朝起きると、TVで日本のNHK朝ドラの「さくら」を見ながら、昨晩売れ残りの弁当を食べる。書くのが遅れたが、台北でもどこでもホテルのTVでなんと日本の番組が見られる。どうも「地上波」らしい。NHK、民放、米CNN、豪ディスカヴァリーなどがふつうに見られる。当然ながら、所によってチャンネルは異なる。
食後に湖岸を散歩した。やや靄っているので、景色はそれほど綺麗ではない。周りのホテルはどこもガラガラだ。反対岸には、高山族の「民俗村」があり見学できるらしいが、日程を考えて行くのはパスした。
ホテルを引き払って、交番の前にあるバス停にゆく。妻はリュックが重いのかヨタヨタしている。タクシーの運転手が「乗るか?」と合図をするが、目的地はそんな近い距離ではないので手を振って断る。そのあとでヨソ見をしていたら、その運転手が何かを言って教えてくれた。埔里行きのバスだった。客でもないのに親切なものだ。
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あっ、カメラがない!
本日の目的地「霧社」はかなり山の中にあり、バスは埔里で、乗り換えなければならない。40分ほど乗って、この辺いちばんの都市、埔里に到着した。久々の都市だ。しかし、この後大変なことが起こった。
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埔里(プーリー):紹興酒とビーフンと花栽培の町 |
街中のバスセンター前で降りたのは私たちだけだった。降りるやいなや、バスはすぐに発車し走り去った。その直後、私はデジカメがないのに気がついた。確か首にかけていたはずだが・・。あちこち見てみるが、どこにもない。あのカメラは日本の量販ディスカウント店でも八万五千円もした。それ以上に、旅の記録が消失するのが痛い。妻に言うと、「朝のホテルで忘れたのでは?」という。それではと、公衆電話を探してバスセンターへ行った。コインの入れ方が分からず困っていると、一人の老人が歩み寄り教えてくれた。彼は日本語が少しできた。
日月潭のホテルに電話をかけると、しばらくして主人が出てきた。しかしロビーにもないという。お礼を言って電話を切って、途方に暮れていた時、いきなり若い白人が、「何か困ったことか?」と英語で訊いていた。私の英語のやりとりを近くで聞いていたらしい。そこで状況を説明すると、「バス会社に聞くのが良い」と言った。何と彼は中国語が話せた。近くの職員にバス会社の場所を聞いてくれた。「さっきのバスは車庫にあるそうだ。ちょっと距離はあるそうだが、大体の位置は分かるから。」と言った。私たちは二人でそこに行くのが不安だった。まず英語は通じないし、私たちは中国語は全く駄目。つい、「ついて行ってくれませんか」と言ってしまった。
彼は「残念ながら駄目です。私は今仕事中です。」と言った。「仲間が今仕事をしている」と指さす。「仲間」はバスセンターのベンチに座って、若い台湾の青年と話していた。「布教」らしかった。しかし私たちの窮状を見て仲間と相談し、一緒に行ってくれることになった。
彼らの「足」は古い自転車であった。自転車を押しながら車道を歩いた。私はアメリカ人宣教師だろうと思い、「どの州から来たのですか?」と訊ねた。彼は「ユタ」だと言った。「あなた方はモルモン教ですか」
やはりそうだった。モルモンの宣教師は、大学生が無報酬で外国で布教活動につとめる−ので有名である。タレントのケント・デリカットやケント・ギルバートは、日本で布教したことがある。
話しをしながら1km以上も歩いて、やっとバスの車庫らしい建物に着いた。宣教師がやはり中国語で「遺失物」の場所を訊くと、奥の事務所に通された。その間は不安で、「やはりないか!」という次の自分の姿が、頭に浮かんだ。。部屋に入ると、女性事務員の机上に見慣れた私のカメラバッグがあるではないか!。思わず、"That's
it !"と叫んで事務員に歩み寄り、握手をしていた。彼女は「オッさん」がいきなり現れて叫んで手を握ったものだから、目を白黒していた。私は「謝謝!謝謝!」と繰り返した。
カメラが帰ってきたことは当然嬉しかったが、宣教師たちが「仕事」を置いてまで、私たちを「助けて」くれたことが嬉しかった。台湾でアメリカ人に助けられたのだ。私たちは彼らの住所を聞き、お礼を言って分かれた。妻は、「日本で外国人が困っているときは、助けてあげましょう。」と言った。私も異存はなかった。「人の情けと親切」が身に浸みた日であった。
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埔里から霧社までの道は、やや険しい山道だった。バスの乗客に一人の老人が乗っていた。話しかけてみた。案の定、日本語がしゃべれた。しばらくしてまた老女が乗ってきたが、知り合いらしく、老人は「おーい、日本語がしゃべれるぞ!」と呼んだ。老女はそばに座った。私は霧社に行くわけを話し、訊いてみた。「ああ霧社事件ね。私が少女の頃、お父さんが骨を拾ってきたのを聞いたよ。」と言った。日本語は上手だったが、「それ以外のことは覚えていないよ。」と言った。無理もない、1930年に起きた事件だ。今73歳の彼女が生まれて一年くらいの時である。
