8 台東から花蓮へタイトン-ホワリエン / 行けなかった阿美族民俗村(八日目)

ホテルの窓から見た旧駅と鯉魚山(右奥)
 朝起きると、荷造りだけしてクロークに預け、外出した。花蓮行きの列車は10:51なので、出発までに「山地文物陳列室」で先住民族の文物展示を見ようと思ったのだ。途中、日本統治時代の「台東神社」があった所に「忠烈祠」があった。鯉魚山と呼ばれている公園を横に見て、中心部の繁華街にへ入る。

 しかし、だいたいの目安の場所に行ったが分からない。くるくる一帯を回って、大きな建物のそばに立っていた高校生らしい男子に尋ねた。彼は私が出した本をじっと見てから、「分かった」と英語で言った。「私が連れて行きます」というので、ついていった。ところが、行けども行けどもその建物はない。「おかしいなあ」という顔つきの彼は、本を再度見て、今度は番地で探し始めた。
ブヌン族の女性人形
 最後に辿り着いた場所は、先ほどその若者と出会ったまさにその場所であった。そこは「中山堂」と表示した建物だったが、それが実は探している「台東県立文化中心(センター)」なのであった。分かりにくいが、その地下に「陳列室」があったのだ。 その若者はすまなさそうな顔をしていたが、私と妻は「ありがとう」と礼を言った。間違ってはいたが、彼は本当にそう思いこんで、一所懸命案内してくれたのだ。

 これで思い出すことがあった。私が住んでいたアフリカのアルジェリアでは、よく街中で道を訊いた。すると親切にも、ついていってくれたり、気楽に教えてくれた。しかし、それの半分は間違いのことが多かった。人のいい彼らは、他人に訊かれて「知らない」が言えない。結果的に「ウソ」を教えることになるのだ。アメリカや日本ではまずこうはならない。即、「知らない」と言うからだ。
 
 さて、肝心の「山地文物陳列室」だが、案の定「日本地方都市の市立図書館の地下展示」と言った風情だった。私たちが行った時は、客がまったくいなくて、照明が消されていた。ここの展示は、台東県に住む阿美族をはじめとする、先住六民族の衣装、生活用具や民芸品である。また同時に、数千年前の古代遺跡発掘品の一部も移転展示されていた。

 これもすぐに見終わった私たちは、急いでホテルへ戻り、荷物を持ってバスセンターに向かった。街中から新駅までは、やはり一人NT19だった。アジアの国々では、公共料金は日本よりずっと安い。その他の国と比べても、日本の「公共料金」は高い。
 
 台東新駅10時51分発花蓮行きの列車は、呂光29号だった。乗る直前に、駅のキオスクで弁当とビールと「日式緑茶」を買っていた。私は乗って列車が走り出すや、ビ−ルと弁当を食べ始めた。それにしても、台湾の「便當」は迫力がある。因みに、この語の由来は日本語らしい。日本のそれは「上品で高くて少量」だが、ここのは「ダイナミックで安い」。骨付きの鶏の足が、どーんと丸ごと飯の上に乗っているのだ。その代わり、「旅のグルメ・山海の珍味」といったデリカシーはない。しかし、育ち盛りの高校生でも満足するに違いない量である。


ほんとに田舎らしい名の「山里駅」

 ここまで乗ってきたが、客車に「喫煙車」はなく、すべて「禁煙車」のようである。「喫煙車」がある一部の国からいうと、筆者夫婦には大変うれしいことだ。嫌な思いをせずにすむ。それに喫煙者自体が少ないように感じられる。

 少し大きな駅に止まると、「駅弁売り」が現れる。写真のような格好で、声を出しながら行き来する。日本では「新幹線」を中心に、こういう姿がプラットフォームから消えて久しい。人間味があり、懐かしかった。
 玉里、瑞穂、光復と町を過ぎてゆくと、平野が広くなり、水田が増えてゆく。沿線には「* * 米」と書かれた看板が目につくことから、東海岸の「米どころ」のようだ。
 車窓から、集落の端にある墓地が見える。墓石は日本のそれからいうと、やはり大きく高さもやや高い。ここのは、上部に十字架がついているのが多い。韓国もそうだが、意外とキリスト教徒が多いのかもしれない。

