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三十話 アメリカに「ジョン万次郎記念館」ができた

 
 毎日、ネットのニュースを追いかけている人にはすでに旧聞であるが、無視できない記事なので引用させていただく
 
 「
去る7日、米東部マサチューセッツ州フェアヘーブンで、江戸末期に漂流の末助けられて米国に渡ったジョン万次郎を記念する「ホイットフィールド・万次郎友好記念館」の開館式典が開かれた
 
ホイットフィールド」は万次郎を助けた捕鯨船の船長、記念館もその船長のものだった家である 荒れ果てて売りに出ていた家を、聖路加国際病院の名物長寿理事長・日野原氏が修復を提案、募金を集めて買い取り修復を進めていたという 
                                      (日経新聞2009/5/8)


 有名な話だが、万次郎は彼の地で教育を受けて帰国し、後にペリーが来航したとき「隠れ」通訳、条約の締結他の重要な仕事を事実上担当した 少し長いが、以下は「Wikipedia日本版」の引用(「」部分)である

「 
・・嘉永6年(1853年) - 帰国から約2年後に何とか土佐に帰ることができたが、当時ペリーの来航によって幕府はアメリカの知識を必要としていたことから、幕府に召聘され江戸へ行き直参の旗本となった。この際、生れ故郷の地名を取って「中濱」の姓が授けられた。英会話書『日米対話捷径』の執筆、『ボーディッチ航海術書』の翻訳、造船の指揮、講演、通訳、船の買付など精力的に働く。
 
 「繰り返される召し上げ(徴用)と放免(解任)」
藩校「教授館」の教授に任命されるが、やがて野に下された(役職を離れ庶民に戻る)。理由の一つには、もともと士族の生まれでない万次郎が、アメリカ人とも臆することなく、対等に交友することをやっかむ者も多かったことも挙げられる。また当時、英語をまともに話せるのは万次郎一人だったため、ペリーとの通訳に適任とされたが、(オランダ語を介しての)通訳の立場を失うことを恐れた老中がスパイ疑惑を持ち出したため、結局ペリーの通訳の役目から下ろされたが、実際には日米和親条約の平和的締結に向け、陰ながら助言や進言をし尽力した。
 
 万延元年(1860年) - 日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団の一人として、咸臨丸に乗ってアメリカに渡る。船長の勝海舟が船酔いだったため、万次郎は彼に代って船内の秩序保持に努めた。(ここでも彼はアメリカ人との対等な交友を日本人船員にそねまれることを恐れ、付き合い方には注意していたとされる)アメリカで恩人ホイットフィールドと再会し、身に着けていた日本刀を贈った。(この刀は後にアメリカの図書館に寄贈され、第2次世界大戦の最中であっても展示されていたが、後に何者かに盗難され現在は行方不明である)
 
 明治維新(1868年)後 - 開成学校(現・東京大学)の教授に任命される。・・・

                                  (以上Wikipedia引用部分)

 こう見てくると、万次郎は「日本の近代化」に多大に寄与した人間の一人であったと確実に言えよう 同時に、身分制社会での周辺の「心の狭い日本人」の姿も浮き彫りされてくる きっと当時の万次郎はいつも心の中で苦々しく笑っていたに違いない

 また売りに出ていた旧家を買い取って保存、日米友好の架け橋にしようとした日野原先生もお見事と言うしかない この方、やはり「タダの人」ではない これをお読みになっている方で歴史(近代史)がお好きな方は、機会があれば訪問してみては如何かと思う


 (上記記事:マイブログ2009/5/11より転載 上記ニュースの出所:日経新聞2009/5/8
  万次郎説明引用:Wikipedia)



<外部リンク・国内>

ジョン万次郎(高知県土佐清水市公式ページ)

万次郎の出身地・万次郎の人生概略掲載

ジョン万次郎(Wikipedia)