老人が「当時の警察官舎」といった建物
小一時間で霧社に着いた。なぜか町の入り口に料金所があった。外部から来る車からお金を取る。小さな商店街は道路に沿ってあり、そこには警察署、集会所らしいものもあった。その道の突き当たり、警察署の上側に古い木造の家がいくつかあった。坂を上がってきた老人に尋ねてみた。やはり日本語ができた。「ああその事件なあ。わしはあとでよその町から来たからなあ」詳しくは知らないといった。「詳しく知りたいんなら、この奥にある廬山温泉に行けば、事件に関係した人の奥さんがおるから聞ける」という。しかし、今回は時間的に無理だった。私たちは、その老人の助言に従って、「抗日記念碑」へ向かった。
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「事件」のリーダー、モーナルーダオ |
もと来た少しくねった道を引き返すと、500mくらいで右手が公園になった場所に出会う。そこに「反乱軍」の墓、リーダーの像、左下の「反乱者」の群像があった。一番奥、最上段の墓は、戦後5,6年位して元警察所跡で発見された、手首を太い針金で縛られた多数の白骨死体が埋められているという。 (「地球の歩き方、台湾」より)
これはどんな状況から生まれた死体かは、容易に想像がつく。またも私は「嫌な気分」になった。タイの「戦場にかける橋」で有名なカンチャナブリにある「戦争博物館」で見た現地人の白骨死体の時と同じだ。これも日本人が行ったことだ。それにしても、「烈士之墓」と彫られてあるということは、彼らは当然ながら「抗日の英雄」なのだ。このあたりについては後で述べる。
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次に、私は「群像彫刻」の前に立った。男たちが決起するのは当然としても、前に一匹の犬、後ろには母と大きな石を持った小さな子供(写真左端)までいた。これは何を意味するのであろうか。老若男女を問わず、「反乱」を起こしたと言うことだろう。彼らにそこまでさせた日本の「植民地政策」とは何だったのだろうか?。
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「霧社山胞抗日起義紀年碑」と筆者 |
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「像」から更に200mくらい歩くと、右手に写真のような敷地があった。「台湾電力」と表札があった。「地球の歩き方」は、ここが<襲撃事件のあった学校跡>と断じている。敷地に入りかけたら、中から中年男性が出てきた。「こんにちわ、ここが霧社事件の場所ですか?」と聞いたが、今度は全く通じなかった。男性は「料金所」の横の食堂に私たちを連れてゆき、店の女主人に何か言っている。彼女は店から出てきて、「ニッポンからキタ?」と訊いた。「ソウ、ここが学校アト」「アチラ日本人墓あるヨ。あの家の向こうネ。」お礼にお茶のペットボトルを買って、墓へ向かった。
事件の起きた学校跡、現「台湾電力」用地
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店から「日本人の墓」まではほんの少しの距離らしかった。道は緩やかな登りになっていた。「歩き方」の大雑把な地図にある場所のあたりをウロウロしたが、墓らしいものは何もなかった。
墓場へつづく坂道
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しばらく一帯を歩き回ったあげく、左の写真のものを見つけた。墓石も何もなかったが、よく見ると石灯籠か慰霊碑の台座らしいものがあり、まわりには墓のものらしい石の破片が散乱していた。それ以上は何も分からなかったが、すでに取り壊されて骨などはない様だった。
取り壊された日本人の墓
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ふと目を上げると、坂の上の方に家があり、老人がいるのが見えた。彼は日本語がかなりできた。「ああ、あれが日本人の墓だ。今は何もないけど・・。」という。私はここに来たわけを話した。「この間も同じ質問をした日本人がいた。」という。結構このことに関心がある人がいるようだ。結論として、今はすでに墓ではなく、骨もいつか持ち去られているという。ここの人が壊したのか、それとも戦後「遺族」が持ち去ったのかも不明−と彼はいった。彼は事件の後に「平地」から来て、タイヤル族の奥さんと結婚した人なのであった。
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タイヤル族のおばあさんと筆者(画像は変えてあります) |
