4 中央墓地 (5) Zentral Friedhof  <グルッペ 32C・33G・14C>
ローベルト シュトルツ  Robert STOLTZ   (墓番号:32C-24)
自筆の石刻 (右写真) (墓碑銘) (筆者写)
32Aの隣の32C のブロックにある。右の小さい方の石に自筆の石刻がある。
色が付いて いるのは、拓本の痕かもしれない。
   
   もし私のメロデイーが
   人々の心に残ったならば、
   その時は私の使命を
   果たした事、無駄には生きて
   いなかったことを知る
       ロベルト シュトルツ
                 
(多賀照子訳)
   Wenn meine Melodien in den
   Herzen der Menschen einen Platz
   gefunden haben, dann weiss ich,
   dass ich meine Aufgabe erfuellt
   und nicht umsonst gelebt habe.                    
                  Robert Stoltz
 最後の偉大なウィーンのオペレッタの巨匠で、ヴィーン軽音楽で最も成功した人である。生涯における作品には、60のオペレッタ、ジングシュピール、バレー、25ものアイス・レヴユーのための曲や、98もの映画音楽がある。他にも200の歌やワルツ、マーチがある。1938年*から46年までは、アメリカに亡命*した。
     
*筆者注・1938年は独軍(ナチ)がオーストリアに進駐した年(3月12日)、迫害をおそれて、多くのユダヤ人が外国へ亡命した
 

 以前、日本ではLPで「ウィンナワルツ集」や「オペレッタ集」が出ていたと思う。クラシック専門のホームページの見出しには、「最初のドイツ−オーストリアの映画音楽の作曲家」とある。この人の指揮で、EMIやEURODISCレーベルで、まだCD現役盤がある。


ヴィリー ボスコフスキー Willi BOSKOVSKY   (墓番号:33G-78)


prof. ボスコフスキー

(左・筆者写)
 33Gにある。あまり高くない白い自然石の下の方にこのように彫ってある。

プロフェッサー 
ヴィリー ボスコフスキー
ヴィーンフィルハーモニー管弦楽団名誉会員
 
(墓碑銘)
 
 世界的に有名なヴァイオリンを弾く指揮者で、ヴィーンフィル伝統のニューイヤーコンサートを、弓を持って25年間指揮した。(テレビで世界に紹介された)彼だけが伝統の守護者として、古典的ヴィーナー・ワルツを演奏した。(GH)

                       
 古いクラシックファンならおなじみの、
ヴィーンフィルの「コン・マス」だった人である。恒例のヴィーンフィルのニュー・イヤー・コンサート(全ヨーロッパにリアルタイムで放映する)で、立って体を揺すってヴァイオリンを弾きながら、指揮していたのを思い出す。いつも笑顔の楽しい音楽で、私もそうだったが「ファン」だった人も多いはずだ。

 今から16年ほど前に、私は彼のニューイヤーコンサートが聞きたくて、地元の人に「ティケットが手に入らないか?」と訊いたことがあった。そうすると、「ヴィーン・フィルは親子代々の終身会員が多く、また残りの券も日本などのエージェントが買ってしまう。私たちでもなかなか入手は難しい。」といわれ、諦めたことがあった。結局、テレビ中継で見ることになった。



ハンス スワロフスキー Hans SWAROWSKY
 (墓番号:32C-40)


(筆者写)



 
 墓は32Cの40番にある。上のボスコフスキーの近くである。記述は名前と年号だけである。ハープの彫刻がその下にある。

      
ハンス スワロフスキー
      1899−1975 
(墓碑銘)

 
音楽教師(1946−1969までヴィーン音楽アカデミーの教授) として、最も優れた指揮法の教授であり、教え子としてはクラウディオ=アッバード、ズビン=メータ、ジュッゼッペ=シノーポリなどがいる。指揮者としての仕事では、リヒャルト=シュトラウスとグスタフ=マーラーを得意とした。    (GH)

 むかし日本でもLPが出ていたのは知っているが、少し古い人なので名前しか知らず、この人の音楽そのものは知らない。しかし、メータにしても、アッバード、シノーポリ
にしても、現在最も脂がのり、活躍している指揮者たちである。私はヴィーンフィル時代のアッバードの演奏は好きだし、ずいぶん前になるが、倉敷市民会館でもその組み合わせで聴いた。彼らの「育て親」であれば、理論、メトードを持った優れた音楽家、教育者だったのであろう。

(*筆者後日注: 弟子シノーポリは2001年4月ベルリンで指揮中に倒れ不帰の人となった。)


ロッテ レーマン Lotte LEHMANN
  (墓番号:32C-49)


(筆者写)






32Cの49番である。墓石の色は、クルト=ユルゲンスのに近い。

   
彼女が歌うと星星が感動した (R.シュトラウス)(位置は右上
   宮廷歌手 ロッテ=レーマン
   1.2.1888−26.8.1976   (墓碑銘)