<外部リンク・USA>

ジョン・万次郎フェスティヴァル
A Japanese-American festival commemorating Manjiro Nakahama,
the first Japanese person to live in America and the town’s Sister City
connection with Tosashimizu, Japan. Arts and crafts, food,
entertainment, Taiko drumming, tea ceremony and more.
Fairhaven Town Hall Square, Fairhaven, MA 02719

Town of Fairheaven, MA Official-site

The Fairhaven Office of Tourism
Inquiry→call: 508-979-4085  email FairhavenTours@aol.com
or write to Fairhaven Office of Tourism, 43 Center Street, Fairhaven, MA 02719

Fairheaven, MA, USAの地図と場所(Google-linked)


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三十一話 あ〜、ユナイテッド・エアライン! あ〜合衆国!

決してヘルシーではないが質素なUAの機内食
 
 今回、アメリカン・ロッキーのスキー場で滑ってきた 当然のように、航空機は米国「ユナイテッド航空」であった この会社、数年前に「倒産」し今も「会社更生法」による再建途上であるはずだ だから食事も機内サーヴィスも最初から期待はしていなかった 

 私がおおむかし、仕事でアフリカにいた頃、たまの休みでドイツに行ったことがあった その時、フランクフルト-西ベルリン間は当時アメリカの「キャリア・フラッグ」のパンアメリカン航空であった その会社も後に倒産した

 世界を代表する翼であったパンアメリカンも倒産し、世界の翼のナンバーワンを続けたボーイング社も、今はストライキなどで納期が大幅に遅れ、航空会社から訴訟をされかかっている サブプライム問題などでアメリカ発信の「第二回世界恐慌」も「絶頂期」だ ここまでくると、戦後世界をリードし続けた「世界の指導者・警察官アメリカ」の没落がはっきり見えてくる

 話を戻そう 出発まえに驚いたことがあった 旅行代理店から連絡が来た 「エコノミークラスではアルコールサーヴィスは出ません 機内でビールなどは6ドルで購入してください・・」 そんなばかな!! 私は今まで百回以上世界の航空機に乗ったが、一度も機内で酒を「買った」ことはない

 サウジなどイスラム諸国の航空機なら、宗教上の理由から酒のサーヴィスがないということは聞いたことがある それでもわたしが住んでいたイスラム国・アルジェリア航空では酒は出た なのに、なぜ酒が有料なのか!? ファースト・ビジネスクラスでは酒は無料ででるという

 そこで関空でウィスキーのポケット瓶を購入し、機内で密かに飲んでいた そうしたらパーサーが来て、取り上げていった また降りるときに返してくれた 癪だから機内の酒は買わなかった 「連邦法の規定・・」だという その法は知らないが、同じセカンドクラスでなぜ飲める人間と飲めない人間が出てしまうのか?! 明らかに「法の下の平等」ではない!

 ここまで見てくると、「ユナイテッドUAだから酒が出ない」のではなく、「アメリカ国籍の航空機のエコノミーだけが酒が有料」ということが分かるのだ まったく不愉快そのものだ まことに「貧富の差の激しい国アメリカ」らしい 空港での検査も狂気じみている しかしここでは触れない 

 またスキーに行ったのに、スキーセットが一日遅れで到着するという不始末(その間はレンタルスキー)や帰国の時、航空会社UAの係りが他人名義の搭乗券を私に呉れるなどの不始末もあった ここでは「貧すれば鈍する」という諺も必要ないが、「もうアメリカのヒコーキには乗ってあげな〜い!」 でもスキーは楽しかった!!


