旅にまつわる話・纏わらない話(その11)
ニセコスキー場・昨今
日本でいちばん「インターナショナル」なスキー場!?
The Transition of Niseko ski-area, Hokkaido, Japan



国内では雄大なニセコ・グランヒラフ

 「ニセコ・スキー場」は北海道のみならず国内で最大規模の、そして今や国内でもっとも「インターナショナル」なスキー場である。ベースのリフト乗り場でも、スキー場内ロッジのレストランでも、白人スキーヤー、ボーダーがかなり目につく。時として、席の半数が外国人で占められる。そして至る所から英語が聞こえてくる。また時々どこからともなく中国語や韓国語も聞こえてくる。しかしこの場合、顔かたちが似ているため、区別が付かない。頂上・上級コースの急斜面の新雪でひっくり返った奇声を発していたのは、英語を話す5〜6人のグループであった。

 またオーナーが滞在したホテルの季節従業員(俗に言う「いそうろう*」)はニュージーランド人で、送迎車を運転してオーナーを、「ハ〜イ」と言いながらバス停まで迎えに来た。ホテルの客もオーストラリア人や「香港」人、そしてもちろん日本人と多彩である。夕食後の休憩室では、コンピューターのネットを見ながら英語で客同士の話が弾む。こうなると、ニセコは「国際的」と言わざるを得ない。こうなった現状に触れる前に、少し歴史をのぞいてみよう。

 ニセコとスキーの関係は古く、明治・大正時代まで遡る。日本でも登山、スキーの先達として有名なレルヒ大佐が、羊蹄山に登ったのは明治末年のことであった。このときスキーを持参していたらしい。以後、この地がスキーと深く結びついていった事は想像に難くない。戦争中は軍隊用のスキー以外は一時的に民間のスキーは停滞するが、戦後は少しずつスキー連盟発足や公園指定で上向いてゆく。以後1961年(昭和35年)にニセコにリフトが設置され、全日本スキー大会などが開催されるようになった。

 しかしながら、本当にスキーが「国民的スポーツ」になるのには、もう少し時間がかかるのである。日本で未曾有の「バブル経済」の発展と共に、国民の生活にゆとりが出来、海外旅行やスキーと言った「レジャー」方面に向くようになった。オーナーがスキーを始めたのは1986年、スキーブームが始まる頃だった。全国どこのスキー場も休日となるとスキーヤーであふれ、「リフト待ち30分〜1時間」と言うこともざらであったし、近隣の宿泊施設は予約が取れず、あちこち長距離電話をかけまくって*頼み込んだものだ。

 *当時は現在のようにまだインターネットが普及(存在)していなかった

 オーナーがスキーを始めたのは、ちょうど齢40の時であった。北アフリカでの3年間の長期出張を終え日本に帰国してみると、友人たちはほとんどスキーをやっていた。「乗り遅れてなるものか」とばかりに、大山をはじめとする隣県のスキー場に足繁く通った。2〜3シーズン経った頃、中国地方の重い湿雪に嫌気がさして、初めて北海道に「挑戦」した。サッポロ市内のホテルステイで、「サッポロ国際」など近郊のスキー場を回った。その時は昼に滑って、夜は夜でサッポロ市内のナイタースキー場に地下鉄で行った。その時に地元のスキーヤーと話が出来た。

「ちょっとお訊きしますが、北海道の人が本気で滑る時には、どこに行くんですか?」

「それはニセコですよ。スケールが大きくて、自然が残っていますから・・・。」

 
その次の年から、私たち夫婦の「ニセコ詣で」が始まった。それは「本州より雄大な北海道の人が、<雄大>と誉めるニセコとはそもいかなるスキー場?」という好奇心であったのだ。こうして5〜6年、いちおう満足して通い通した。しかしだんだんタバコの煙が気になり始めていた。私は日本帰国の年にひょんな事からタバコを止め、その頃になると煙が鬱陶しく気になり始めていた。妻の方はもともと私の喫煙に反対していた人だった。日本国内のスキー場は、すべて同様の状況だった。

