トルコ早回りの旅

Day4・イズミール-エフェソス-パムッカレ
Day5・パムッカレ-コンヤ
Day6・コンヤ-カッパドキア

   DAY 4 イズミール−エフェソス(エフェス)−パムッカレ


丘の上までせり上がった「一晩の家」

 
 イズミールのホテルを朝8時ちょうどに出発。やがて国道の両側山の斜面にあまり造作の良くない家々が目に入ってくる。ガイドは「みなさま、これらの家は<一晩の家>と呼んでいます」という。彼の説明によると、このあたりは国有地など他人の土地であるが、地方から職を求めて「上京」した者が勝手に「一晩」くらいで家を建ててしまうのだそうだ。

 そうして何年も「占有」を続けていると、「占有権」が生じて土地の持ち主がアパートなどを建てる時には、その部屋の半分を「不法占拠者」に渡さなければならなくなるそうだ。そうすると無一文者が金持ちになる。それを当地では、「貧乏人もやがて金持ち」というらしい。なにか終戦直後の日本の様子が思い出される話ではある。




途中の岩山頂上には古い城壁が聳える
下はオレンジ畑










 
 バスの中で、ガイドのシナンさんはトルコの「徴兵制」の説明をした。彼は名門アンカラ大学卒だけあって、ふつうのガイドらしくない堅い話が多い。旅の間中、トルコを取り巻く国の事情とかトルコとの紛争とか経済状況とか多岐に渡って話した。

 
 トルコの徴兵は18歳〜40歳までの男性で、IDカード保持者(国民)に行われるが、学生の間は免除されるという。その兵役も3種類ある。
1 大学卒でない人:即入隊、給料なし、15ヶ月
2 大学卒:(あ)給料なし、6ヶ月  
        (い)給料あり、12ヶ月

  *年間250万人が兵役にあるという
 配属先の陸海空軍も自分で選べないし、大学卒でも(あ)(い)は自分では決められない。配属地は自分の出身地はダメで、逆に出身地から遠隔な場所に配属されることが多い。イスタンブールなど西部出身者は、戦闘があるイラク、イラン国境配置を恐れている。

 定期バスなどは道端で時々軍のID検査があり、兵役を逃れている者がいれば、即刻そのまま任地に送られる。(一旦家にも帰れない)

 むかしは金を払って兵役の期間を短くする制度があったが、貧富で差が出てきて問題になったため、今は廃止されている。この国では兵役経験がないと、就職、結婚などができないと言われる。

 ガイド氏によると、「私も経験があるが、兵役は国を守るものだから大切だ。これが済んだものはシャキッとして男らしくなって社会復帰をする。」と言った。

 


エフェソス(エフェス)遺跡の通り

サイト内リンク:トルコの歴史遺跡:エフェソス(エフェス)遺跡


 出発してから一時間弱でセルチュクを通過し、しばらくしてこの国でも最大規模のエフェズ(旧名エフェソス)遺跡に到着した。見るからに大きそうな遺跡だが、なぜかユネスコ世界遺産にはなっていない。これが日本だったら、当然世界遺産に入れるだろう。

 歩いて回っても、メインストリートや神殿跡や広場や大劇場、図書館がはっきり残っているのが分かる。保存状態は比較的良好で、このあたりで後世に大きな戦闘戦乱もなかったのであろうか。

 ただ復元作業は大雑把と思われることがあった。大理石の円柱はもともと倒れていたのを現代に起こしたのであるが、違う時代の柱を組み合わせていたりして「笑える」作業をしていた。柱の上部にある飾りは「コリント式」とか「ドーリア式」とか時代で異なるのであるが、それを混ぜて組み合わせていた。時代考証が十分でないようであった。



エフェソス遺跡の大劇場


 
 この遺跡で気がついたことは、とくに見学者が多いことだ。中でもヨーロッパ系白人が多い。この国はヨーロッパ諸国から飛行機で数時間の距離にあり、比較的安く「異国情緒」が味わえること、この国がヨーロッパと経済的に深く結びついていること、ユーロがトルコ・リラに強くて安く旅行ができること、ホテル、駅の表示などにはドイツ語、スペイン語、イタリア語、フランス語などの表示が多く、旅行中分かりやすいことなどが理由であろう。