                  (上記記事:マイブログ2008/12/17より転載)

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三十二話 忘れられないパリの女性

パリ・オペラ座 l'Opera,Paris

 
私はフィットネス・クラブに入っている そのクラブの更衣室の入り口は何度もなんども通過する 当然だが後から次の人が出てくる ある日私は後から来る男のためにドアの取っ手を持っていた その男とは二十代の若者だ 彼は私の開けているドアの間を黙って通り抜けた 会釈も「すみません」もなかった 表情も変えずに当然のように私の横を通り抜け行ってしまった 私はドアを持ったまま幾分呆然としていた これが中高年の場合は、「あっすみません」とか「どーも」とか言いながらドアの取っ手に手を掛けることが多い

 以前にも、これと同じようなことが東京であった 東京駅に近いところにあるブリジストン美術館に行こうとしていた 我々夫婦は長い地下鉄の通路の地上出口のドアを開けた そのとき数メートル後から背広を着た二十代のサラリーマン風の男が目に入った そこで私は後から来る彼のためにドアを持って待っていた 彼はそこをこちらも見ず会釈もせずペースも変えず黙って通り抜けた そして去っていった そのときも「ン?」という感じで、目がテンになった 妻と「東京という所はすごいところだね」という話になった

 私も海外生活を含めて海外旅行はけっこうしているが、日本人は比較的「後から来る人のためにドアを持つ」人が多くない だいたいドアの所で後ろを見ない それは「自動ドア」が普及し「ドアを手で開ける」ことが少ないことも関係している では「手動ドア」の場合はどうか? この場合ドアを開けて通ってそのままドアを離す 後から来る人のことは意識していない つまり「他人のことは配慮していない」のである 後から来る人もドアがバーンと来ても気にしない

 
こう書いてきたのには訳がある 話が長くなるが、私はおおむかし仕事で北アフリカのアルジェリアにいた たまの休みにはパリに買い出しに来ていた 地中海をフランスまで飛行機で飛んで来るのである アルジェリアには日本食品の店がなく、味噌も醤油もわさびも高野豆腐も何にもなかったので、海外への買い出しは公然と認められていた だからパリは観光スポットではなく、買い物をする町であった その拠点は「オペラ座界隈」 アフリカ在住日本人御用達のホテルがあり、東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)やジュンク堂書店や大阪屋食品や寿司屋があった 日本人が多い一帯であった

 私はそのオペラ座前の地下鉄(メトロ)出口を出ようとしていた 前の女性はすたすたと歩いて階段を上がっていた そこに手動式ドアがあったが、彼女はちらっと後ろを見るとドアのノブをもって待ってくれた それを見た私はあわてて階段を上がり、ドアを持ってどぎまぎしながら「メルシー」と言った 彼女はニコッとして「どういたしまして」とフランス語で言った 二十年以上経つが、何故かあの時の彼女の顔が忘れられない 彼女が美人だったこともあるが、それ以上に当然のように「アカの他人のためにドアを持ってあげる」行為が新鮮だったのである そのあとしばらくは心がほのぼのしていた

 しかしその後海外を旅行すると、同様のことがままあったりする やはりこれは「親切」というより「習慣・文化の違い」なのであろう それがキリスト教から来るのかどうかは不明だが、日本人ももっと取り入れた方が良いと思う行為である 若い人を中心に最近の日本人はあまりにも他人に気を配らない 上記のことが当たり前にされている社会は素敵である


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三十三話 「介助犬」が活躍する国

オランダ国鉄・アムステルダム近郊線の二階建て列車の介助犬(写真は加工済)

 
この写真はオランダの列車内のものである。割に「二階建て列車」が多いこの国の国鉄だが、そのため床はフラットではない。乗車すると、階段で上がるか、下りるかである。そういう意味ではオランダ国鉄は「バリアフリー」ではない。それでも足の悪いこの老婦人は、「よいしょ、ヨイショ」と時間をかけて二階に上がってきた。入り口に座っていた人が、当たり前のように席を譲った。

 いっしょにいる犬は「介助犬」だろう。その婦人が「座りなさい」と言った(と思う)ら、静かに伏せて吠えもしない。ただじっとしている。ただ耳と目だけが動いている。起きあがっても静かである。私はまずこれに感心する。