 こうして私たちは、初めて海外に挑戦した。それはカナダのヴァンクーヴァーから車で2時間ほどの「ウィスラー・ブラックコム」というスキー・レゾートであった。「カナディアン・ロッキー」というだけに、自然そのものも当然日本より雄大であったが、それよりも嬉しかったことは、「禁煙」がアメリカ同様に徹底していたことであった。簡単に言うと、「タバコ嫌いが苦痛を伴わない」レヴェルなのであった。当時レストランでは、
分煙*」がきちんと行われていた。このことは私たちをたいへん喜ばせた。妻は、「少々お金がかかっても、カナダの方がいい」と嬉しそうに言った。それからは6年間続けてカナダのスキー場に通ったのだった。

 
*カナダの分煙:2004年末現在、法律はさらに進んで「レストランは全面禁煙」となり、私たちを有頂天にさせた。

 話が本題よりそれたので戻そう。私がニセコに戻った理由である。正確には「戻った」というより、「また行くようになった」と言うべきであろう。オーナーのHPでお分かりのように、オーナーはけっこう海外に行く事が多い。そうなると、結果的に航空会社のマイレージがたまる。私は全日空が参加している世界の航空グループ「スターアライアンス」で飛ぶことが多い。そうなると、そこそこに「マイレージ」が貯まる。つまり貯まってゆくと、無料(ただで)航空券がもらえることになる。そうなると、必然的に冬場の北海道行きの航空券をもらう。その先がニセコな訳である。もちろん宿もネット検索である。こうして、数年前からニセコに「復帰」したのだ。

 少し前置きが長くなりすぎたが、行ってみると久しぶりのニセコは様子がガラッと変わっていた。まず人が少ないことだった。特に平日は若いボーダーが少しだけ−という状態で、リフト待ちは全くなかった。平日なので宿もガラガラ、「よくこれでやっていられるなあ」と思わずにはいられなかった。ところが、ここ1,2年、急速に変わってきたのである。外国人特にオーストラリア人の増加が目立つ。昨年もペンション街下の温泉で、オーストラリア人カップルと知り合って湯の中で話が弾み、彼らの帰国後もしばらくはメールでやりとりした。彼らにとっても、日本の温泉は新鮮な体験であったらしい。

 ところが、今回はもっとドラスティックに変化していた。まず新千歳(サッポロ)空港からのバスが着く広場に外国人が異常に多いのだ。オーストラリア英語をしゃべる白人が特に目立つ。また大通りを外国人ファミリーがたくさん歩いている。リフト券売り場前でも、外国人グループが大きな声で話していた。ゴンドラ・リフト乗り場でも外国人が列の前も後ろにもいることがある。

 一人の中年の外国人と一緒になったのも、アンヌプリコースのゴンドラの中であった。目が合ったので声を掛けてみた。「あなたはオーストラリア人ですか?」私が始めから「オーストラリア」と決めて訊いたのは理由があった。それは後述する。
「いや、イギリス人です。」「ホンコンに住んでいます。」と彼は言った。
「では外交官かビジネスマンですか?」
「キャセイ航空のパイロットです。」
「そういえばキャセイはホンコンから直行便がありますね。」
「私も時々操縦しますよ。」
「では帰りはまた操縦するのですか?」
「いやいや今回は客です。今休暇なんですよ。」彼は笑いながら言った。
いくら何でもスキーの帰りに操縦するわけはない、これは明らかに愚問だった。
「パイロットにはスキーは許可されているんですか?」
「ええ、十分気をつけて滑るんです。」また彼が笑う。これも愚問だった。
「ご家族が見あたらないが・・・?」と訊くと、「今はロンドンにいる。」という。

 私の怪訝そうな顔を見て、彼は説明を始めた。彼はロンドンから少し離れた町に自宅を持っているが、子どもたちはロンドンの学校に通っている。奥さんもイギリスにいて、たまにホンコンまで会いに来るという。日本流に言うと、彼は単身赴任なのだ。それにしても、タマの休みにイギリスに帰らず、一人で日本に来て滑るというのも面白い。

 そうこうしていると、ゴンドラが上の駅に着いた。「もう少し話したいし、しばらく一緒に滑ってもいいですか?」と訊くと、「Sure.もちろん」と言った。彼が先に滑り、私は後に続いた。なかなかいい滑りである。今度はリフト上でのしゃべりになった。冬は休みになるとスキーに行くらしい。けっこうヨーロッパにも行っている。イギリスはイングランドはスキー場がないし、スコットランドのそれも規模が小さいらしい。「ニセコはすてきなスキー場です。」と彼は誉めた。ヨーロッパのスキー場を知っている彼でも、ニセコを誉める。日本人として嬉しかった。

