Day7 カッパドキア-アンカラ
Day8 イスタンブール
Day9 イスタンブール-タシュケント
Day10 成田AP(NRT)-関西AP(KIX)
おわりに

Day 7 カッパドキア−アンカラ(首都)−夜行寝台「アンカラ特急」



キャラヴァン・サライ外観
高い塀に囲まれた一種の城郭である




キャラヴァン・サライ正門(上にトルコ国旗が翻る)

 
 朝8時、カッパドキアのホテル出発。バスは一路首都アンカラに向かう。途中でアウズカラハンのキャラヴァン・サライに立ち寄った。本当は昨日ケルヴァン・サライあたりに寄る予定だったらしいが、変更になった。

 筆者は今まで「サライ」というと、「シルクロードの荒野にある旅籠はたご」のイメージがあった。つまり大変「素朴な物」だと思っていた。ところが「サライは宮殿の意」ということが、当地に来て分かった。まことに不勉強を恥じた。当時の為政者がよほど貿易・商業を重んじたか、当時のシルクロード貿易が大変盛んであったが想像できる。ガイドの話では、旅人は通行税などを払うが、宿に泊まる場合に宿代はタダということであった。現代から見ると、少し不思議な感じがする。しかし中に入る時間はなく、ただ外から写真を撮るだけだった。

       

            サライ正門から中を覗く


 
 バスは一路アンカラに向かうが、どこからでもエルジェス山が見え隠れする。富士山ほどは形が美しくはないが、高度は富士山よりやや高い。角度によって山の形が少しずつ変わってゆくのが面白い。

 このあたりの町は高原の落ち着いた地方都市で、観光客もあまりいない代わり、人々が普段の生活をしているのが見て取れる。写真のように家屋の屋根は統一したように、落ち着いた赤色で、まわりの多めの緑の木々にマッチしている。

←雪渓が魅力的なエルジェス山




この国最大の塩湖風景


 アクサライから右折して、アンカラに向かう。途中に大きな塩湖に出会う。何十キロも左手の岸近くに塩の平原が続く。その向こうに水の部分が見える。これをトゥズ湖という。ガイドによると、ここの塩は国家の専売で、個人で勝手に取ってはいけないと言う。歴史上、塩はどの国でも国家の独占で、我が日本や中国でも例外ではない。

 バスが停まって、岸辺を歩けることになった。岸辺には駐車場や小さな土産店があった。店には塩の固まりや塩の袋も売っていた。しかしシーズン外なのか、ほとんど他の客はいなかった。塩の原は歩いてみると、意外に固くアスファルト道路に近かった。アメリカ・ユタ州のソルト・レークもさらに大きい同種類の湖である。ふつう日本人は「塩は海から取る」と思っている人が多いが、アメリカでもドイツ、スイスでも、「塩は鉱山や塩湖から取るのである」そしてこの方が単価が安いのであり、日本の工業用塩は、たいていがこういう代物なのである。


 カッパドキアから首都アンカラまではおよそ310km、午後も後半になってアンカラに入った。アンカラはさすが一国の首都だけあって、市中心部は世界の大都会とあまり変わらない。道路もビルも立派である。他の都市より自動車も多く、特に朝夕のラッシュアワー時の混雑はすごいらしい。それでも東京やパリやニューヨークなどとは段違いにのんびりしている。

 簡単に市内を回り、ガイドが説明をする。国父ケマル・アタチュルク廟は寄らず、遠くから望むだけだった。しかしトルコ最古の展示品があるアナトリア歴史博物館の見学ができた。丘の中腹にあるこぢんまりした博物館だが、中の展示はすごい。日本人が歴史の時間に習う鉄器で有名なヒッタイトやアッシリアなどの古代展示に驚く。アジアの古代史が好きな人には堪らない場所であろう。

サイト内リンク:アナトリア歴史博物館

 
 
 アンカラ発イスタンブール行きの寝台列車は、22:30の出発である。それまでに夕食を終えなければならない。この旅では、夕食はずっとホテルが多かった。今回は例外的に、アンカラ駅にあるレストランで夕食を摂る。料理はトルコ料理であるキョフテであったが、量も少なくお世辞にも「美味い」とは言えなかった。

 驚いたのは、最初にでてきたバゲット風パンである。長さは私が初めて見た長さ=約70〜80cmはあろうか。ふつうヨーロッパなどでは、この手のパンは切って籠に入れてある。しかしここでは、何人もが自分の手でちぎって食べるのである。衛生的にも問題がある。ただ私は空腹であったので、結構食べてしまった。