 外国を旅行すると、いつも生活の中の犬が目につく。盲導犬、介助犬である。よく訓練されている。レストランのテーブルの下に伏せて主をじっと待つ。テーブルでは、飼い主がステーキを食べている。きっと鼻の良い犬には「拷問」だろう。もちろん「ワンワン」とも鳴かないし、「肉をくれ」とおねだりもしない。そしてそういう犬を受け入れるレストラン、公共施設が多い。

 日本ではこういう犬が少ないし、受け入れる店などが少ない。また介助犬でない犬も受け入れているレストランが多い外国と違って、日本ではそういう店も少ない。いちばん問題は、日本の飼い主が犬を甘やかしているため、まわりに迷惑をかけていることだ。多くの日本人は「愛すること」と「甘やかす」ことを混同している。これは子どもの教育にも言えるかも知れない。

                              (2006年10月10日付のマイブログ「このたびのたび」より転載)

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三十四話 ベルギーの自動車道・サーヴィスエリアのすごい売店

ベルギーの自動車道・サービスエリアの巨大なタバコ売店

 
上の写真は何を売っている店かお分かりだろうか?この棚すべてがタバコである しかも、葉巻までそろえた大規模タバコ店である しかもそれは「サーヴィスエリア」の中の店である 他にもなぜか酒を多種類取りそろえている店もある

 これは「飲酒・喫煙に対する取り組み」が遅れている日本でさえも、あり得ないことである 最近はSAのレストランでさえアルコール類は置いていない 自動販売機然りである こういう物に対する「先進国」のアメリカ・カナダ・オーストラリアなどからすると、大変遅れている タバコも酒も、他人に迷惑をかけない限り本来は「個人の自由」であるが、オランダ、ベルギーのレストランなどは、この様に日本以上に遅れている

 タバコを吸っている人もなぜか目についてしまう 吸わない人には「嫌煙権」があるという意識さえもないのだろうか? 最近の日本では「嬉しいことに」喫煙者はコソコソ吸っている タバコを吸わない私たちにとって、この地でも日本同様、レストランで煙から逃げ回って席を移動している その点、カナダなどに行くと、こころが安らぐ なぜか嬉しくなる 嫌な煙を吸わされない幸せがあるのだ フランスも含めて、概してヨーロッパは米加豪などからは遅れている

 あれだけ「自然保護」、「車・自転車・人間棲み分けの道路整備」、「動物との共存」、「スローライフ」などなどが「先進的」なこれらベネルクス三国で、タバコ対策だけが「旧態依然」なのはなぜだろうか? 不思議で残念なことである 残念ながら滞在中に訊くことはできなかった

2006年10月16日付のマイブログ「このたびのたび」より転載)

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三十五話 オランダの道路・交通事情と人々の生活(3)
すてきなオランダの三輪車、交通事故減少のために

オランダ・アムステルダム市内の父子の乗った三輪自転車

 
「オランダは進んだ自転車社会」というのは前に書いたことである 自転車使用者が多いのと、専用自転車道がほとんど整備されていること、さらに自転車乗りの交通マナーが良いのも、「オランダの先進性」である

 だが自転車が大変多い−のは中国も同じだ 朝のラッシュ時の北京、西安などは、路面が見えなくなるほど自転車が走る しかしマナーは悪いし、無秩序だし、自転車道もあるようには見えない この場合は自動車が少ないから、まだ何とかなっている

 ガソリンの値段が高くなった今、日本では自転車が見直され始めている 以前は自転車が車道を走っていたが、自転車の人的被害が多くなってからは、歩道が走れるようになった すると今度は自転車が加害者になって、歩行者が被害者になった これらもオランダのように自転車道を作れば、かなり状況は改善されるはずだ

 さて「改善」というと、もう一つある 上の写真を見ていただきたい オランダでいちばん驚いたのは、こういう「前リヤカー付き(三輪)自転車」がけっこう走っていることだ 乗っているのはふつうは小学校までの小さな子供たち、運転者はほぼ父か母である 子供が前だから、運転者からよく見えているし、転けることはない

