幼子を連れて収容所で暮らした尚子さん(仮名)(米国生まれ二世・帰米組)

 尚子さんは、1920年カリフォルニア州で生まれた二世である。両親とも広島県の出身で、アメリカでは白人の金持ちの家で働いていた。サンフランシスコ大地震があったので、一家をあげて郷里に帰った。尚子さんが二歳の時だった。尋常小学校、高等小学校を終え、16歳の時に、親の決めた相手と見合いし結婚した。ご主人は、ハワイ生まれの二世だった。結婚した1937年は、日中戦争が始まった年で、日独伊三国防共協定が結ばれた年でもあり、世界は戦争へ戦争へと、暗雲が立ちこめ始めていた。アメリカの日本に対する姿勢も、次第に厳しくなっていた。


 手続きのため、神戸のアメリカ領事館へ行ったり、帰国の準備で結構忙しい日々だった。4月になって、日本の客船で神戸から出港した。途中のハワイで二日間観光をした。息抜きにはなった。サンフランシスコ港に着いて、移民局に行った。犬小屋のような所に入れられた時は、さすがに驚いた。入国審査で人数的に多かったのは、中国人であった。それから、夫と二人でサンフランシスコ市内へ出た。夜になると、なぜか寂しさがこみ上げてきた。「どうしてこんな遠い所まで来てしまったんだろう」と涙がでて悔やまれた。

 しばらくの間は、探して見つけた果物の包装の仕事をしていた。やがてロス・アンジェルスに越して、日系の食料品店で店員をしていた。あの1941年12月7日は日曜日で、ロス・アンジェルスの家で「パール・ハーバー」のニュースを聞いた。「いったい、どうなることやら」と思った。「日系人が警察に連れて行かれた」とか「外出はしない方がいい」とか、いろんな噂が飛び交った。ひとりで外に出るのが、怖かった。


売りにでた日系人の店
「私はアメリカ人です」の掲示がある

(文章とは無関係です)(A)

 翌日、なんとか仕事にはいつも通り出た。店に白人がやってきて"JAP! Get out!" (ジャップは出てゆけ!)と怒鳴って出ていった。道では、小さな子までが、「ジャップ!」と叫んだ。結局、店は閉めた。やがて、当局から、「市の外、何マイルから出るな」という「禁足令」がでた。子供たちは家の中で遊ばせるしかなかったが、すぐに飽きてむずかっていた。

   
閉店の挨拶文
ご利用ありがとうございました。
また近々開店できればと願っています。
それまでどうぞお元気で。

(A) (文章とは無関係です) 

 2月になると、書類が送られてきた。「収容所」に入れるから、日系人は何日までに登録するように−というものだった。バッグは一つしか持てないという。家具一式を売りに出した。頼みもしないのに、ユダヤ人がやってきた。「買ってやる」と言う。しかし、「アレは何ドル、コレは何ドル」と、タダみたいな値をつけた。苦情を言うと、「じゃあ、要らない」と冷たくいう。結局、二束三文にしかならなかった。他の日本人の中には、何人によってか分からないが、財産を強奪された者や、倉庫に預けていた荷物が、後にごっそり無くなっている人もいたという。

 やがて、夫とわたしと3歳の息子は、街の一角に集合させられ、品物みたいに、胸に名前をかいたタッグをつけられ、チャーターバスに乗せられた。まわりには見物人がいっぱい集まっていた。予想に反して、罵声は聞かなかった。たいていの者は、黙ってことの始終を見ていた。白人の中にも日系人に同情的な者もいた。黙って首を横に振っていた。店 の客もいた。目が合った。悲しい目をしてい た。いつもだったら、彼女とは、店の中で天気や世間話をしていたのだ。後ろ髪を引かれた。

 バスは一時的なキャンプのポモナ競馬場に着いた。宿泊は馬小屋の中だった。私たち日系人は、馬と同じかと思った。本当に情けなかった。そこに一ヶ月いて、春も早い頃、アリゾナ州のハート・マウンテン収容所に移った。

 

 
置き去りにされた荷物 
サリナス仮収容所
(3)(文章とは無関係です)
 
 



ハート・マウンテン収容所(正面がハート山)(B) Heart Mountain Concentration Camp


 そこは、まだ雪が少し残っていた。暖かいカリフォルニアと違って、夜はしんしんと冷えた。心が余計に冷えた。部屋に石炭ストーブがあったが、宿舎の近くにある石炭置き場には石炭は多くなく、少しでも採りにゆくのが遅れると、石炭の欠片さえなかった。石炭のトラックが来るのが見えたら、すぐ取りに行ったが、それでも収容者達は、声を荒げて醜い取り合いをしていた。「同じ日本人同士なのに」と思うと、悲しかった。