 興味深かったのは、「売春宿」とその案内表示である。売春が良いという意味ではなく、「人類史上最初の職業」と言われるこの職業が、堂々と道路に標示があり、その部屋まできれいに残っているという意味である。つまり当時から「公認の職業」であり、現在の世界の国のように「コソコソ」やっていないところである。

 もう一つも左上のリンクでもご覧になれるが、ローマの「水洗トイレ」である。以前にもフランスやアルジェリアのローマ遺跡でも見たが、石造りの腰掛けに穴があり、下を水が流れていたことだ。その水も遠く何十キロも水道橋で運ばれてきたのである。しかも穴が十以上も囲いもなくくっついている。当時の人たちのその姿を想像するだけでも楽しいものだ。同じ頃の弥生時代の日本人の姿と比較すると、もっと楽しいかも知れない。



皮革製品製造直売店の毛皮コートを着たマヌカンたち

 
 世界中どこであろうと、日本の「ツアー」には必ず一日に一回以上、製造直売などの店に連れて行かれる。私が個人旅行中には絶対行かない店が見られるので、気分が変わって良い時もあるのだが・・・。

 今回は「毛皮と皮革」の店だ。入るとまずファッションショーの舞台と観客席のような場所に入れられる。座って待っていると、左のようなキレイなお姉さん達が入れ替わり立ち替わり登場する。

 それがすむと、隣のお店に入れられて店員たちが「これはお似合いですよ」という感じでつきまとう。幸い私は汚い恰好であったし、買いそうなご婦人達がたくさんいたので、そちらへ彼らが行ってくれた。早めに外に出ると、オジさんたちばかりがどんどん出てきた。

 もう常識のことだが、ツアーの会社はこういう所に客を連れてきて、売り上げからマージンをもらうらしい。だから懸命に説明をして、客をその気にさせる。以前ツアーで香港に行った時、ガイドに「もう二回目だからこの日は自分たちで行動します」と言ったら、「お客さん、どうしてこのツアーが安いか知ってるんですか?こういう所に来るから安くなるんですよ!」と叱られた。

 


トルコを代表する串焼き料理「シシ・ケバブ」
 
 エーゲ海沿岸のこのあたりは6月でもかなり暑い。日本よりも湿度がかなり低いが、それでも汗がどっと流れる。それに太陽光線がかなりキツイ。日焼け止めクリームが効きにくい。1時間半ほど遺跡を歩き回り、写真も撮りまくってやっと昼が来た。

 遺跡近くのレストランでは「シシ・ケバブ」がでた。戦後の日本で一時有名になった「シシカバブ」である。ご存知のように焼き肉は焼きたてが美味いのであるが、ここのは冷蔵庫から出してきたような代物で、しかも肉が小さく味ももう一つで量的にも少なく、ハズレであった。(左写真)いつもこの会社はこのコースは催行してきているのであるが、それでもこういうことが起きるのである。



エフェス近郊の伝承「マリアの家」

 
 昼食後は、エフェス遺跡から山を上がった所にある伝承「マリアの家」である。映画「サウンドオブミュージック」のマリアではない。マリアとは下の看板にあるように「キリストの母」のことだ。弟子ヨハネがキリストの死後、トルコ中を「布教」したということが、その根拠であろうが、直接のきっかけは18c末にアンナ・カテリーナという尼僧が行ったこともないエフェズの石の家の話をしたことらしい。それをもとに家が発見されたのだそうだ。

 「地球の歩き方・E103・イスタンブールとトルコの大地」によると、1967年にローマ法王パウロ6世が、1979年にはヨハネ・パウロ2世がここを訪れたという。建物が石造りなので、中はヒヤッとしている。小さな室ではあるがマリアの肖像や蝋燭や供え物などがあふれていた。信者らしい人が入れ替わりに入ってきて、祈りを捧げている。

 

エフェソス(エフェゾ)の伝承「マリアの家」

この地、エフェゾはイエス・キリストの母、聖母マリアが
最後にお住まいになった場所と言い伝えられている


「マリアの家」近くにあった日本語の解説看板、他にも多くの言語で書かれた看板が並んでいる


お断り:看板の写真をそのまま載せたので、画面が歪になっています


「マリアの家」前で人々に神の愛を説く修道女

 
 「マリアの家」のまわりは広い庭があり、木々がたくさんあって涼しげだ。その木陰で一人の修道女が幼児をベビーカーに乗せた若夫婦と何やら話しをしていた。言葉は分からないが、一生懸命に何かを説明していた。若夫婦はそれをじっと聞き、また質問をしていた。無心に説明する修道女の顔が大変印象的であった。

