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DAY 1 関西国際空港→タシュケント空港(ウズベキスタン)+1 | |||
古い機体のエアバス310 (撮影はイスタンブール空港で) |
関西空港でのツアー集合は夜の21:30、出発の二時間前である。私はいつもの「旅姿」=リュック、Gパン、キャラバンシューズ、キャップで現れた。荷物はけっこう重い。出発便は23:30のHY528便、何と初乗りのウズベキスタン航空(HY)である。 ウズベキスタンといえば、今は独立しているが最近まで「ソ連」の一員だった中央アジアの小国である。マイレージを貯めていることもあって、そのエアラインは私の個人の旅では決して乗ることはない。 機種はできてもう20年近くになるだろうか「エアバスA310」である。これは古い機体である。先進国のエアラインが使った機体が、まわり回って発展途上国の航空会社にやってくる。こういうところで航空会社の経済力が分かるのだ。最新の機体をそろえているのはシンガポール航空(SQ)である。人気は高い。 いく分遅れ目で離陸した時、機内がガソリン臭いのに気がついた。他の日本人客も何人かが「油臭い」と言っている。少々不安になったが、「乗った以上もう諦めるしかないか」と考えた。そのうち鼻が慣れたのか、気にならなくなった。大体ロシア系のアエロフロートは社会主義時代、「世界で事故率の高いエアライン統計」のトップをキープしていた。 |
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客席に日本製飲料のケースを載せている珍しいケース 普通は空席でもこういう場所には荷物は積まない しかもシートベルトで固定もしていない この写真を撮っていたら嫌そうな顔をされた 真夜中の軽食 |
成田経由の日本発便らしく、機内は圧倒的に日本人団体客が多い。日本人以外の客はほんのわずかであった。「日本人団体様は大得意様」なのだ。だから機内の会話だけ聞けば、まるで日本のエアラインのようだ。機内放送もウズベク語、ロシア語、英語、日本語と続く。さすがに日本人アテンダントはいない。代わりに「日本語通訳」なるバッジを付けた男性がいた。 少し話をしてみた。エリヨール・マッチャノフという名の彼は、タシュケント大学東洋語学部日本語学科卒の人で、機内サーヴィスも手伝わず通訳だけしていればいいのだそうだ。彼の大学ではさすがにウィグル語、モンゴル語やチベット語、中国語、ヒンドゥ語など近隣諸国の言語がよく学ばれるという。 彼は「現在あまりウズベク語は話さない」と言った。「ウズベキスタンは独立国なのになぜウズベク語を話さないのか?」と訊いた。「家庭では老人はウズベク語を話すが、ソ連時代ずっとロシア語でやってきたから普通の会話はロシア語だ」と言った。だから若い人たちは老祖父母と意志疎通が十分にできないらしい。 社会主義「ソ連」は長い間、ロシア正教など宗教を弾圧しただけでなく、民族のアイデンティティーとも言うべき言語まで公式な場所では禁止してきたのだ。これは民族意識をなくし、モスクワによる中央集権を確立しようとしたためであろう。それが誤りだったことは歴史も証明したし、世界の各民族の状況を見ても明らかである。 話は機内に戻って、ドリンクワゴンが回ってきたので、ウズベキスタンのローカルビールを頼むと生産してないのか「ない」という。代わりに出されたビールは驚いたことに、ドイツ、ハンブルグ製の”HOLSTEN EXPORT"だった。旧宗主国のロシア製でないのが不思議だ。アサヒ・スーパードライもあった。機内食は普通のレベルでひとまず安堵した。 |
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早朝の簡素なオメザ
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アルコールの力でうつらうつらしていたら、機内放送で起こされた。時計を見ると目的地到着の2時間前だ。意外と質素な食事が出た。赤の地ワイン「イーザウラ」を頼む。香りは良い。 女性アテンダントは意外と親切だ。ニコニコ笑ってサーブしてくれる。以前中国の国営航空に乗ったら、まるで「社会主義国家公務員」風で、不快な思いをしたことがあった。彼ら、国家公務員には「サーヴィス」という概念がなかったのかも知れない。 早朝、現地時間04:23(07:23JST)タシュケント空港到着。地上の気温21℃。まだ暗くよく見えないが、どうやら大きな都市らしい。町の灯りが地平線まで広がっている。空港設備はやはり日本の地方空港並みであった。 乗客が席を立ちはじめた頃、女性アテンダントたちがおかしな行動をした。機内でサーヴして残ったミルクやパンなどを自分のバッグに入れている。初めて見た光景であった。家で弟が腹を空かせているのだろうか?ミルクが手に入りにくいのであろうか?独立して間がないとはいえ、この国はまだ豊かではないのであろうか? |