←筆者が今までに見たいちばん長いパン


 ゆっくり夕食を摂っても、出発までにはまだまだ時間があった。他の人たちは待合室に陣取ったが、私は駅内を「探検」してみることにした。私はこういうことが大好きだ。知らなかったのだが、歩いてみて、校内のプラットホーム端にすごい物があるのに気が付いた。「国父・アタチュルクの家」が残されていた。英語の説明によると、独立戦争時の「仮屋」と言うことで、現在は博物館になっている。これを日本で例えると、東京駅構内に明治天皇の仮御所がある様なものである。これには驚いた。

←アンカラ中央駅正面


 駅のキオスク



「アンカラ特急」アンカラ発イスタンブール行き

 
 さらに歩くと、左のような売店があった。他にレストランもある。店は写真のように日本と違ってこれだけの規模である。JRのキオスクよりも、はるかに品揃えは少なかった。乗車前に水を数本買い込んだ。

 今回の旅で毎日どっと買い込むのは、ミネラル・ウォーターである。この国の暑さは、日本以上に水を要求する。毎日昼だけでも3〜4リッターくらいは平気で飲んでいる計算だ。乾燥して暑い国では、「水の確保と補給」が最重要課題になる。中国西域・シルクロードでも同様であった。これをしないと、熱中症になる。

 
 発車一時間前になると、「寝台・アンカラ特急」が静かに構内に入ってきた。「アンカラ特急」といっても、日本のJRのそれほどは個性的でなく、牽引する機関車も左写真のように、ふつうの電気機関車であった。
 

一等寝台室内(上にもう一段ベッドがある)
(トイレは室外、各車両にひとつある)



 
 「寝台・アンカラ特急」の部屋はコンパートメント一等車で、快適といっても良かった。写真のように、決して広くもなく二段ベッドであるが、これをまったく一人で使えた。右の写真の白いキャビネットは小型冷蔵庫で、中にはチョコやクッキー、ジュースが入っていて、これらは無料だという。トイレは外だが、石けんがある水栓や鏡があって、わざわざ室外に出なくてもほとんど用が足せた。


 アンカラ駅を出発して数時間後の真夜中、廊下を車掌さんたちが肩を組んでふらふら歩いてきた。私は写真を撮るためたまたまドアを開けていたのだが、私のカメラを見て彼らは「写真を撮ってくれ」という身振りをした。そのとき、私は彼らが酒を飲んでいるらしいと思った。日本のJRの寝台車で、真夜中に車掌が酒を飲んでいたら、「大問題」になるだろう。せめて明朝まで無事でいてくれ!と祈った。



←サイト内リンク・トルコへの旅で出会った人たち

Day 8 イスタンブール市内観光−イスタンブール泊
 
 ガチャガチャという揺れが体を目覚めさせた。客室のブラインドを上げると、明るい景色(左写真)が飛び込んできた。時計を見ると、イスタンブールは近い。それにしてもよく眠った。ナイトキャップのウィスキーがよく効いたようだ。

 地図の感じでは、進行方向左手はマルマラ海、そしてその湾岸部らしい。こざっぱりした家々とその屋根の色が青い空海とよく合っている。トルコというよりヨーロッパの雰囲気だ。この電車はすでに各駅停車になっているらしく、郊外駅でいちいち停まっている。

←朝の光の中のイスタンブール近郊住宅地


 午前8時過ぎ、寝台列車「アンカラ・エキスプレス」は何事もなく*アジア側にあるイスタンブール・ハイダルパシャ駅に滑り込んだ。

(筆者後日注:トルコから帰国後しばらくして、同じ路線の寝台列車が脱線転覆し死者が多数出た−という報道がなされた。こういうニュ−スを見るたびに、やはり冷や汗がでる。)

 イスタンブールには多くの駅があるが、このハイダルパシャ駅は結構大きな駅で、かなり歩かないと外にはでられない。外は結構温度が高く、「真夏の暑さはいったいどうなのか?」と思わせた。駅裏にはバスが待機しており、早速イスタンブール市内観光が始まった。

←イスタンブール・ハイダルパシャ駅

 
 バスはボスポラス(ボスフォラス)海峡岸沿いに走る。やがてクズ塔(左写真)が見えてくる。これは海峡の中にある島に立つ小さな城塞で、近年まで灯台として使われていたという。現在はレストランになっている。

 海峡向こう側遠くには、これから向かうスルタン・アフメット地区が見える。丘上にはトプカピ宮殿、そして二つの大モスク(トルコ語でジャミー)がくっきり見えている。これらはどこからでも望めるこの町のランドマークである。その美しい外観に、観光客はどうしてもここに行きたくなってしまう。

←海峡の中にあるクズ塔


 左写真はユスキュダルの波止場である。ここからは海峡各地行きの小さな渡船やフェリーが発着している。ここは何気ない場所なのではあるが、実は日本人には以前から知られている。それは戦後流行った「ウシュクダラ」という地名が入った歌があった。そのころは結構ヒットし、ラジオからよく流れていた。中高年の方ならご存じであろう。

