「東ドイツの名車?!」 トラバント (ハンガリー Hungary) |
傾国のプリンセス マリーアントワネット (オーストリア Austria) |
あーん、ママァー! おいてかないでぇ! (ポルトガル Potugal) |
スペイン・セヴィージャの夕焼 (スペイン Spain) |
「カティン(カチン)の森」 虐殺事件慰霊碑 (ポーランド Poland) |
オランダの尻が光る ブロンズ像 (オランダ Holland) |
ANAの特別塗装 「ポケモン機」 (日本 Japan) |
大航海者 ヴァスコ・ダ・ガマ像 (ポルトガル Portugal) |
男性の理想の女性・マリア (ポルトガル Portugal) |
ローマの警察官 (イタリア Italy) |
リガの警察官 (ラトヴィア Latvia) |
リガ城警備の警察官はゆるみすぎ Smoking Police officers on duty at Riga Castle,Latvia ここラトヴィアはいわゆる「バルト三国」の一つ 写真のように首都リガのリガ城警備のお巡りさんたちはのんびりムードだ 観光客も少ないうえ、重要人物が出入りするわけでもなく特に緊張する仕事もない というのは以前は此処は「大統領官邸」であったが、火事にあった後は他所に移ってしまっているのである 長いお喋りをしていたパトカーから下りてきて、いきなり4人とも一斉にたばこの火をつけた お喋りしながら世間話でもしている様子だ 仕事の緊張感もさっぱりない様に見える 昨今ヨーロッパではあのIS(イスラム国)がテロを各所でやりまくっている ベルギー、フランスはもとより他の西ヨーロッパ国も何時何が起こっても不思議ではない 就中中近東に軍隊を出している国はターゲットである 特に空港、繁華街、議会、王宮、市場、競技場などは狙われやすい場所である そのため海外旅行が好きな日本の中高年もそういう国々は意識的に避けているという そういう国では現在全土を上げて「厳重警戒態勢」を敷いている 警察だけでなく公安警察、治安警察や憲兵なども動員して自動小銃、警察犬、装甲車も使用して24時間体制で警備をしている パトカーや軍隊らしい車も町中を走り回る その点北欧などはこれまで比較的安全とされてきた 上記の国々とは異なり、まだIS連中の「うらみ」はかっていないからである そういうことなので国全体には緊張感もない 入国時も旅行中も町中に「溢れる警察官」の姿は見られない もとからの「平和な姿」である これは旅行者には有り難いことではある それにしても勤務時間中に元大統領官邸警備の警官全員が一時にたばこを吸うのはどうだろうか? その間は周りを見ていないし、犯罪に対する警戒心も見られない また公共の場所で禁煙-が多いこの時代に誰からも見える場所での喫煙は如何なものか また健康上の理由からも意識が低いと言わざるを得ない 遅れている なお余談ながらこの町のパトカーはほとんど日産車であった (Smoking police officers @the Riga castle, Riga, Latvia, 2016) |
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町中にあふれるイタリアの警察官 "Carabinieri"policemen all around "Piazza di Spagna"and all over Italy
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ムリッリョ:「無原罪のお宿り」 |
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注:この写真は20数年前の光学フィルムをスキャナーで読み込んだため鮮度が落ちています あーん、ママァー!おいてかないでぇ! Mom !, don't leave me ! |
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ここはポルトガルの港町ポルトの波止場です 私が写真を撮っていると、向こうから若い母親と娘がやって来ました はじめは何てことなかったのですが、しだいに娘が何か不満そうに言い始めました 母は二言三言言い残すと 足早に向こうにスタスタと行ってしまいました 取り残された幼女はその場に立ちすくんで呼び続けていました でも飛んでいるカモメの声の方が大きかったのです その子の顔がどうだか想像できますか? その後がどうなったかは知りません 今回はツアーでしたから・・・ |
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スペイン・セヴィージャの夕焼け Sunset in the suburbs of Sevilla, Espana |
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スペイン旅行の途中、夕方になって南部のセヴィーリャに向かっていました この日は夜遅くに「フラメンコ」ショーを見る予定になっていました このツアーは大変ハードで、前日のバス移動は691km、この日もすでに360kmくらい走っていました バスの移動は疲れますが、ふと窓の外を見ると真っ赤な夕焼けでした しかもまだ太陽は沈んではいません およそ15分くらいこの空のショーに見とれていました セヴィーリアは太陽もフラメンコの踊り子も熱いのでしょうか? (スペイン・セヴィーリャ郊外 Nov., 2007) |