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DAY 2 タシュケント空港→イスタンブール空港(トルコ)→チャナッカレ | |||
ウズベキスタン航空機ばかりの早朝のタシュケント空港 タシュケント発イスタンブール行きの機内 さすがにイスラム教徒の婦人たちが多い |
タシュケントの乗り継ぎ(トランジット)ターミナルは大変な所だった。空港の端にある古い大学図書館風の建物で、別にあるという新ターミナルができるまでは、「長く使い込まれていた地方空港ビル」という感じだった。 狭い階段を上がって驚いた。そこには外国鉄道駅のホールのような空間が広がり、多くの人たちがカウンターの前に並んだり、もっと大きなホールに行こうとしていた。その流れを阻止しながら、いかにも役人風の係が「パスポートを見せてから、隣に移れ!」という感じで叫んでいる。口調が社会主義の役人風だ。命令口調である。言葉はどう聞いても英語ではない。 やっと隣の吹き抜けの大ホールに入ると、息が詰まるほどの群衆がいた。顔中ヒゲを生やしてターバンを巻いたような男たちがそれぞれに立って話し込んでいる。壁に沿ってある木のベンチはもちろん、石の床にもサリーを着たインド風婦人や色黒の子どもたち、中央アジア諸国からの出稼ぎらしい男の一団、日本人に似ているが身なりから中国人と思しき家族連れが寝そべっている。 こういう人たちの間をかき分け、跨ぎながら階下に降りた。そこの方がまだスペースがあったからだ。空調もないのだろうか、狭い空間に多くの人がいるので、やや酸欠気味である。待ち時間は3時間近くあったが、同じツアーの人たちと立ったままで延々と話すしかなかった。 トイレに行ったら案の定、西洋式とアラブ式の二種類があった。アラブ式とは日本と同じしゃがむタイプであるが、紙は置いていない。つまり「左手で水洗する方式」で、普通の日本人には抵抗があるだろう。わたしも「お呼び」が掛かっていたが、不潔なうえ変な水の流れる床をまたいでここでする気がなくなっていた。こんなことなら飛行機で済ませておけばよかったが、後の祭りである。 やっと二つしかない乗り換え口のひとつで、「イスタンブール!イスタンブール!・・・」と声が掛かった。我々のグループはそこに一列に並んだが、さて一悶着があった。机に向かって椅子に座っていた制服の女性オフィサーが誰かの搭乗券を見て、「これはダメ!券に税関の印がない!入れないよ!」と言って(言ったらしい)待合室にに入れてくれないのだ。 そこでコンダクターのNさんが「印はもらわなかった」と主張したが、やはりダメだった。その女性オフィサーは電話で税関に電話し係りを呼んだ。男の係員が走って下りてきて、事情を聞いた。そうしてNさんが税関と一緒に上がってゆき、しばらくしてスタンプ印を持った男と一緒に帰ってきた。男のオフィサーは「ハイハイもうこれで良いだろ」という感じで全員の印を押した。その後私は「搭乗券の一部がない」と女性オフィサーに睨まれてしまった。 今回のことで気付いたのは、もと「社会主義国」の役人たちの威張った態度である。特に女性が権力をバックにすると特にそうなるような気がする。「ベルリンの壁」崩壊前のチェックポイント・チャーリー東ドイツ側検問所でもそうだったし、中国北京空港の女性入国審査官も然り。アルジェリア・アルジェ空港の女性係官も男性ほど融通が利かなかった。それに微笑も愛嬌もない。 もう一点はCIS諸国(旧ソ連内の国であったロシアグループ12国)に共通の問題かは分からないが、空港の電子化、オンライン設備などの遅れである。係りがチケットなどに目を通し、手で印を押す・・こんなことをまだやっている。私がなくした小さな紙片も搭乗人員を数えるためのものであったらしい。「社会資本」の不足のためか、まだまだ社会主義時代の非能率が改まってはいない。 |
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この飛行でいちばん良かったミール |
