「日本人捕虜収容所」 "P.O.W.Camp,Cowra,NSW"
(にほんじん・ほりょしゅうようしょ)(カウラ・ニューサウスウェールズ州)

 収容所」といえば、アメリカ合衆国のマンザナ収容所やカナダのものが、知られており、特にマンザナは、何度もハリウッド映画やテレビドラマに登場しました。第2次世界大戦中の1941年12月、日本が真珠湾攻撃をすると、米国にいる日系人が、強制的に砂漠の収容所に集められたのです。これは正しくは、「強制収容コンセントレーション・キャンフ」といいました。明治以来、ハワイ、西海岸を中心に日本人移民がいましたが、この人たちはすべての財産を没収ぼっしゅう同然とされたうえ、収容所に入れられてしまったのです。

→戦後もずっと後になって、米国はこの「処分」の過ちを認め、生存者に賠償(ばいしょう)*1しました。

*1
賠償・・・他人にあたえたお金,物やこころの損失、被害に対して、おもに金銭でつぐなうこと  生きている者に一人2万米ドル(約240万円)を支払った これはすでに死んだ者にはなかった 

 さて、話はオーストラリアへ戻りますが、不覚(ふかく)にも私は、この国に収容所があったことさえも知りませんでした。ふつうの観光ガイドや案内本にはのっていないのです。ホストファーザーのロバートに、レンタカーで首都キャンベラを通ることを伝えると、「近くに日本人の捕虜収容所があるはずだ」と教えてくれました。くわしい場所は不明でしたが、「ま、行って聞けばいいわ。」と軽い気持ちで出発しました。泊まったモーテル(この国は、車社会なので発達している)の主人に聞くと、マップをくれて「この街まで行くと、表示があるはず」と教えてくれました。その町
カウラの案内図には、ちゃんと、日本文化センター、日本庭園と収容所、それに戦争墓地が載っていました。
 
           
 
                     カウラの日本庭園(観光絵はがきより)

 
 「
日本庭園」というのは、この街が戦争中日本人の世話をしたということで、戦後、当時の安井東京都知事、日本商工会議所、日本大使館、日本人会などが中心となり、多額の募金を集めて、この地に日本庭園を造り、寄付したものです。それは、収容所跡へ続く「さくらアベニュー」通りの丘の中腹にあり、手前の日本文化センターの中には、扇子やこけしなどの日本産品が売られており、奥には、日本画や九谷焼や日本人形、日本の子どもたちの作品などが、展示してありました。その建物の奥が、丘の斜面を利用した回遊式の泉水や、茶室をもつ数千坪の庭園でした。戦争そのものは、両国にとって不幸なことでありましたが、それがきっかけになり、日本とこの国の友好に役立っていることはすばらしいことだと思いました。                                       
 
           
 
                 カウラ収容所跡(現在は柵で囲い 牧場になっている)
 

 さて、そこから1kmほど離れた「
日本人収容所」跡へ行きました。丘のつづく牧場に囲まれたその場所は、柵と針金で囲ってありました。「カウラ捕虜収容所」(P.O.W.Camp)と書いてある看板のそばには、当時の写真とその説明がありました。それによると、それは「日本人収容所」ではなく、日本人、朝鮮人、イタリア人などの「敵国」のP.O.Wキャンプ*2「捕虜ほりょ収容所」でした。そこには、そのような説明の他、終戦1年前に、日本人捕虜が、集団脱走(あかつきのだっそう)して多くの人が死んだことなどが、書いてありました。  

*2 P.O.W.Camp= Prisoner of war 戦争捕虜、camp=収容所

オーストラリア側資料(写真と説明文<カウラ・カウンシル・HPより転載>

 私が着いた時にいたオーストラリア人5、6人がいなくなると、風の音と羊の鳴き声しか聞こえません。柵の粗末な戸が開いていたので、なかに入りました。草地の中は、6、7m間隔にコンクリートの基礎だけが残り、便器と分かる破片が飛び出しており、2m四方ぐらいの小さな「部屋」も確認できます。この明るい陽光の下で見ると、別世界の話のように思われますが、当時は、この明るさも捕虜たちには心の救いにもならなかったのでしょうか。      

           
 
                       カウラ日本人墓地(観光絵はがきより)