 日本だと、朝に二人の幼児を保育園に連れていく母が、前と後ろに一人ずつ自転車に載せて(つまり3人乗り)で走っているのを見かける 法令違反だし、大変危険である
 
(後日注:日本でも交通関係法が変えられて「指定自転車」なら親子3人の乗車がOKとなったが、その危険性に変化はない) 

 オランダのこの姿を最初見たときは、「かっこわるい」と思ったが、考え直すと実に合理的である 私が最初そう思ったのは、日本ではリヤカーは荷物を積む道具で、人間は乗せないからである こういうのを流行らせて、自転車専用道を作れば、もっと交通事故は減るのでは・・と思うこの頃である

内部リンク:「ベネルクス三国縦断ドライヴ」・第十日アムステルダム

2006年10月19日付のマイブログ「このたびのたび」より転載)

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三十六話 オーストラリアにある日本語道路標識!

「牛に注意」・オーストラリア・ノーザンテリトリー州にある日本語も入った道路標識

 
海外でドライヴする人が増えている 特に英語圏では道路標識が読めるので、レンタ・カーで旅する日本人も多い 道路の標識は当然英語だけ-というのは当たり前!のはずだが、何とオーストラリア国内で、日本語で書かれた標識を見つけた それも滅多に日本人が来そうにない奥地である そこは日本の旅行会社のツアーにも入ってない場所である

 私たちがレンタル・キャンピングカーでオーストラリア国内のラウンドをしたのが、2001年夏(現地は冬)だった その標識というのが、上の写真である 何と牛の絵の下に英語で「道路上に動物」と書いてある その下に日本語で「牛に注意」と手書き風で書かれている さらに下にドイツ語で「道路に動物」とあった 絵が牛で、日本語が牛 しかし英語とドイツ語では「動物」! なんじゃこりゃ?!

 ドイツ人はオーストラリアが大好きで、あちこちで運転する姿を見かける しかし日本人は在住者以外はあまりドライヴはしていない 日本人があまりいない場所でのこの看板は誰がどういう思いで作ったのかが知りたかった 

 最近日本国内でもアジア人観光者が増えたので、日本語、英語に韓国語、中国語併記の看板も目に付いてきた それにしても、あの広いオーストラリア大陸のど真ん中の辺地に日本語を見かけるとは思わなかった

リンク:マイHP「オーストラリア一周の旅」

http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/Austrldrive/top.htm

2006年11月15日付のマイブログ「このたびのたび」より転載)

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三十七話 「国際的」ニセコスキー場の最近事情

北海道ニセコスキー場の「白い恋人」(屋外温度計)

 
北海道最大規模、いや日本有数といってよいニセコスキー場は主に4つのスキー場からなる複合体である 筆者が齢四十でスキーを始めた「スキーブーム」のころは、3つしかエリアが無く、しかも、その3つのリフト券はそれぞれ別で「相互乗り入れ」はできなかった さらに中心的なヒラフ地区では小さな谷を境にリフト券が違っていた つまり規模は大きいが、スキーヤーからいうと使いにくいスキー場ではあった それでも自然が雄大で、雪質も比較的良いので通っていた

 最近は事情が全く異なってきた それについては過年すでにHPの方に書いた
→内部リンク:ニセコスキー場・昨今

 毎年一回は訪れるスキー場ではあるが、やはり少しずつ様子が変わってきた 先述のリフト券でいうと、「全山共通リフト券」ができて相互乗り入れができるようになったことはもちろん、上の記事で書いたように外国人が極端に増えたことである そのなかでいちばん増えたのはオーストラリア人、次に韓国人、中国人(香港人)、台湾人であり、たまにアメリカ人がいたりする