いろいろあった空港だったが、やっと06:50に機体が離陸した。夜中は真っ暗で見えなかったが、明るい朝の光で見るとなかなかの広い土地である。緑も大きな河もあり、規則正しい道路がずっと広がっている。家も庭も結構ゆとりがありそうな造りで、空港での印象は少し払拭された。 機体が水平飛行に移ってしばらくして、「正式」な朝食が出た。意外と豪華で、ビールと赤ワインもお代わりして美味しくいただいた。機体は・・だが食事はまず合格ラインだ。たぶん中国国営航空公司よりは良いであろう。 ハプニングがあった。ある女性搭乗員が筆者にお茶をつごうとした時、急に機体が揺れた。液体が私の顔やシャツやズボンにドボッとかかった。彼女は大慌てでナプキンを持ってきて拭こうとした。私はそれを取って、「大丈夫。いいから気にしないで」と英語で言った。それでも彼女は謝り続けていた。その謝り方が妙に初々しかった。 |
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水のなくなったアラル海? |
一時間も飛んだだろうか、乾燥した赤茶けた土地のあちこちに川でもない細長い湖のようなものが次々に現れた。強烈な印象である。乗務員に聞き漏らしたので、これが干上がったアラル海なのか、それに注ぐアム・ダリア川なのかは判然としなかった。いずれにしても言えることは、地球の乾燥化が進んでいるということなのだろうか。 やがて砂漠に浸食される農地と住宅地も見えてきた。写真上方から吹く強い風が砂を運んでいる様子がよく分かる。中国の西域に行った時も、機上から砂に浸食される農場がはっきり見えた。やはり人間は「自然改造」という大それたことではなく、「自然と共存」するしかないだろう。昔なら人間が畏敬の念を払った奥地・僻地に侵入してしまっている。 ←砂漠に浸食される農地と住宅地 |
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更に一時間くらい飛ぶと、島影さえ見えないカスピ海上空に出る。写真のように雲は低く、機体が一万m以上の高度を飛行しているのが分かる。この世界一の湖も塩湖ということは有名だが、実はロシア、カザフスタン、トルクメニスタン、イラン、アゼルバイジャンの5つの共和国に囲まれている。 あのチョー有名な「チョウザメ」も各国の乱獲が祟り、漁獲高が激減しているという話を聞いた。人間は愚かなもので、金になるならと無制限に取りまくったのだ。冷蔵庫がなかったとはいえ、あの縄文時代人は自分たちが食べるだけしか獲物は捕らなかった。肉食動物も食べるだけしか狩りをしない。もっと人間には知恵が欲しい。 私はキャビアを食べても美味しいとは思わないし、あんな高い物は買う気もない。さて先ほどの問題のせめてもの救いは、カスピ海沿岸諸国の話し合う気運が生じたことと、チョウザメも一部で養殖に成功したというニュースであろうか。 ←島影のないカスピ海上を飛ぶ |
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黒海上空から見た雪のクゼイアナドル山脈? |
機体が黒海に出る前後から雪をいただいた山脈が見えてきた。席が窓際でなかったので、一瞬それがあの有名なカフカス(コーカサス)山脈かとも思った。しかしあまりに海に近いので、後で地図を見てトルコ北部のクゼイアナドル山脈でないかと想像した。本当のところは分からない。 トルコにもスキー場がいくつかあると聞いた。この山脈にもスキー場はあるのだろうか。そう思っていると、「ベルト着用サイン」が出て機体は降下を始めた。イスタンブールが近づいているらしい。 こうして約3時間でイスタンブール・アタチュルク国際空港に到着した。アタチュルクは近代トルコ独立の父で国家英雄のケマル・パシャである。アタは父、チュルクはトルコのである。現在首都ではないが、人口1200万を持つこの国最大の都市の空港は、さすがにタシュケントとは較べ物にならない。外気温は22℃、思ったより涼しい。それが違うと、しばらくしてすぐに分かったのだが・・。 |
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イスタンブール空港 ガラタ塔と船着き場と客待ちタクシー |