 家から数十段下りた所には「病が治る聖水」が湧く泉があり、数人の人々がいた。敷地内の人々の顔は穏やかで、優しい顔をしていた。信仰の良い所は「心の平静」にあるのだろう。

DAY 5 ヒエラポリス−パムッカレ−コンヤ  


ヒエラポリスのメインストリート

サイト内リンク:トルコの世界遺産バムッカレ・ヒエラポリス

 
 朝8時にホテル・リッチモンド発。山を上がり30分ほどで遺跡の遺構が見えてきて、ヒエラポリスに着く。ヒエラとはギリシャ語で「聖なる、神聖」の意、ポリスはお馴染み「都市」の意である。古代エジプトの「ヒエログラフ」は「神聖文字」と和訳している。ここはBC190に始まったペルガモン王国の遺跡である。以後ローマ、ビザンツの両時代まで長く繁栄したが、後にセルジュク・トルコに滅ぼされることになる。

 道の両側には大きな石棺がゴロゴロしている。これをネクロポリスという。ネクロは「死者」の意で、「死者の町」という意味になる。ドミティアン門前でバスは停まって撮影する。前にアゴラがある。社会科歴史でむかし習った「広場」である。ドミティアン門はローマ時代、ドミティアヌス帝の時代に帝を称えて作った所からそう呼ばれている。
                  
 左写真のように、町中には当時としては広い大通りがある。イタリアのポンペイ遺跡でも見られたが、固いはずの石畳に当時の馬車の轍がはっきりくっきり残っている。何百年も使用された道路なのだが、当時としては相当な交通量でもあっただろう。



土で汚さないために裸足で歩く わずかだが温水が流れている



本来は真っ白のはずがすでに灰色になっている


 ヒエラポリスからパムッカレまではホンのちょっとの距離・・というよりつながっている感じである。正式な名前は「石灰棚(Travelten)」という。トルコの観光写真などで、日本人にもよく知られている。温水が内部の石灰を溶かして湧出し、長い年月の間に大地全体を覆ったものである。遠くから見ると、美しい白山である。

 しかしただ単に「白い山」だけであったら、こんなに有名になってはいなかっただろう。左下写真をご覧になっていただきたい。あの変わった表面の形・・日本人に分かりやすく言うと、能登半島の「千枚田」の形が真っ白くなったと考えればいいだろう。もっと言うと、日本各地の鍾乳洞内に同形のものが多く見受けられる。これらの形がオープンエアにあると、いっそう面白い。

 しかし何か物足りない物があった。行く前からすでに分かっていたことなのであるが、その「千枚田」に満々とあるはずの青い水がないのである。夏場の一定期間しか水(正しくは温水)を流さないのである。

 この原因はすでにはっきりしている。下の地図で分かるが、山の下の村にたくさんの温泉ホテルや温泉施設ができて、源泉が枯れかけているのである。さすがに国はこれらを「整理」しようとし閉鎖された所もあるが、すでにもう「手遅れ」の感がある。

 世界中で「観光開発」という名の「自然破壊」がこれまで多く行われてきたが、この地もせっかく「世界遺産」になったのに、これからはなかなか元の姿に戻れそうにもない。というのは、一年中水が流れていないので、新たな表面の石灰層ができずに、表面が薄汚れて灰色になりかけているのである。また観光客の立ち入りを許してきたことから、人がよく通る場所では石灰面がはげて土がむき出しになっている場所があった。

 我が日本でも「鳥取砂丘」などは「自然破壊」のよい例である。もともと、日本海の海流が多量の砂を運びあの大砂山ができたのだが、人工の堤防や護岸工事の結果海流が流れなくなり、新たな砂山が形成されなくなった。

 また人間の生活が侵入したため土地が富裕化し、本来は無いはずの植物や雑草が茂ってきたのである。また観光客や生活者が捨てるゴミも半端ではない。自然が作った美しい地形も人間が壊しているのである。中部日本の「スーパー林道」や富士山周辺の観光用道路、観光施設も悪しき見本である。まことに「人間と自然の共生」は難しい。