私は話題を変えた。
「ホンコンが中国に返還されて、キャセイ航空の労働条件も変わったのでは?」
「20年も働いてきたが、だんだん悪くなっている。特に最近入った若い人たちはたいへん悪くなっている。私は勤務が長いからまだいいが・・。」
こういう感じでしばらく話し、おわりにお礼を言って別れた。彼は本当に「イギリス紳士」と言った感じであった。

 さて、私が白人と見ると、「オーストラリア人」と思うのは訳がある。オーストラリアの会社が、ニセコでいちばん新しいコースである「花園コース」を買収したからである。またオーストラリアの飛行機が週二便サッポロ−ケアンズ間を飛んでいる。また衆知の通り、オーストラリアは今は夏である。滑りたければ、北半球に来るしかない。もう一つ理由がある。オーストラリアドルが対円で大変強くなっていることである。(2005年1月現在、1豪ドルは約80円、弱い時は63〜65円の時があった)これは彼らにとっては「安く日本を旅できる」ことを意味している。さらに良い条件がある。ここ十年間、日本が不景気にあえいでいたのとは正反対に、オーストラリア経済はGDPが゙50%拡大し、失業率もほぼ半減した。これが彼らの海外旅行熱に火をつけたのではないか。この景気はまだ続くという。

 ホテルに帰って夕食後、ホテルのマネージャー(社長の息子)と話す機会があった。彼が中心になってこのホテルを動かしているらしかったが、ここを他の会社から買って4年目ということだった。私は上に書いたことなどを説明し、「ニセコとオーストラリア人」の関係を訊いてみた。彼によると、今から10年ほど前に、オーストラリアの会社が「ニセコの尻別川はラフティングに向いている」と目をつけて進出したのが始まりらしい。その内「自然が雄大で冬のスキーも素晴らしい」ということが分かって、スキーでも客を集めだしたという。今では「ニセコ」はメジャーになっており、オーストラリア資本が持っているロッジもあるという。なるほど、これでオーストラリア人が来やすい訳だ。

 マネージャー氏に「他の外国人は如何?」と訊いてみた。台湾人、香港人、韓国人が増えているという。台湾では日本のR社が旅行関係の本を出して、特集でニセコも紹介されたという。ホンコンの客はネットで探し回って、最後にこのホテルのサイトから申し込んできたという。マネージャー氏は若い時、アメリカに住んでいたことがあるそうで、ホームページに英語で申し込めるようにしてあった。彼は「ホンコンの客はマナーが良いですよ」と誉める。そこそこの人たちが来るのであろうか。いったん客が来ると、、またリピーターになったり、口コミでさらにやってくるようになる。

 翌朝、私が板を持って連絡リフトに向かっていた時、あるペンションの庭で若い新婚さんらしい二人が、雪を掛け合いながらはしゃいでいた。見かけは日本人だが、ことばは中国語(たぶん広東語)だ。その時若い彼女は私にカメラを向けようとした。そこで私は「あなた方の写真を撮りましょうか?」と英語で言った。私は中国語はまったくダメなのである。「ええお願いします」とにこにこしながら言う。庭の大きな雪だるまも入れて撮った後、私は訊いた。「フロム ホンコン?」「そうです」「じゃあ、雪は冷たいし、寒くはないですか?」「僕は雪が大好きなんです」と男が嬉しそうに答える。雪もさわるのも初めてなのかもしれない。「じゃあ日本の雪を楽しんでね」「ありがとう!」いい思い出を作ってくれたらよいが・・。

 アジアからの飛行機も、台湾(台北)からは週6便、ホンコンからは週4便、韓国(ソウル)からは毎日飛んでくる。私から見ると、中国の現在の経済発展から、週に2便ある上海からの直行便もいずれは増便され、やがては本土の人たちを大量にこの雪国に運んでくるかもしれない。決して順調とはいえない現在の北海道の景気だが、この辺りに先手を打っておくことも大事だろう。