 その理由はいくつか考えられる 
1 オーストラリア資本がスキー場の一つである「花園エリア」を買い、彼ら用のホテル・ロッジなども充実したこと
2 オーストラリア経済が好調で、彼らの年収が増えた上、対円レートが極端に良くなったこと(安く日本に旅行できる)
3 オーストラリアの季節は日本と逆で、彼らには「夏にスキーができる」こと
4 オーストラリア側のスキー・ツアーが多くでき、宣伝が行き渡ったこと 最近は家族連れや幼児帯同の若夫婦が増えた
5 ニセコの雪質の良さが口コミで喧伝されたこと
6 日本側について言えば、スキー場のロッジやレストランなどで英語表記の対応が十分できるようになったこと(一部韓国語・中国語表記もできた)
7 同様に日本側のアコモデーション(宿)の一部にホームページ内に英語で海外から申し込めるページができたこと(一人旅の若者はこれを利用している)
8 他のアジアの国では工業生産が向上し、経済的に海外旅行できる層が増加したこと
9 それぞれの国からの札幌・新千歳空港への直行便が増え、アクセスが向上したこと

 さて今年は一段と外国人、とくに白人が増えていた 昼過ぎのスキー場ロッジはまるで海外のスキー場である 数少ない日本人も肩身が狭そうにボソボソと食事をしている こうなると「数は力」である 大きな声の英語が飛び交う ほんとに国際的なスキー場になった

 ここまでは良いのだが、いくつかの問題も見えてくるようになった 彼らは家族又は団体でやってくるので、「彼らだけの世界」があって日本人を含む他の人たちとは会話もしない つまり「ツアーで外国を旅する日本人たち」と全く変わらないのである 外国を旅することはその自然だけでなくその人々と話をする(交流する)ことも大切なことなのだ それと同時に英語しか使おうとしない バスの運転手にも窓口の女性にも英語だけで会話しようとする 

 「アメリカ人は世界でいちばん外国語収得が苦手な国民だ」と以前から言われる それは世界中で英語が通用するからである オーストラリア人にもその傾向が見える もちろん日本語は独特な言葉だから、なかなか難しいだろう それでも英語だけ使って、相手の日本人に目を白黒させるのも何か変である また自分たちのやり方を周りの無関係な日本人に「強要」するのも奇異だ

 それはともかく、リフトで一緒になったオーストラリアのボーダーの若者との話である 彼は「シドニーから来た」と言った 驚いたことに、かれはシドニーから直接来たのではなかった 「大阪へ来て、それから京都の寺を見た」と言った 印象は?と聞くと、「雰囲気がすばらしい 歴史を感じる・・」という わたしは白人の若いボーダーがまず京都の寺を訪れてから北海道に来たことに驚いた ただ滑るだけでなく、他の目的ももって日本に来ている

 わたしがその日のスキーから宿に帰っているとき、一人の白人ボーダーが荷物をいっぱい持って道路上で立ち往生していた 「ユースホステルを探している」という 看板を見るとわたしが行く方向である 「大丈夫 一緒に行くよ」と一緒に歩き出した 彼はアメリカ人でカリフォルニアから来たという 「アメリカにはたくさんすばらしいスキー場があるのに・・、カリフォルニアだったら、レイク・タホがあるだろう?」というと、「ここはまた別の魅力があるから・・」という それに日本にも興味があるらしい 金のない若者はけっこうYHを利用する 

 このように日本のスキー場に来る外国人(とくに若者)はスキー・ボード以外の目的ももっているのが傾向となっている 帰宅後テレビを見ていると、秋葉原を取材したコーナーがあった オーストラリア人やカナダ人、アメリカ人も多かった 彼らは「北海道で滑ってから東京に来た」と言った なんでも、その国では高価で入手困難なゲームソフトを買いに来たらしい 「秋葉原は安い」と言いながら、一人で同じソフトを十本も買っていた やはり旅行パターンの「多様化」が進んでいたのだ

2007年1月24日付のマイブログ「このたびのたび」より転載)

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