彼はここで商店をやっていた。ここの名産品のお茶や食料品を扱っていた。奥から商品のお茶のボトルをもってきた。「まあこれでも飲んで。」という。断り続けるのも悪いと思い、頂くことにした。話しをしていると、おばあさんが出てきた。彼の妻だった。彼よりは日本語は上手でなかった。日本語をかみしめるように、思い出すように話した。
何と彼女は、「事件」を起こしたタイヤル族のひとだった。しかし、タイヤル族も「帰順(親日)派」と「抗日派」に分かれていたらしい。「あの後、その人たちはみんなどこかへ連れ去られたよ」といった。いろいろ尋ねたあと、写真を撮ろうということになったが、中国系台湾人のご主人は嫌がって中に入ってしまった。お礼を言って帰ろうとすると、「詳しいことは役場にいって訊いたらいい」といって道を教えてくれた。
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女性と話した場所の下にある「抗日英雄烈士の墓」
役場(仁愛郷公所)に行く前に、緩やかな坂を上って、もと「日本人小学校」があったという託児所の場所に行ってみた。通りにいた中年女性は、癖のある日本語を喋った。年齢は四十台であろうか。日本語は習っていないはずの世代である。「日本語はどこで習いましたか?」というと、「仕事(飲食業)で覚えた」、さらに「私は中国人だ」と言った。このあたりに住む「高山族」を頭に置いた言い方だろう。「この村で商売しているのは、みんな中国人」だと言った。何かその響きは、「中国人の方が上」と言っているようであった。
私はこれで思いだしたことがあった。何年も前に中国本土のシンチャン・ウィグル自治区に行ったとき、トルファンのホテル売店のおニイさんがこう言った。「ここで商売しているのは、みんな中国人だ。ここの連中(ウィグル人)は頭が悪いから、商売ができない」と。とんでもない「差別発言」である。しかし考えてみると、遊牧をしてきたウィグル人も、自給自足をしてきたここの「山地人」も、もともと商売が上手いわけがないのである。
「そうすると、ここでは『山地人』に対して、差別はあるんですね?」意外なことに、彼女はそれを否定した。「ここでは差別はない」と。「台湾では山地人(高山族)は、(少数民族なので)国から保護されている。山地人と結婚した中国人は、生まれる子供の籍を『山地人』にする。そうすれば、いろんな特典がある。学校もタダ(または安く)になる。国から補助もでる。みんなそうしたがっている」と。しかし私はそれを聞いて、少し複雑な気持ちだった。
筆者注・有名な話だが、中国系の女性は結婚後も「元の姓」を名乗る
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坂を下りて、もとバスを降りた商店街まで戻ってきた。台湾人の大好きな「檳榔びんろう(椰子に似た木の実)」を売る店の前にも「祭壇」が出されており、若い女性二人が例の「紙幣」を燃やしていたが、カメラを構えると、あわてて店の奥に隠れてしまった。むかしの日本の女の子のようにシャイだった。
檳榔を売る商店先のお盆のお供えと「紙幣」を燃やすカン(右下)
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メイン・ストリートから緩やかな坂をだらだら降りてゆくと、左手に農業学校、右手上斜面に小学校があった。「南投県仁愛郷公所(役場)」は、その農業学校の奥下にあった。体育館風の建物の玄関を入ると、中は本当に体育館そのもので、地震による立て替えか新築かは不明だが、それが「一時的」なものであることは明瞭だった。
中に入るとすべての課が見渡せた!が、右手の「受付」女性に、「日本語か英語が話せる人はいますか?」というと、「チョトマテクタサイ」と言った。すぐに「役付き」の人がでてきた。どうも助役らしい。日本語が話せるので、「霧社事件のことが聞きたいので、分かる人はいますか?」というと、少し待たされて、更に年輩で日本語が上手な吏員が出てきた。フンフンと事情を聞いた吏員は、「事件が起こったのはここではなく、台湾電力の所だ。」と言った。やはり、「歩き方」は正しかったのだ。
「詳しい資料が欲しいのだが・・」というと、彼は総務部長の所へ行き、何かを説明していた。やがて左写真の「合歓礼讃」の本をもってきた。写真がいっぱい入った立派な本である。そこに中国語で「霧社事件」が詳しく書いてあった。「いくら払えばよいですか?」というと、「お金はいいからあげます」と言って、外まで私たちを見送ってくれた。そこの職員はみんな親切で、優しかった。こうして、「立派な資料」も手に入れた私たちは、意気揚々と埔里プーリー行きのバスに乗り込んだのだった。
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南投県仁愛郷公所発行の本「合歓礼讃」 |
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