トルコの最高額紙幣2千万リラ!(ケマル・アタチュルク) 入国審査が済むと、すぐにアメリカドルT/Cをトルコリラに交換した。この国ではユーロや米ドルが強い。ただ超インフレなので、札の「0」の数が極端に多い。これに慣れるのはかなり大変そうだ。例えば20000000(二千万)とある札が最高額だが、日本円換算では約1400円くらいだ。「この国のリラは国外では紙切れ」と聞いたので、最少額100米ドルを替えたが、140000000(一億四千万)リラも呉れたので、思わず目が点になった。「土地成金」になった気分だ。大邸宅でも建てられそうな感じがした。 第一次大戦後のベルサイユ条約の結果、敗戦国ドイツは戦勝国からの賠償金取り立てにより「天文学的インフレ」になった。それほどではないにしても、これはすごいとしか言えない。外国人観光客も困るが、それ以上に外国から信用されない。だから「国外では紙切れ」なのか。 この国は以前からEU(ヨーロッパ連合)に入りたがっているが、ヨーロッパはずっと拒否してきた。他国と違って「位置がアジアにあり、アジア民族の国でイスラム教徒がいちばん多い国」ということに加えて、このインフレ紙幣にも原因があるかも知れない。さすがに政府は、2005年1月から「デノミをする」と発表した。しばらくは新旧紙幣が混在するらしい。これも観光客には煩わしいことだ。 さて、空港外にはデラックスではない日本並みのバスが待機していた。トルコ人ガイドのシナンさんが待っていた。彼の日本語は意外に流暢で使う語彙も難しい。後で分かったことは、彼は首都のアンカラ大学外国学部日本語科卒で、東京外大にも一年間留学していた。更に帰国後、トヨタ自動車の現地会社でトルコ人に日本語を教えた経験があった。現在は現地の旅行会社に勤務しているという。この方とはこの旅の間中つき合っていただくことになっていた。 ←"Dorak Tours"guide: Mr.Sinan Ozyalcin |
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街中のドネル・ケバブ(回転焼き肉)屋 この時間ははヒマ |
この町をバスで走り始めたら分かるのだが、人口1200万(東京に近い)というわりには道路の幅が狭く1〜2車線しかない。それには理由がある。まず地形である。狭い海峡がアジアとヨーロッパを隔てているということは、平野部は少ないし海岸からいきなり崖がある丘になっているということだ。つまり海岸線に広い道路が作れない。海を埋め立てるにも意外に水深が深い。 次に東ローマ帝国以来の歴史都市である。至る所に水道橋、市場、宮殿、教会・モスクなどが乱立する。古い都市は「自動車社会」を想定していないからもともと道が狭い。そうして歴史的遺物は石造である。従って都市計画ができにくく、できても実現性が低い。 だから東京よりははるかに自動車は少なそうだが、朝夕時は大ラッシュになるのだ。ただ以上に述べたことから、どの車もスピードを出していない(出せない)ようなのが救いかも知れない。 |
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バスは海岸線に沿って南下をする。辺りは麦、トウモロコシ、ひまわり、アンズ、ブドウの畑だ。やがて土砂降りがやって来てしばらく続いた。「こういう雨はここでは珍しいです。」とトルコ人ガイドが言った。 夕方5時を過ぎてフェリー乗り場に到着。今まではヨーロッパ側を走っていたが、このマルマラ海を縦断してアジア側に向かう。マルマラ「海」とは言うが、ダーダネルス海峡とボスフォラス海峡の間のやや広くなった部分である。 この海を渡るフェリーは実はたくさんある。巨大なタンカーや貨物船の間を縫ってアジア側の対岸に到着する。時間的には瀬戸内海のフェリーよりはるかに短い。海岸線が大変長い割には、大橋は二本しかない。 ←マルマラ海をフェリーで渡る |
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この後しばらく走ってやっとチャナカレのホテルに着いた。イスタンブールからは計6時間後くらい、日本を出て25時間後のことであった。ほんとに長い一日であった。さすがに疲れた。 ダーダネルス海峡傍のホテルは5つ星で、写真のようなプールがあり、ヨーロッパ側に沈んでゆく夕日が鑑賞できた。この後の食事もさることながら、48時間ぶりのシャワーも大変気持ちがよいものであった。アー、旅の垢が流れてゆく! ←チャナッカレのホテル(アジア側)よりヨーロッパ側を望む |
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Day3 チャナッカレ-トロイ遺跡-ベルガマ遺跡-イズミール | |||
