7 墓地で出会った老人
老人と話をした教会の墓地(筆者写) An Old Church, Staplehurst, Kent
ハーブ園の帰り道の脇に、古い教会と古い墓地があった。わたしは、前回のウィーンの旅でしっかり墓地をみたので、またもやここの墓地を見たくなった。汽車の時間はまだあった。しかしそれにしても、何という古さであろうか。シェークスピア劇の舞台にでもなりそうな雰囲気である。ある古い墓碑銘を見ていたら、何故か同じ年に家族が次々に死んでいる一連の墓があった。原因は何だったのだろうか。危うく好奇心が目覚めそうになった。
墓地にしゃがみ込んで上の写真を撮っていると、墓参り道具一式をもった老人が通りかかった。
「こんにちわ。ここの教会は古いですね。」
「これは千年近く前のものだ。」
それが本当なら、「ノルマン人の侵入」(1016)の頃ではないか。さすが歴史のある国だ。中途半端な古さではない。
「どこから来たの?」
「日本です。」
「ワシも昔は日本にいたことがある」
「えっ、いつですか?」
「1948年頃かな」
「というと、第二次大戦がすんでからですね」
彼はイギリス軍の衛生兵として、日本へ行ったというのである。わたしの記憶では、「進駐軍(日本占領軍)」にも地域分担があって、確かイギリス軍は西日本に駐留したのではなかったか。案の定、「呉にも行った。広島も通った」という。何年か居て、タイなど東南アジアを通って、イギリスへ帰ってきたと言った。
「わたしは今年の1月にタイへ行き、カンチャナブリへ行って来ました。
あそこには連合軍の墓地があるのです。」
「あそこはキレイにしてあるだろう。」
どうもこの人も、行ったことがあるらしい口振りだ。
タイ・カンチャナブリ・連合軍墓地(筆者写)
「わたしはあそこの墓地で、たくさんの英軍兵士の墓を見ました。そして(戦場にかける橋)も渡ってきました。戦争博物館で日本軍がしたことも見ました。わたしは日本軍人の行為が残念です。わたしは生まれてなかったが、日本人としてすまないと思います。」
と正直に言った。しかし、その後の彼の答えが意外だった。
「済んだことだ。イギリスだって、歴史の中で同じことを、いっぱいやってきたんだ。インドや南アフリカやあちこちで、現地の人たちを殺したのだ。」
私は一瞬彼がどう言ったのかと、耳を疑った。わたしの顔の様子を察したのか、彼はこうつけ加えた。
「ワシも日本にいたとき、たくさんの元日本軍兵士とつきあった。一人一人は良い人なんじゃよ。今でも手紙を交換している人もいる。」
イギリス人の中にも、こんな冷静で客観的な考えの人がいるのだ。わたしは、未だに日本のテレビで報道される、旧日本軍に拘留され傷つき辱めを受けた外国の人々が、「日本政府を裁判に訴えるというキャンペーン」が、頭にあった。そのステレオタイプの考え方も、見直さなくてはいけないかなとも思った。
しかし、こう言われたからといって、やはり歴史の過ちが消え、許されるわけではない。それに、この老人は戦争(戦闘)がすんでから、日本へ行ったのだ。自分の目の前で、戦友が殺されたわけでもあるまい。身内に日本軍に殺された者がいないのかもしれない。わたしがこう言うのには、訳がある。
もう5年前になろうか、オーストラリアへ行ったとき、ちょうど8月15日であった。都市はメルボルンだったと思うが、折しも「戦勝記念パレード」をやっていた。(その日は日本では終戦記念日であるが、「敗戦記念日」とは言わない。)そのパレードをよく見ようと、前の方に出たときであった。在郷軍人のもう老人と思われる人が、わたしに向かって、「日本人が何でここにいるのか。よそに行け!」と怒鳴ったのである。一瞬何のことか分からなかったが、後から考えると、かれの心には50年経っても消えない何かが、あったのであろう。
さて話は戻って、件の老人は話し終えるとはっと気がついたように、「もう行かなくては。」と言った。彼は墓参りに来ているのだった。墓の脇に花まで植えようと、スコップも持っていたのだ。たまたま、日本人に「つかまって」、時間をとられてしまった。彼は言った、「妻が亡くなってちょうど一年になる。」その記念すべき日に、気の毒なことをした。時間をとらせたことを謝り、話してくれたことに礼を言って別れた。これで、彼もやっと奥さんに会える。彼と話した後、わたしは爽やかな気持ちで、足早に駅に向かっていた。