 話は変わって、スキーコース、ホテルとレストラン事情である。スキーブーム時代ならいざ知らず、平日の最近の国内スキー場は、どこでも閑古鳥が鳴いている。コースでは、フリーターらしき若者とリタイアした年季の入った熟年男性だけが目につく。東山コース下にあるプリンスホテルも本館は人気すらなく、リフトも半分が止まり、新館の方だけに人がいる。もう一つのアンヌプリコースの方はやや人気があるが、それでも空いている。やはり東急グループが買収したというグラン・ヒラフコースがいちばん人数が多い。東急買収は、長い間統一されなかったリフトが合併できたというメリットもあった。

 外国人の増加に伴って、レストラン・店舗などでの英語併記も普及してきた。ヒラフコースの山上レストラン・ヒュッテキングベルでは、時間帯によっては外国人客の方が多く、英語が辺りに飛び交う。髭面の白人の相手をしていたカウンターの若い娘に、「英語で大変だね」と言うと、「いえ、英会話の勉強になりますから・・」とにこやかに答えた。ここで働くのが楽しくて仕方がない−と言う風に見えた。若い人たちには、外国語習得のいい刺激になるだろう。

 コース上に目をやると、やはり時代の流れかボーダーがやや多い。偏見ではないのだが、彼らのマナーはスキーヤーのそれよりやや劣る。コースのど真ん中に3人で横向きに座り込んで邪魔したり、周りも見ずにスキーヤーのそばで跳んでしまったりする。ボーダーには、初心者を最初に連れて行き、ゼロから教えてくれるベテランがいないのが原因だという。

 もう一つ目につくのが、修学旅行、スキー行事の児童・生徒たちである。この指導はたいていがスキー・スクールの教官が担当している。東山ゴンドラの乗り合わせたスクールのインストラクターに訊いてみた。学校の生徒を対象にすることに力を入れて、もう5,6年以上になるという。

 以上見てきたように、スキーブーム時代から大幅に変わったニセコスキー場だが、抱える問題は多い。同じホテル・宿同士でも、昔からあるところと新しい経営者では考え方の違いがあり、なかなかまとまらないこと。バス会社や観光関係会社などが自社の観点でしか考えられず、方向性・展望が出しにくいこと。例えば、多くのバス会社が新千歳空港−ニセコ間路線を運行しているが、切符売り場はバラバラ、乗り場もバラバラ、値段だけは同一だが、「共通切符」さえない有様で、まさに「群雄割拠」状態。さらに、ニセコヒラフの上の共同バスステーションの建物は、十年以上も前から変わらない古い施設である。待合室からあぶれた客は、雪降る外で足踏みしながらバスを待つ。「客の立場」などにはまったく立っていない。「明日のことより今日の銭」と言った風である。

 また北海道の観光を推進するはずの道庁の役人の意識が、遅れているのも問題だといわれる。だいたい役人が観光関係にタッチするとうまくいかないことは、全国の失敗した多くの「第三セクター」事業を見れば、明らかである。とはいっても、やはり行政のサポートがなければ、観光事業が推進されないのも事実である。若いやる気のある観光関係の人たちの意見も採り入れる制度はないのだろうか。

 全国でも閑古鳥が鳴いているスキー場が多いなか、外国人観光客、スキーヤーが増え続けている「インターナショナル」なニセコは、今が将来を見越した変革の大チャンス(千載一遇)に見えるが、肝心の地元の意識の遅れが命取りになってしまわないかと危惧する。「インターナショナル」で世界基準の国際的スキー場になるのに、中央の大資本と外国資本だけに頼っていたら、最後には地元にはノウハウもお金もあまり残らない感じがするのだが・・・・。


ニセコ・グランヒラフの上部のリフト


関連および参考サイト:
関連インナーリンク: 世界と日本のスキー場の話


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*注:いそうろう(居候)

むかしは、「他人の家に住み着いて大したことはせず、<タダメシ>を食らう輩」のことを言った。
転じて現在では、全国のスキー場でスキーシーズンの始まりと共に、各地からスキー、ボード大好き人間が
集まり、宿泊施設で配膳、掃除、送迎などの仕事を手伝い、自由時間にはゲレンデで滑る。
彼らは基本的に無給であるが、部屋と食事をあてがわれるので生活は何とか出来るらしい。
スキーシーズンの終了とともに、ふるさとに帰る(新しい仕事を探す)というのが生活パターンである。
現在の「フリーター」の魁のような存在であるともいえる。良く言えば、「自由人」であろうか。



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