今朝は爽やかな快晴だ。ダーダネルス海峡には帆船が帆を閉じてのんびり走っている。それを船腹を出した空のタンカーが追い越してゆく。昨夕、イスタンブールから此処に来る途中で激しい土砂降りが降ったことさえ忘れる景色である。 同じツアーの熟年者達は朝早くからホテルの庭続きの海岸を歩き回ったり、写真を撮っている。この方たちはほとんどが齢六、七十代なのであるが、さすが外国に来ようと言うだけあって、元気があふれている。しかもほとんどが海外旅行リピーターである。 ←帆船を抜くタンカー |
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朝食はほとんど「ヴァイキング」形式 |
ホテルの朝食はすべて「ヴァイキング*」である。だから好きな物を好きなだけ取れる。お代わりも自由で、若い人たちにはうれしいことだろう。それに一部のホテルを除いて選択肢も多く、「和食党」以外の人には有難いことであった。私が日頃行く「貧乏旅行」では、こんなリッチなものは食べられないのである。同行の方に、「あんたはよく食べるなあ」と言われてしまった。 今回のツアーは「自由行動日」がない分、全日程ほとんど「食事つき」なのである。実は元の案では「自由行動日」があったのだが、都市部で何度も爆破騒ぎがあったため、出発直前に旅行社から連絡があり、「今ならチャージなしでキャンセルできます・・・・参加される場合は自由行動はなくなります」ということで、結果的には昼食も「宛い扶持」ながら食事付きになった。おかげで金はかからないが、何の自由もなくなってしまった。 *筆者注:和製英語、英語には「ヴァイキング」という名の食事は存在しない |
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ダーダネルス海峡とエーゲ海の接点付近 |
チャッナカレの泊まったホテルからトロイ遺跡までは、バスでおよそ一時間二十分である。途中は写真のように海岸沿いの丘の上を走ってゆく。昨日の雨のおかげか、空は地中海らしく紺碧に晴れ上がり、エーゲ海に続くこのあたりの海はまた美しいブルーである。こころの中までスカッとしてくる。 斜面にはオリーブや柑橘類、他の果物の木が植えられ、日がな一日、強めの陽光を浴びている。道理でホテルで食べるオレンジが甘く味が濃い訳である。私はむかしいたアルジェで毎日食べていたオレンジの味を思いだしていた。 こうしてみると、日本で売っているアメリカ製のオレンジなんぞは仲間にも入れて貰えないだろう。蛇足ながら、私たちがヨーロッパ旅行中に食べるオレンジは、おおむねスペイン、モロッコ産である。 |
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トロイの再現木馬 学校から見学に来ていた子どもたちには人気があった |
あのホメロスの「イーリアス」に登場するトロイは、遠くにエーゲ海が見渡せるやや高台にあった。シュリーマンは少年時代にホメロスを読み、ずっとトロイを想い続け、後年私財を擲って発掘に専念したといわれる。私たち日本人でさえ、このシュリーマンのストーリーはよく知っている。 また最近、同名の映画により、歴史をよく知らない若い人たちにも知られてきた。私は昨年ポーランドのアウシュヴィッツやワルシャワゲットー跡地に行く前に、映画「戦場のピアニスト」を見てから行った。しかし今回は見ては来なかった。 それは時間的なこともあったが、高校時代に見た「トロイのヘレン」という映画のイメージを壊したくなかったからだ。その映画では、イタリアの美人女優ロッサナ・ポデスタの眩いばかりの美しさが印象に残った。さらに、新しい「トロイ」はストーリーが変えられて、スペクタクル中心と喧伝されていたからである。そういう話を年輩の方にしたら、「私は見てきましたよ」と仰った。さすがに「暑い夏にトルコまで来よう」という方は違うな−と感心した。 サイト内リンク:トロイ遺跡 |
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あのシュリーマンが掘らせた場所 ここだけが他の場所とまったくちがう堀方をしている |
