殺すのはひどい。放射能でしばらくは住めないというが、これから広島はいったいどうなるのだろう。」と心配だった。さらに、9日になって長崎にも落としたという。「やりすぎだ」と思った。
 
 
耐えきれずに鉄道自殺した
23歳の若者
あとに父、継母、妹が残された
(ジェローム収容所、1944.1)
(3)(文章とは関係ありません)
    

 
8月15日になって、「戦争が終わった。アメリカが勝った。」という放送があった。すぐに思ったのは、「よかった」と「嬉しい」の二つだった。これでやっと元の生活に戻れると思うと、居ても立ってもいられなかった。しかし、ここに来る時に、財産は二束三文で売ってきたので、手元には何も残っていず、それが気懸かりではあった。

 9月になると、出所する人たちが増えてゆき、だんだん所内はさびしくなっていった。出てゆくときは、差し当たりの金として一人あたり200ドルがもらえた。あの「わっしょい組」もいつの間にか出ていった。「あんなに日本が勝つと騒いでいたのに」信じられなかった。後になって、「わっしょい組」は全員が「アメリカに忠誠を誓った人たち」だと知った。さすがに、人間不信になった。

 秋が終わり、零下20度にもなる冬がきても、出所の許可は来なかった。毎日窓から、外の雪を見ていた。心に穴が空いたようだった。雪が解ける3月になって、やっと出られることになった。戦争が終わって、半年以上が経っていた。長かった。収容所はそれから一ヶ月余りで閉鎖された。自分のように「忠誠拒否」をした者は、ほとんどいなかったらしいと聞いた。「忠誠心」と「従順さ」で、出所の後先が決まっていたのだった。空は晴れていたが、心は晴れなかった。

 現在考えてみても、やはりいまだにこんなことは信じられないことである。そして、同じくアメリカと戦ったイタリア、ドイツ系の人々は、収容所に入らなかったと知って、納得がいかなかった何故日系人だけ?という思いは、いまでも消えない。複雑な想いである。

 3年前、クリントン大統領の時に、政府が歴史での政府の過ちを認めて、生存者に一律ひとり2万ドルが支給されることになった。早く死んだ者が気の毒だった。しかしこれも、JACL(Japanese American Citizens League=日系アメリカ人市民連盟)のおかげである。またイタリア戦線で活躍した、ジェームズ・ミネタ(カリフォルニア州選出)とダニエル・イノウエ(ハワイ州選出)の二人の日系国会議員の努力も大きかった。やはり、政治の力は大きい。

 しかし、60年も経って「謝罪をする、金をやる」といわれても、たいして嬉しくもない。謝るにしても、金を呉れるにしても、もっと早くするべきだった。「何を今更」という感じだったが、呉れるものだから、もらっておこうかという感じであった。いずれにしても、二度とこんなことはあって欲しくない。二度とこんな過ちはして欲しくない。それだけである。
                                            (終)