             


パムッカレの現地案内地図看板

パムッカレからコンヤまでの約400kmは内陸部 山あり、草原ありの大陸的景色が広がる(下各写真)

農場の作業の様子

菜種のような花も満開の畑

草木のない山地から峠を越えると急に緑の盆地が広がる

途中には石灰岩だけの山もある

小麦、トウモロコシなどの畑や牧場なども延々と続いている

<閑話休題・トルコ料理いろいろ>



ツアーのよい所はトルコの料理を一通り食べさせてくれること (数回分をまとめて掲載) 
どこでビールを頼んでも
「エフェズ」"EFES"が出てくるが、ピルズナー・タイプで飲みやすい



途中のドライブインにあった大きなナスレッデン・ホジャ像
「ホジャ」は先生の意、ロバに逆さまに乗っているのが面白い。

「トルコの一休さん」という感じの伝説の「人気者・有名人」1207年生まれ。回教ハネフイ派イマームの父に教育を受け、コンヤでセイッド・マフムット・ハイラニ に教育を受けた。彼の頓智話は後になるほど、変化していったようだが、どうやら後世の人が話を面白くしていったようで、日本人には面白い話、そうでない話の玉石混淆に見える。

 半日かけて走る400kmもあるコンヤまでの道は上の写真のような景色が続くが、写真を撮るだけでなく、ガイド・シナンさんの「トルコ学集中講義」が延々と続くので、飽きることはない。

 彼は地方毎の代表的動物を紹介してくれた。アンゴラ(現首都のアンカラ)の山羊は有名だが、あとはデニズレの雄鶏とかワンの猫とかアルトゼンの毒蛇などが有名だという。どうでもいいことだが、ワン(町の名)の猫が面白い。

 さて、この後から彼の「歴史学集中講義」が始まった。15cのオスマントルコ時代から始まって、17cの黄金期スルタン・スレイマン時代、第一次大戦でドイツと組んだオスマン朝が大敗した話、敗戦後ケマル・パシャ(ケマル・アタチュルク)が政治を握り、1923年に首都をアンカラに移した話などが続いた。

 ケマルは時には強圧的ではあったが、オスマン朝の陋習(ろうしゅう)を廃止し、アルファベットを導入し、女性の解放につとめたと本にある。多くの現代トルコはここから始まっているという。「ケマル・アタチュルク(トルコの父ケマル)」と呼ばれる所以である。





コンヤ市の市街電車は市内と市街を結ぶ
バス輸送の発達したこの国では電車は比較的珍しい
後ろは建設中のアパート群




コンヤ郊外は住宅の建設ラッシュ
さすが経済成長率が高い国らしい光景だ




現在は一般にも公開されているメヴラーナ博物館

サイト内リンク(メヴラーナ博物館・コンヤ)


筆者注:モスクは「イスラム教寺院」と訳したりするが、キリスト教会や仏教寺院のように、キリスト・マリア像や阿弥陀如来・各菩薩のようなものはない。「偶像崇拝禁止」であるうえ、もともとは聖地メッカ(マッカ)に向かって「祈る場所」である。
 
 夕方にコンヤに到着する。今日だけで410kmほど走っている。今回のツアーは一晩だけの寝台列車以外は全部バス移動で、毎日数百キロずつ移動する。酔いやすい人や車が苦手な人には全く不向きである。

 さて、「コンヤ」と言っても、白袴(しろばかま)を履いた人がいるわけではない。イスラム神秘主義の一派、メヴレヴィー教団の発祥の地であり、宗教的、文化的な町である。その元大本山が街中にあるメヴラーナ博物館(左写真)である。

 このイスラムのモスクがなぜ「元」大本山なのかと言えば、話は少し長くなる。オスマン・トルコ時代、この宗派はスルタンや宮廷エリートたちの信仰を集めていた。そのあり方は日本明治期の国家神道みたいな物だったらしい。つまり国家の保護があって、特別な地位があったようだ。

 近代的「共和国」を建てた国父・ケマル・アタチュルクは、「政教分離」を実行するために、この教団を解散させた。このあたりがイスラム教徒の多い近辺の国の中でも、トルコの独自性がある所以である。つまりイランやサウディのように、イスラームが現在でも「国教」ではない。「信仰の自由」が憲法でうたわれている。