花蓮駅前の兵士
 
 14時3分、ほぼ定刻に花蓮駅に到着する。ここも台東駅同様、町はずれにできた「新駅」であったが、やや古く小振りであった。

 駅のそばで机を出して、兵隊が二人「手持ち無沙汰」そうに座っていた。新兵招集で入隊する若者の受付らしい。この国も大韓民国のように、「国民皆兵」である。台北でも地方都市でも、カーキ色軍服の若者を見かけた。台北市内の各駅では、整列した彼らをよく見かけた。士林駅では、二個分隊はいただろう。同じ若者でも、何か日本の若者とは、雰囲気が違う。簡単にいうと、髪は黒く、顔つきはしまった感じで、まるで昔の日本の若者のようであった。


郵便局員の郵便物回収
 
 花蓮駅前の郵便ポストに、集配に来た郵便局員がいた。バイクが緑色なのが日本とは異なる。因みにこの国では「郵便局」とはいわず、「郵局」という。

 駅前からNT19(=70円)払って、街中行き連絡バスに乗った。どこの市内でも、バスはふつう乗車の時に、運転手に「一律料金」を支払う。

 本に載っていたホテルは、大きいが受付のオバサンの対応が悪く、しかも英語と日本語が通じない。すったもんだの末、フロントからかけた電話で「オーナーらしい婆さん」の分かりにくい英語とつきあう羽目になった。


花蓮港をバックに
 
 何とか荷物を下ろした私たちは、町中を歩いてみることにした。まだ午後3時過ぎだし、この市郊外にある「阿美族文化村」へ行く「日帰り」ツアーも、探して申し込まなければなければならない。

 街でいちばんの目抜き通りの「中山路」を下る。この国では、どの町でも目抜き通りは、「中山路」であることが多い。「中山」とは、「国父、孫文先生」のことである。

 先述のように、何も案内できない最低のホテルで情報がもらえなかったので、中山路の通行人に聞きまくって、やっと「旅行社」の場所を教えてもらった。

 入って、「英語か日本語話せる人は?」というと、奥から日本語を話す年輩の男性がでてきた。その人は申し訳なさそうに、「昨年で<阿美族文化村ツアー>はなくなりました。タクシーで行くしか方法はありません。バスもありません。」と言った。


北浜公園で

 
なんでも昨今は、「希望者がいなくて、ツアーが組めない状態」だという。あの大地震後に景気が悪くなって駄目なのか、もう「先住民少数民族」に対する関心が低くなったのか、いずれにせよタクシーしかないというのだ。更にその人は、「タチの悪いタクシーがいるから気をつけるように・・。」と言った。私たちは、もうこれで行く気がなくなっていた。

 
そのあと、歩いて海の方へ向かった。南の海はやはり青さが違った。北浜公園とそばの花蓮港一帯を歩く。写真のように、ゴムと椰子が当たり前のように、植わっている。決してきれいではないが、市民の散歩コースになっていた。


町の餃子屋さん

 
帰りに食事をして帰ることにした。今回は気分を変えて、「粥」にした。私は田園蔬菜粥、妻は翡翠コツ魚粥で、ビール一本を加えて、NT120(=440円)である。しかし、やはり粥では腹がいっぱいにならない。

 向かいの「餃子屋」(左写真)に入った。「小龍包」を一人前注文し、二人で食べた。目の前でつくって、蒸し上がったばかりで、「ハフハフ」とあっという間に10個を食べてしまった。美味かった。これでNT50(=180円)なので、大満足だった。「美味くて安い食べ物」は、人を幸せにしてくれる。


上の店の売店部門で

 
この店はまた隅の部分が、タバコ、ビンロウ、チューインガムや飲み物も売っていた。よく見ると写真のように、檳榔(ビンロウ)を作っていた。「ビンロウの実」は、椰子のような木の実だが、それを「嗜好品」として噛みタバコかチューインガムのように噛むものらしい。

 
私はこの国に来てしばらく、路上にまるで「繊維だらけの猫のウンコ」が多く落ちているのを見て、「なんて猫が多いんだろう!」と思っていたが、後にこれが「ビンロウを噛み捨てたもの」と判明した。注意してよく見ると、中高年がよく食べていた。

 訊いてみると、「タバコのように少し気持ちよくなって、習慣性がある。」という。これを噛んでいる人は、口の中が赤くなっている。最初見た時は気味悪く、驚いたものだ。この国は全体的に、日本より「喫煙人口」が少ないように思われるが、それもこのビンロウのためかもしれない。