この写真は数年前、ハンガリーを旅した時、ブダの王宮城壁脇に駐車していた「旧東ドイツの名車・トラバント」を撮った物である この車は「東西冷戦時代」の社会主義圏の工業力を象徴していた車であった <「2サイクルエンジン」で煙を吐きながら走る非力の「段ボール製」の自動車>と言われていた 詳しくは「Wikipedia」にあるので、引用しよう 「ボール紙のボディの車」といわれることがあるが、実際は長いモデルライフを通じて、ボディの基本材料は繊維強化プラスチック(FRP)である。東ドイツ末期に製造品質が下がってくると表面の質感がボール紙のように見えた事から、低い仕上げ品質を揶揄した表現である。ただし、末期は製造コスト低減のため、実際にプラスチックに紙パルプを混ぜ込んでいた。ベルリンの壁崩壊の直後からは、最新式のフォルクスワーゲン・ゴルフと古色蒼然としたトラバントが、肩を並べて走るようになり、双方のドライバーとそれらを見比べた者に強烈なカルチャーショックを与えた。東側諸国の人々がトラバントに乗って国境検問所を続々と越える光景は、東欧における共産主義体制終焉の一つの象徴的シーンともなった。生産中止後10年以上を経過し、走行性能・安全性・環境性能が数十年前の水準ということもあって、旧東ドイツ地域および周辺諸国においては、急激に淘汰されている。」(以上引用) ポーランド、チェコ、ハンガリーなど「旧東欧圏」を旅すると、減りつつはあるが必ず目にする車である 日本やヨーロッパなど「自動車先進国」では決して「受け入れられない(売れない)車」である 「国家独占企業で競争のない社会」でしか生産され得なかった「工業製品」である 日本の車は「世界先進レヴェル」として、世界中で受け入れられているのは衆知の事実であるが、それというのも「過当ともいえる価格と品質競争」に打ち勝って現在の地位を得てきたのである こうして見れば、「トラバント」は「競争のない社会が如何に社会の進歩を停滞させる」かを証明して見せたのだ 翻って、「すべて平等が美徳、競争は罪悪」という戦後の教育が近年の日本の教育レベル低下に「貢献」してきたことが明白に分かるのである すべての子どもの「それぞれの良いところを見つけ、能力を最大限に伸ばさなかった」ツケはまことに大きいと言わざるを得ない |
ポルトガル、エヴォラの公園にあるヴァスコ・ダ・ガマの(のちインド総督)像である このような像はこの国各地に置かれているが、有名な物は彼の生地Sinesのものである 「ガマ」といえば、日本人で日本の中・高を出た者なら知らない者はいない−というくらい有名である それは社会科の教科書に必ず登場し、入試にもよく出た人名(航海者・探検家)だからである 受験生はこの「両生類」のような名を、コロンブス、マゼランの名とともに必死で覚えたのである さて、彼は国王マヌエル1世の命を受けて1497年アフリカ南端「喜望峰」に到達*、さらにそこを越えてインドに到達、いわゆる「インド航路」を開いた人物である これが「ポルトガル海上帝国」の基礎を拓いたのである 以来ポルトガルは東洋貿易やブラジルで胡椒(香料)、金銀他等によって莫大な収入を得る様になったのである これらのことは逆の立場=アジア、アフリカ、南米の人々から見ると、「不幸な歴史」であった つまり同時期に世界に「進出」した隣国スペインと同様に、それらの地帯に災いをもたらした これら二国の貿易はいわば「略奪貿易」とも言える形態をとり、現代のような「対等な貿易」ではなかった 従って、それらの国々は後代に独立するまで、簒奪・略奪に悩まされつづけた またそういう船に乗船していた宣教師によって、キリスト教を「無理やり与えられた」地域もあった 映画「ミッション」ではそういうことが垣間見られた ただし日本のような国では、キリスト教は戦国の世にあって「新しい思想」として一部の人たちに歓迎されたし、大名達の中にも、宣教師の知識・情報、世界の動きの収集・伝達を歓迎する向きもあったのも事実である さて話しを「ガマ」に戻そう 以上述べてきた様に、彼はこの国の「大恩人」であり、現在もリスボンのジェロニモス修道院(世界遺産)に手厚く葬られている またその功績によって、彼の名はリスボンの大橋、各地の通りなどに多く命名されている *すでに1488年にヘンリー航海王子のキャンペーンの一環で、バルトロミュー・ディアスが「喜望峰」を回っている |
ポーランドの歴史を少しでも囓った方はご存じであろうが、ロシアとドイツという二大国に挟まれた小国ポーランド(注)は歴史の中で幾度も侵略・分割をされ蹂躙されてきた 現代に至っても、1939年あのナチス・ドイツがいきなりこの国に侵入し、第二次世界大戦が始まったのは有名な話である このあとポーランドは全土が制圧され長い間辛い時代が続くのである 国内にはユダヤ人収容のため、まず都市部に「ゲットー」が作られ、「アウシュヴィッツ=ビルケナウ」収容所他の収容所に、ユダヤ人だけでなくポーランド人、社会主義者、反体制運動家、ロマ(通称ジプシー)たちが送られていった さてドイツと同時に「ソ連」からも侵略されたポーランドは、軍が「ソ連」にも降伏し捕虜はソ連領スモレンスク近くのカティンの森で虐殺された 1943年DKW(ドイツ国防軍)はこの地で4000人以上のポーランド軍将校、警察官、公務員、元地主の遺体が埋められているのを発見し、「ソ連と赤軍が実行した」と主張した しかし当時ソ連側は「ナチスに殺された」と反論していた 現在の調査では、スターリンが虐殺を命令し、内務長官ベリヤが命令書に署名し実行されたことが判明している このような「カティンの虐殺」を悼む追悼碑がポーランドの各地に建てられ、戦後六十数年たった今でも献花が絶えない このような碑の類は隣国チェコにも散見される 第二次大戦の傷跡は「アウシュヴィッツ」だけではない 「極東」の日本人が知っていることはごく僅かである |
注:「小国ポーランド」と書いたが、その前数百年は「大国」であった ポーランド王国は東ヨ−ロッパを席巻し、旧ロシア領の一部まで支配していた そのことは往年のハリウッド映画「隊長ブーリバ」(ユル・ブリンナー、トニー・カーティス、クリスティーナ・カウフマン出演)に扱われていた (原作は「タラス・ブールバ) この映画では「大国ポーランド」がロシアを侵略し、コサック族が抵抗する−というストーリーになっていた 歴史を見ると「いつもポーランドが弱者で小国」というわけではないことが分かる |
堤防締め切り記念のブロンズ像・・この場所で最後の堤防が締め切られ、巨大な湖が出現した
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新千歳空港のANA「ポケモン」機(Jan.2006) |
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