 すでに述べたように、もともとこの地域はヨハネが伝道布教して回った地域であり、古くからのキリスト教信者もいる。学校時代習った「東ローマ帝国」があった国であり、ギリシャ系の東方教会信者もその分派、アルメニア正教系の信者もいる。

 それにもかかわらず、街中のこの「博物館」には敬虔そうなモスレム(イスラム教信者)が入館前に水で身を清め、展示の古いコーラン写本を大事そうに見守っていた。その目はまるで比叡山延暦寺の宝物館を訪れた仏教徒たちのようである。やはり今でもここは「モスク」としての意味づけがあるような感じである。


  
メヴラーナ博物館
ここはもと「大本山」だけあって多くの善男善女が集まる


       


予言者ムハンマドの聖なる髭が入った箱
 
 博物館に入るには、履き物を脱いで入らなければならない。内部で重要なのは、メヴラーナの棺である。そして聖なる髭やいくつものコーラン写本、古いジュータン類もガラスケースに大事そうに入れられている。

 中庭には手入れの行き届いたバラの花壇がある。そのベンチでは孫を抱いた老婆たちがお喋りもせず座っている。(左端写真)



 
♪♪♪今夜はコンヤのコンヤ・ヒルトン(★★★★★)♪♪♪


 (左写真)
 左半分がホテル部分
 右半分がホテル専用のショッピング・モール



(下写真:ホテル・ヒルトンの設備)



専用乗馬コースと厩舎
遠く彼方がコンヤ市街


専用テニスコートと専用プールとホテルの影


レストラン内ではギョズレメ(挽肉が入ったクレープ)の
実演があり、目で見て食べて楽しめるようになっている


よいホテルの条件は設備や部屋だけでなく、
従業員の微笑みとサーヴィス、そして
食事などで選択肢が多いことだ

筆者注:安いツアーであったが、こういうデラックスホテルが入っているのは、個人旅行では考えられないことである。

 
DAY 6 コンヤ−<カッパドキア>カイマクル−ギョレメ谷−ユルギュップ泊  


地下都市カイマクル外観と内部(下)

外観は氷山のようにシンプルだが、内はいまだに
正確な様子が分からないくらいの迷路になっている
ガイドが、「勝手に脇道に入らないように!」と
何度も念を押していたくらいの場所である






地下穴倉の様子

*筆者注:古代の諸王国とは別に、現在のトルコ人は後代になって中央アジアからやって来たという。現在の中央アジア諸国民とは、血縁的につながっているようだ。

 
 朝7時56分ホテル・ヒルトンを出発する。およそ2時間弱で人口10万人のアクサライを通過。この後から、この国で標高が2位と言われるエルジェス山(3916m)が彼方に見えてくる。上方に万年雪を被り、いかにも涼しそうに見える。この国第一位は有名なアララット山(5156m)で、東部国境に近い所にある。この山では「ノアの箱船」の破片らしいものが中腹から発見されている。

 バスが走るこの辺りは、すでに「カッパドキア地方」に入っている。地理的にはちょうどトルコの中心の位置にある。カッパドキアは現地語で「きれいな馬の国」という意味だそうで、いかにも大陸騎馬民族*らしい命名である。馬は騎馬民族のシンボルなのである。




ウチヒサールの岩窟の壮観(カッパドキア)

サイト内リンク:世界遺産・ギョレメの谷・カッパドキア

 
 バスは1000m級の高原をひた走るが、坂道がくねくね曲がりまくり、辺りの景色が写真のような感じに変わってくる。昼食はこの土地らしい「洞窟レストラン」でいただく。中は思ったより広く、天井も高い。百人くらいは楽に入れそうだ。さまざまな国のツアー客で満員に近い状態であった。

 カッパドキアは「トルコ一のワイン生産地」といわれる。この店の「ウリ」もワインで、我々のガイドも力を入れて懸命に宣伝?をしていた。赤を飲んでみると、渋くて比較的若いワインである。アルジェリアで私がいつも飲んでいた「キュヴェー・ド・゙プレジダン(フルボディ)」よりも美味しくはなかった。「かなり良いワイン」と言っていたが、これではトルコのワインの「実力」が分かってしまう。

 アルジェリアは「ワイン王国・フランス」の元植民地だから、ワイン同士を較べるのは酷というものか。それでもいちばん小さなビンを一本買っていた。ビンが左下写真の岩のような面白い「キノコ岩」型で、自分用土産としたかったからである。