 1914年から1938年までヴィーン国立歌劇場で、最も祝福された 歌手である。聴衆は彼女の自然な態度と音楽性あるソプラノの声を愛した。また彼女はポピュラーコンサートの歌手でもあった。世界の大歌劇場には、必ずゲスト歌手として呼ばれた。
1938年*には、国を脱出しなければならなかった。彼女はアメリカで音楽監督としても活躍した。1945年引退。   (GH)

 
引退後は声楽教師を務める。20世紀前半最高のソプラノの一人と言われる。
 ヴァーグナーとリヒャルト=シュトラウスが得意であった。

                (音楽之友社標準音楽辞典抄)

     
 やはり、
1938年*である。この年はユダヤ系音楽家にとっては、前述の如く「受難」の年であった。結果的に、アメリカには多くの素晴らしいアーティスト達が、「集合」したのだ。アメリカにはこの頃以後、彼らの録音が多く残っている。今から思えば、ナチもバカなことをしたものだ。


クルト ユルゲンス Curd JUERGENS(俳優)
 (墓番号:32C-54)


(筆者写)



 
 32CのNo54にある。レーマンとは一列隣である。黒光りの墓石が美しい。墓の上部には口を開けたマスクが2つあるが、演劇の象徴であろうか。

   
CURD JUERGENS (注:”UE”は本当はUに¨=ウムラオト
   *13.12.1915 +18.6.1982


 ウィリ=フォルストに見いだされ、1936年から1979年までハリウッドも含め160本の映画にでた国際的映画俳優である。性格俳優として舞台でも成功した。ヴィーン・フォルクス・シアターやブルク・シアターのような劇場で、古典、現代のいずれの劇も演技した。 (GH)

 
 この人だけが、音楽関係の人ではない。もともと
演劇人(舞台俳優)であるが、日本には特に戦争映画で、よく知られる。ドイツ軍の将校、将官のユニフォームが似合うこれ以上の人はいない。作品は「眼下の敵」、「史上最大の作戦」、「バトル・オブ・ブリテン」など枚挙にいとまがない。信念を持った頑固で一徹な役が多かった。とにかく存在感があった。筆者は映画ファンだったので、この鋭い目つきで、威厳のある重厚な風貌が大好きだった。

 

アーノルド シェーンベルク Arnold SCHOENBERG (墓番号:32C-21A)
 32Cでもいちばん記念教会に近いところ、No21Aにある。墓の奇抜な形が人目を引くので、通りすがりの人は足を止めて見てゆく。


 彼の「12音階」の技法は、20世紀音楽の顕著な特徴であり、今日では現代古典と見なされている。1926年、ベルリン音楽アカデミーの作曲法の教授、1933年フランスを通ってアメリカへ移住し、カリフォルニア大学で教鞭を執った。1906年から1911年に、60枚以上の肖像と風景画を描いた。(GH)

・・・無調の音楽、12音技法の創始によって、現代音楽の進路について決定的な方向を示し、またアントン=ヴェーベルン、アルバン=ベルクをはじめ多くのすぐれた弟子を育て、この面でも現代音楽に大きな影響を与えた。(以下略) (標準音楽辞典) 

 

ハンス エーリッヒ プフィツナー  Hans E. PFITZNER
 (墓番号:14C-16)

14Cの16番である。この一角は政治家が多いので、見落としやすい。
 
 
彼の5つのオペラで、「パレストリーナ」だけが生き残った。彼の人生は、モダーンなもの全てに逆らったことで、特徴づけられる。ナチは彼の明確な「ナショナリズム」を、後の人たちにとって不愉快なものにしてしまった。そのことが、彼がザルツブルグの老人ホームで死去するまでに、殆ど忘れられてしまった大きな原因になっている。 (GH)


 この人や、
リヒャルト=シュトラウス(当時、音楽局総裁、後免職)、指揮者のフルトヴェングラーなどは、ナチの体制の中に入って(または巻き込まれて)、戦中戦後苦労することになるのである。どこの国でも、こういう人たちはいるのだ。


 
(備考)
 この広大な墓地には他にも建築家、科学者、画家、作家、政治家、教育者・・など有名人がひしめいているが、
その内で音楽関係者の比較的有名人の墓を挙げておこう 現地にお行きの際探してみられたら如何だろうか


(墓番号32A−35) 
カール・ミレッカー 作曲家 スッペ、シュトラウス後のウィーン・オペレッタの継承者
(墓番号9A−48)  ラオール・ハイムラー 銀行員 
ベートーヴェンの甥
(墓番号84−21)   カール・ファン・ベートーヴェン ジャーナリスト 有名な
ベートーヴェンの最後の子孫
(墓番号16A−23) 
ルートヴィッヒ・ケッヘル 音楽作家 モーツァルトの作品番号の作成者
(墓番号17B−10) 
ルートヴィッヒ・ベーゼンドルファー ウィーンの有名ピアノ製作者
(墓番号30B−22) 
パウル・ヴァインガルテン ピアニスト、ウィーン音大(音楽院)教授、ユダヤ人のためナチスを避け
                             1936-38まで東京音楽学校で教授、 戦後帰国しふたたび音大に復帰、
                             イングリッド・へブラーの師