 30分後、さらに数km離れた一般、
戦争墓地へ行きました。戦争墓地には、第一次第二次その他の戦争で死んだオーストラリア兵の立派な墓が、きれいに並んでいます。その奥に、芝生にコンクリートを埋め込んだだけの粗末な「墓」が集まっている一角がありました。近寄ってみると、コンクリートには、名前と死亡年齢が刻んであります。男の名が多かったのですが、何分の一かは、女の名前も混ざっていました。年齢を見て驚きました。20歳22歳の男性に混じって、58歳、67歳の人もいます。中には70歳以上の老女もいます。ブルームという田舎町の真珠貝採りなどの人たちは、自分の意志でこの国に来たのでしょうが、戦争のさなか、異国の地で亡くなる彼らの気持ちは、どの様だったのでしょうか。私はそれを思うだけで、つらい気持ちになりました。
 
 帰国後、
豪日交流基金発行(1995)の「オーストラリア発見」を見るとこう書いてありました。少し長いのですが、引用します。
「...1911年にオーストラリアにいた日本人は男性が3281人、女性が208人でした。30年後に太平洋戦争が始まった時点でまだオーストラリア国内に残っていた日本人は、戦争が終わるまで収容所に入れられました。..」「..一方、オーストラリア国内では、戦争中、男性、女性、子どもを含めて千人以上の日本人が収容所に入れられました。この半数以上は、ブルームで真珠貝を採取していた潜水夫でした。その後、何千人もの日本人兵が捕虜(ほりょ)として収容所に加えられました。これら日本人兵の捕虜数百人が引き起こした、オーストラリアの軍事史上にも他に例を見ない事件がカウラ脱走事件(カウラ・ブレークアウト)でした。  

 ニューサウスウェールズ州中部にあるカウラでは、第2次大戦中、約4000人の捕虜が収容され、このうち、日本人捕虜の数は1100人以上でした。
1944年8月5日の未明、事前に決められていた合図を受けて多数の日本人兵捕虜が鉄条網めがけて突進し、集団脱走を図りました。378人が収容所から脱走しましたが、これ以外に脱走の途中で死亡したり、また、脱走に加らなかったものも多くいました。脱走した兵士のうち334人は事件後9日以内に捕らえられましたが、中にはカウラから24kmも離れたところまで逃げた者もいました。このカウラ脱走事件の結果、死亡した日本人兵の数は231人、負傷したのは108人で、自殺者も多数でました。...」 

 みなさんは、「どうしてこうなるの?」「生きて帰る方がいいのに・・」と思うでしょうが、当時の日本では、兵隊には「
捕虜になるくらいなら、死んだ方がまし・・」「国のため戦って死ね」「死ぬことが生きることだ」という教育がされていたのです。敵の捕虜になることは、「大変な恥」とされていました。捕虜にされた後は、「おめおめとは生きて日本には帰れなかった」のです。これは、<戦闘で勝ち目がなくなると手を挙げて降伏する>という欧米型と比較すると、その考え方が特徴的に理解できると思います。

 話は墓地に戻ります。それぞれの墓の前には、小さな花が載せてあります。誰が供えたのでしょうか。見回すと、
黙々と墓地の手入れをしている作業服姿の若い男女がいます。そばの作業用トラックには、市の名前が描いてありました。彼らは、50年も前に死んだ見ず知らずの日本人のために、掃除をしてくれているのです。私は思わず、彼らの方に歩み寄っていました。「今日は。私は、日本から来たのですが、あなた方は毎日、ここの掃除をしているのですか?」 すると、18,9歳と思われる童顔の青年は、「いえ、毎日ではありません。週に1回くらいです。」と答えました。「いつも掃除をしてくれてありがとう。日本人を代表して、お礼を言います。」その青年は、仕事中に予期せぬ外国人が現れたので、どぎまぎした様子でしたが、にこやかに答えてくれました。
       
 「これからもよろしく。」といいながら、握手をして門のほうへ5mほど歩いたとき、後ろから「ヘイ!」と呼び止められました。振り向くと、私を呼んでいます。なにかと思って戻ると、「そこの日本語はどういう意味か。」と訊いているのです。私は見逃していたのですが、私の肩くらいの高さの石碑が建っており、「日本人戦没者慰霊碑」
せんぼつしゃいれいひと漢字で書いてありました。ちょうど日本の「お盆」の後(この地では8月15日は戦勝記念日)でしたので、花束が供えてありました。私は、その青年に碑の意味を説明しました。すると、納得したようにうなずいて、「ありがとう。」と言いました。明日からは彼は、碑の意味が分かって日本人墓地の掃除をしてくれるのです。私は、ほのぼのとした気持ちで、墓地を後にしました。


参考:サイト内リンク:アメリカの日系人強制収容所