 
 少年時代に、私が初めてギョレメ(カッパドキア)の奇岩の写真を見た時、「世界にはこんな奇景があるのか!」「いつかはきっと見に行こう」と思っていた。だからどんな形かはよく知っていた。それにもかかわらず、実際に自分の眼で見ると、本当に感激してしまう。自然が作った地形、岩石群であるが、何か神がわざわざ作ったような感じさえするのだ。

 そういう自然に対して、有史以来人類が住み着いてきた。特に初期キリスト教時代、迫害された教徒達はこの山奥に逃げ込み、何百年も火山灰の凝灰岩をコツコツ削って住居や教会、礼拝所、倉庫などを作り上げた。その努力もすごいが、何故かそれよりも、食料や水、トイレなどは一体どうしていたのだろう?と思わざるを得ない。いずれにしても、彼らの生命力、信仰心も半端ではない。
 



ギョレメの岩窟居の民家の内部 
石灰岩の中は意外と広いし部屋がたくさんある
夏は涼しく冬は暖かいという
年間の「光熱費」はいくらなのだろうか



 ガイドのシナンさんは、日本の旅行会社と契約している現地旅行会社のガイドである。このバスもその会社が保有している物だ。だから数えられないくらい当地には来ているのであろう。彼の「顔」?で、今でも「穴倉」を住家にして暮らしている家を見せてもらうことができた。その家の奥さんは、愛想良くミント茶を振る舞ってくれた。

 穴倉だから当然ふつうの町の家よりは薄暗い。窓も決して大きくはない。昼でも明かりをつけている。外は私が行った6月中旬でも歩くと汗が噴き出た。それが中に入ると、ヒヤッとする。もちろんクーラーも扇風機もない。これが意外と良いのである。湿度が低いのもその一因であろう。また外部の雑音が入ってこない。

 私が居た北アフリカのアルジェリアは、サハラ(砂漠)がある国だったが、私の家にはクーラーも扇風機もなかった。地中海が近いのであるが、やはり湿度が日本よりはるかに低かった。3年間で「クーラーが欲しい!」と思ったのは、数えるほどの日数しかなかった。それよりもこの洞窟のような家はもっと快適のようだ。「冬暖かく夏は涼しい」という。こんなに「エコロジー運動」にぴったりの住家も多くはない。

 もう何年も前になろうか、日本のある保守系政治家が、「中国の黄土地帯にはまだ穴倉に住んでいる(遅れた)人たちが居る・・・・」というようなことを言って物議を醸した。自分たちの文化の基準で他民族の文化程度を推し量り、見下す−という姿勢が露骨に見えた。彼の心にはきっと「アジアの兄弟たち」を見下す戦前の亡霊が住み着いていたのであろうか。それとも単に無知で感覚的直感的に言っただけなのだろうか。どちらにしても、褒められたものではないが・・。

 



焼く前に天日で干している「陶器の町」らしい光景


 ギョレメ谷を中心に合計で何時間も見学し、写真を100枚ほどもとり続けたが、疲れは全然感じられなかった。むしろ筆者にとってこのギョレメは「長い間来たかった場所」であったから、まだ時間が足りないくらいであった。しかしここがツアーの不便な点で、「あの向こうの谷で写真を撮りたい」と思っても、ガイドはすぐに、「バスに乗ってください!」と、土産物店に連れて行こうとする。それも分かって参加したのだから仕方がないことではあるが、やや欲求不満が残る。

 このカッパドキアは、前述のように山がちで平均高度は高い。通り過ぎてきたエーゲ海沿岸よりも、年平均気温は相当低そうだ。さらに山勝ちで火山が多く、土地は火山灰に覆われている。当然、土地の生産性は低く、農業としてはアンズ、ブドウ、ジャガイモ、牧羊などがあるが、むかしから豊かではなかった。

 そのために窯業、じゅうたん、装飾品など手工芸品が発達し、それを農家の女性たちが重要な労働力として支えてきた。アルジェリアでもそうだったが、生産性の低いアラブ・イスラム圏では、女性の家内工業担当者としての役割が重要である。

  