トルコ人ガイドは何度同じことを日本人ツアーに説明したのであろうか、あたかも学芸員か発掘者のように流暢に話していた。ずっと回ってきて左の写真の場所に来た時、彼は参加者に向かってこう質問した。 「みなさま、ここがシュリーマンが発掘した所です。どこかは他の場所とは違います。どこでしょうか?」 「この堀り方を見てください。ふつう歴史遺跡は縦に掘ります。時代の移り変わりが分かるからです。現代の学問的発掘ではもちろん縦です。」 「でもシュリーマンは遺跡の横から中に向かって、掘らせました。だから何千年もかけて何層にもできた市を無視しました。彼は金のマスクや宝物が欲しかったのです。こうしてシュリーマンの発掘は学問的には全く役に立たない物になりました。今は発掘を指導する学者は、学生に向かって『シュリーマンのような堀り方をするな!』と言っています。」こうして世界に有名なシュリーマンは、現地では「反面教師」として生き残っているのである。 この話を聞きながら、私は中国の西域に行った時の多くの遺跡のことを思いだしていた。あの辺りの仏教遺跡では、多くの壁仏画や大仏像は顔が消されていたり、首が飛ばされていた。それは「偶像崇拝」を嫌うイスラム教徒の仕業のこともあったが、多くの物は壁がきれいに切り取られていた。それらの多くは現在メトロポリタンや大英博物館やルーブルにあるという。「学問的研究」と称して、西洋諸国がいかに多くの歴史的遺物を「奪って」いったことか。いつもながら考えさせられるのである。 サイト内リンク:中国・略奪跡も生々しいベゼクリク千仏洞 |
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この国はひまわりの大産地 油を取る |
バスに乗った時は暑くて汗が流れていた。やはり好きでなければ、値段が安いだけではこんな季節には来られない。それにしても、あの真夏の中国の火炎山も暑かった。ミント水の入った「使い捨てタオル」で顔や首筋を拭く。 トロイに後ろ髪を引かれながらも、バスは走る。山が遠くなり、ひまわりが咲く黄色い畑が通り過ぎてゆく。日本人にはひまわりは1.幼児がチューリップとならんで描く花で、2.小学校の中庭に咲いている花・・のイメージだが、ロシア、中央アジア、中近東、南ヨーロッパなどでは食品である。 鳥の餌だけではなく、ロシア人はポケットに種を入れてピーナツ代わりに食べるし、またどの国でもサラダや揚げ物の油として多用している。トルコは実はひまわりの大生産国なのである。蛇足ながら、その成分のオレイン酸は、オリーヴ、紅花と並んで「悪玉コレステロール」を減少させるとされている。 リンク:ひまわり油の効用 |
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アイワルクのメインストリート 希望する料理が食べられるレストラン 気候的にいって果物屋は地元の新鮮なものが多い |
次ぎにバスが停まったのは、エドレミット村。このあたりはオリ−ヴの生産地であり、土産物店には石けんや実の瓶詰め、油などオリーヴ製品が、所狭しと並んでいる。 ガイドの勧めもあって、よく売れていたのが「見かけの悪い石けん」であった。しかも裸で売られていた。外見はまるで戦後の日本で売られていた直方体の「洗濯石けん」の様である。後日談になるが、帰国後差し上げたご婦人達からは、「肌がすべすべする」と好評であった。 今流に言うと、「無添加無香料健康石けん」であろうか。人工的化学的成分、香料を多量に含む内外有名メーカーの「ブランド化粧品」に対するアンチテーゼかも知れない。日本の「ちふれ運動」もこのあたりが出発点であった。 昼食でアイワルクの町に入る。ここはいかにも「観光で生活している」所らしく、ホテルやレストラン、土産店が並ぶ。きっとハイシーズンには、外国人も多いことだろう。ビーズを売る子どもたちがいた。たぶん家内で作った物を売っているのだろう。トルコの夏休みは3ヶ月半と聞いた。もう休みなのかも知れない。 ビーズ製品を売る少年 |
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乾いた石灰岩の土地にオレンジ、杏などが栽培される こういう生産物も「EU」未加盟のため、 ヨーロッパ市場では関税などで大変不利だという |