 入所した頃、老人たちは悲壮な顔をしていた。いつまで戦争が続くかも分からないし、戦争がすんでも出られないかもしれない。大体、生きてここを出られないかもしれない。そういう複雑な想いが、頭を駆けめぐっていたのだろう。「適齢期」の二世の若者のところには、「召集令状」が届いていた。受け取った者たちは、軍服を着て、次々と収容所から出ていった。その背中を見るのは、辛かった。受け取りを拒否した者たちもいたが、これらは「刑務所」(隔離収容所)に入れられた。入れられた者の妻や親たちは、嘆き悲しみながら日を送った。そのころ、脱走者がでた−と噂で知ったが、その後どうなったかは知らない。こういうことが、数度あった。ただ、こんなひどいところだから、逃げ果せないだろうとは思っていた。





収容所内で毎朝米国旗(星条旗)に
忠誠を誓う日系人少女 (A)

                                                            


子供と監視塔と鉄条網 (B)



 所内の食べ物は、いちおう不自由しないくらいはあった。米、パン、挽肉のハンバーグ、野菜もあった。しかし野菜は春先になると、きまってなくなった。オレンジが、ヴィタミンCの補給源だった。「お代わり」はできたので、食べ盛りの子供でもひもじくはなかった。また、体調の悪い者は、食事を自分の宿舎までもって帰れた。わたしは小さい子供がいたので、めったに食堂で食事をしたことはなかった。

 夫は、知り合いに声をかけられて、食堂のコックになっていた。これはいい「仕事」だった。おかげで、食べ物に困ったことがなかった。着る物は時々配給があったし、靴も倉庫にあり、足に合いさえすればもらうことが出来た。お金も僅かだがもらえたので、所内の売店で買うか、「シアーズ・デパート」の通信販売カタログが置いてあったので、洋服は注文して取り寄せた。品物の荷物が来るのが、数少ない楽しみのひとつであった。

 子供たちはよく風邪を引いたり熱を出したが、小さいけれどいちおう病院もあり、複数の日系人医師や看護婦たちもいて安心だったし、薬もだいたい揃っていた。非常に備えて、救急体制も整っていた。施設内では、裁縫や英会話など習い事もできたが、それは小さい子のいない家庭の場合で、わたしは習い事ができないばかりか、洗濯でさえも子供が寝ている間にする始末で、楽しみは全くなく、大げさにいえば毎日が「地獄」だった。



収容所の日系人医師と母子たち(B)

 

 やがて初めての冬が来た。窓もドアも二重であったが、毎夜零下十度以下になり、雪も吹きなぐった。うっかりドアを素手で握ると、手が「取っ手」に張りついて離れなかった。四六時中風が電線や屋根を揺らし、ヒューヒューゴーゴーと唸った。何か、もう二度と元の生活に戻れないような気がした。

 収容所内では、日本のラジオ放送は聞くことが出来たので、けっこうたくさんの人が聞いていた。それは「日本軍がどこどこで大勝した」という類のものばかりで、いつもそれだから、「いつか日本が勝つ」と思っていた人も多かった。そういう人たちを、「勝ち組」といった。数は少ないが、アメリカの放送を聞いて、「日本は負ける」と思った人もいた。これを「負け組」といった。「勝ち組」と「負け組」は仲が悪く、いつも言い合いや喧嘩をしていた。後になるほど険悪になり、いつしか口も利かなくなっていた。

 


戦争中の1944年3月日本から醤油樽届く (B) 


 1945年の8月になって、「広島に原爆を落とした。広島は壊滅した。」というニュースが入ってきた。ウチは広島の出なので、親戚縁者が死んでなければよいが、と心配だった。8月14日に食堂でラジオを聴きながら仕事をしていたコックが、走ってきて「戦争が終わった!」と叫んでいた。

力が抜けて、へなへなと座りそうになった。しばらくは半信半疑だった。この3年半は長かった。別棟のひとりの男が突然発狂し、ナイフで女房を刺そうとして、大騒ぎになった。「勝ち組」は「日本の放送にだまされた」、 「東京ローズ*にだまされた」などと口々に言っていた。誰もが混乱していた。9月になって、出所できた。今振り返ってみると、自分はよくやってきたと思う。途中で挫けそうになったこともあったが、子供がいたので耐えてこられた。ここまで長い道だった。こんなことは、もうあって欲しくない。本当にそう思う
                                               (終)