日本の九谷などに似たところがあるが、柄・デザインは異なる
シルクロードを通じて、中国の陶器が影響を与えている可能性はある


 
 カッパドキアのこの一帯では、特産品では例えば、国道沿いのドライヴインでたくさん売られている木工製品、生産量の多いワイン(赤白ロゼ)、奇岩キノコ岩のミニチュア模型、民族衣装を着たミニチュア人形、アンズなどのドライフルーツ類、それを使ったヘビーなケーキなどがあるが、大きくて高額な物はアヴァノスの器、壺、皿などの陶器であろう。

 その工房に連れて行かれた。左上写真のように、この町はかなり陶器がさかんな町のようだ。日本でいうと、有田か瀬戸のようだ。日本語が大変上手な支配人風のオジさんが、あれこれ実物を指し示して説明してくれる。ここの工房の絵付けも女性の手作業のようであった。なぜか世界のどの国でも、指先と根気の作業は、女性の独壇場である。男は大体不器用で根気がない。やはり、「子供を産む」ジェンダーは遍く強い。




にこやかにポーズをとってくれた「トルコの京唄子」さん

 
 すでに書いたように、カッパドキアは気候的、土壌的理由で、農業生産性が低かった。だから決して豊かな地方ではなく、出稼ぎなども多く、「女性と子ども、老人人口」が多い村ばかりだったという。それは国道沿いの戸外カフェでお喋りにふけっているのは老人ばかりという現実を見れば、すぐに分かる。

 我が日本でも、農業生産の低い冷涼地、山岳地、火山灰地でも歴史的に同様であった。群馬県辺りでは、名物は「かかあ天下と空っ風」と言われてきたが、「かかあ天下」とは本来は、国語事典にあるように、「奥さんが威張って男性は頭が上がらない」という意味ではない。「貧しい」農村地帯では、「他所よりも女性がより働き者」という意味であり、それは「女性が人一倍働かなくては食べてゆけない」ということなのである。上州/群馬県も火山灰地が多く、地味は痩せている所が多い。

 此処においても、農家収入は女性労働力による「じゅうたん織り」に支えられてきた。娘たちも、ほんとに小さい時から織り方を学んでゆく。この「家内制手工業」がさかんな訳は、もう一つあるようだ。他のイスラム国も同様だが、イスラム社会では、女性の社会的地位は低く、女性の社会進出の機会がなかった。また女性は家の外で、他の人間(とくに男性)と共同して作業をすることは許されていなかった。そういうことも関係しているであろう。



日本円にして350万円の最高級絹製絨毯





サイト内リンク:トルコジュータンの柄と文様

トルコじゅうたんの写真と説明については、
上のリンクでご覧になっていただきたい。


 左の写真は、観光客が入る「絨毯工房」で見せてくれたその店にたった一枚しかない絹の最高級品である。大変小さいが、柔らかく薄く、大変緻密で光沢も良く信じられないほど軽い。12歳の女の子が2年掛かって織り上げたという。大人の女性では、指が太くなってこんな作品は無理だという。

 トルコはギリシャと並んで観光客が多く、観光収入は大変なものである。地理的にヨーロッパからも大変近く、そこからの観光客が最も多い。ところがこれまでは、「安かろう、悪かろう」で、ホテルやサーヴィスの質も、土産物の質も悪かったようだ。

 近年になって、トルコ政府は「工業近代化」とともに、「観光立国」を真剣に考えだした。それは長年取り組んできた「EU加盟」が「もう見込みがない」と国民が考え始めたことと相関があるのではないだろうか。

 具体的には「観光産業の近代化」であろうか。簡単に言うと、海外からの観光客を「食い物にさせない」行政ということであろうか。具体的には、行政サイドからの「指導を厳しく」ということだ。例えばこの絨毯ひとつにしても、「ヘレケ」という厳しい基準を設け、基準をクリアーし程度の高い物だけに、その名前の使用を許している。

 同じく観光立国のフランスもいろいろ「信用高いブランドの育成」を目指してきた。その一つは「コニャック」の呼称である。少しでも政府基準から外れると、もう「コニャック」とは名乗れない。単なる「フレンチ・ブランディー」である。

 ガイドのシナンさんがバスの中で何度も言っていた、「トルコはそういう宣伝がたいへん苦手」というセリフに、観光に携わっている「業界人」としての異議があるような気がするが、これからは少しずつ良くなって行くであろう。

 


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