食事後、バスはベルガマの町に向けてひたすら走る。途中右手遠くに大きな島が見える。ガイドが説明をする。「みなさま、見えます島ははギリシャ領でレスボス島と言います。シーズンはたくさん観光客が来ます・・・。レズビアンと言う言葉はこの島から起こりました。・・・」「なるほどレスボス島の住民だからレズビアンか。」と私は変な所で感心をする。 曲がりくねった海岸線の道路をかなり走っても、なかなか目的地は現れない。それにこのバスの運転手はかなりの安全運転だ。近年海外、特に中近東など発展途上国で、日本の団体ツアーバスの交通事故が多い。実は今回の会社のバスも事故をしている。だから会社も特に安全を払っているのだろう。参加していた人の中にはそのことを知っている人がいた。私は知らなかったのであるが、「それを知っていて参加する人」もすごい。「旅の達人」である。 途中にドイツの会社が経営する金の鉱山があった。この国を見ていると、多くの点でドイツと結びついている。ドイツの自動車会社の工場や、ディーラーが多く目につくし、走っているドイツ車も多い。 またドイツ国内で「出稼ぎ外国人」が多いのはトルコ系である。あまりに増えすぎて、ドイツの「ネオ・ナチ」からは嫌われているという。あのサッカーのイル・ハンもドイツに住んで、ドイツ人の嫁さんと暮らしている。当地のホテルの表示も、トルコ語の次は英語ではなく、ドイツ語である。この二国の関係は、第一次大戦で組んで共に敗戦国になって以来であろうか。日本から見てトルコは遠い国だが、ギリシャは隣国、他のヨーロッパ諸国からは飛行機で数時間の近さなのだ。 |
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ベルガマ遺跡・トラヤヌス神殿 |
長い間走った海岸線から分かれて内陸部に向かう。現在のベルガマは坂の多い町である。町を抜けて坂道を上がってゆくと、遺跡は山の上の方にある。車を降りて歩いてゆくと、石垣や大理石の柱が見えてくる。この遺跡は山の中部から頂上部に向かって上下に展開する。その歴史は古く、アレクサンダー大王の死後から始まるという。そういう紀元前の時代から、山上に大理石の柱を運び上げた技術には驚きを覚える。 ここの下方ににあの有名なペルガモン神殿がある。今は基礎部しか残っていないが、上部構造はそのまま遠くドイツ・ベルリンの博物館に展示されている。私も20年近く前に、ベルリンで見てその大変な量に驚いたものである。その当時はともかく、現代においては、先進国が人類の歴史的遺物を「奪って」自分の国で展示するのは不合理ではないかと思える。ベルリンの保存状態は非常によいが、基礎部しか残っていないない現地遺跡も異常に見える。 |
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ベルガマ遺跡・アクロポリスで |
下から見上げながら歩いて上がってゆくと、急斜面を利用して円形大劇場が現れてくる。今までヨーロッパ各地で見た円形劇場ではいちばん急斜面である。ここの最盛期はローマ時代(その頃は日本では縄文〜弥生時代)ということを考えると、未だに少ししか崩れていない石組みの素晴らしさに感心させられる。 頂上部の神殿周辺は平地になっている。そこから見下ろすと、ベルガマの町の赤っぽい屋根が基調となって、高原の歴史的町の落ち着いた雰囲気を醸している。私はツアーでなかったら、吹き上がってくる風に吹かれて、石の上で半日くらい座っていたいと思った。 サイト内リンク:ベルガマ遺跡(ペルガモン王国) |
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トルコ石の加工品(上)と原石(下) |
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トルコ第三の都市・イズミール(古名スミルナ) |
トルコ第三の都市で工業貿易都市イズミールは海の傍にある町である。港にはトルコ海軍らしい艦船も停泊している。今でこそ隣国ギリシャとは和解の方に向かっているが、長い間地中海に浮かぶキプロス島の問題では「一触即発」や「戦闘中」の時代もあった。 このエーゲ海沿岸はギリシャ、アレキサンダー、ローマの各時代の遺跡等が多くあったが、歴史上スミルナと言われたこの町も、第一次大戦後ギリシャとの激しい戦闘があり、かなりの部分が破壊消滅したと言われる。 今ではその傷跡も消え、トルコを代表する近代的な大都市になった。海岸沿いのアタチュルク通り(写真の自動車が走っている通り)の歩道には、海を眺めながら歩くカップルやベビーカーを押す若夫婦などが散見される。 海を見下ろせる高台にあるその日のホテルでは、夜になると庭で大きなパーティーがあった。かなり遅くまで騒ぎ、突然花火が打ち上げられた。うるさくてなかなか寝られなかった。後で聞くと、サッカーリーグのイスタンブールが優勝し、その祝賀会であったのだそうだ。トルコは言うまでもなく、サッカーがさかんな国である。 |