 歌といえば、私たちが乗った「日本人団体様御用達」のこのバスは、庄野真代の「飛んでイスタンブール」とこの「ウシュクダラ」を車内でずっと流していた。大サービスのつもりなのだろう。しかし不思議なことに、私の頭の中では、ずっと久保田早紀の「異邦人」が流れ続けていた。

←ユスキュダルの船着き場



遠くにかすむボスポラス大橋


 やがて遠くややかすんでボスポラス大橋が見えてきた。写真の橋の左側がヨーロッパで、右がアジアである。冷戦時代、旧「ソ連」の黒海艦隊はこの狭い海峡を通らなければ、地中海や大洋に出られなかった。しかし残念ながら、歴史的には「ソ連」・ロシアとトルコの中は大変悪かった。その場合は一帯に緊張が走ったに違いない。

 そういう経緯があるからだろうか、トルコは戦後いち早く「西側」に着き、NATO(北大西洋条約機構)に加盟し、アメリカ軍の基地敷設を認めた。さらにヨーロッパ諸国(EU)とも接近し、ドイツに多くの出稼ぎ労働者を送り込んできたイスラム圏では珍しい国なのである。

 あのサッカー・イルハン選手もドイツ生まれで、奥さんもドイツ人、現住所もドイツだ。インタビューもドイツ語でしていた。トルコを旅行すれば分かるが、ドイツ系企業の工場、鉱山も多く、ドイツ車も多数走っている。ホテルの部屋の説明書きもドイツ語が英語より先に出てくる。人的にも、資本的にも密接な両国関係が見えてくる。むかし第一次大戦では同盟国で、一緒に敗戦を経験している仲でもある。


 これはボスポラス大橋をアジア側からヨーロッパ側へ向かって渡っているところである。この海峡は橋が少ないため、フェリーが多いにもかかわらず、恒常的に交通渋滞する。特に朝夕はひどいらしい。

 アジア側がやや古い家並みが多いのに対して、ヨーロッパ側は近代的な町並みである。この国は「アジアの国」なのであるが、国の土地自体はヨーロッパとアジアが同居する「変な国」なのである。

 ヨーロッパ側を数時間車で走ると、ギリシャとの国境線に行き着く。歴史的には当然二つの国は「仲が悪い」。現代に至っても、キプロス問題で戦争までした。世界中どこを見ても、隣り合う国は「仲が悪い」か、日本と韓国・朝鮮のようにどちらかがどちらかを「侵略」する歴史を持つ。

←ボスポラス大橋をわたる(向こうがヨーロッパ側)



トトメス三世のオベリスク


 ボスポラス大橋から近代的な新市街地区を抜け、また橋を渡ると、歴史的建造物が密集する旧市街スルタン・アフメット地区に入る。大方の建造物は、突き出た半島の丘上に存在する。

 スルタン・アフメット・ジャミー近くでバスが停まった。ここはヒッポ・ドロームという。ここはローマ時代の大競技場跡である。ここであの往年の映画「ベン・ハー」のような戦車競争が行われていたのであろうか?

 ここからは歩いての見学である。すぐにオベリスクが見えてきた。高さは26mほどらしいるが、これでも元はもっと長くて折れてしまったのだという。エジプトのトトメス三世がカルナック神殿に建立したが、後のローマ帝国、テオドシウス帝の時、ここまで運ばれたという。

 日本人から見ると、エジプト・トルコ間はずいぶん遠いように思えるが、この両国もギリシャもそれぞれ「海一つ」である。それにしても、エジプトのオベリスクも世界のあちこちにある。有名なパリのコンコルド広場のオベリスクもエジプト製である。蛇足ながら、ロンドン大英博物館の「ロゼッタ・ストーン」もあのナポレオンの「エジプト遠征」で持ち帰った物だ。こうして見ると、エジプトは国家的財産の多くをいろんな国に「略奪」されたものである。植民地になった国は悲しい。



威容を誇るスルタン・アフメット・ジャミー


 そのオベリスクのそばに、スルタン・アフメット・ジャミー(通称ブルー・モスク)が端正かつ巨大な姿で鎮座している。1616年に作られた。日本ではこの年に徳川家康が「食あたり」?で亡くなった。世界のモスクに共通なことであるが、ドームそばにそびえる尖塔(ミナーレ・ミナレット)の数が多いほど、「格式高い」モスクなのだ。ここのミナーレは6本、これより多いのはサウディ・アラビアのモスクだけだという。田舎の小さなモスクでは一、二本のこともある。

 外国人だけが呼んでいる「ブルー・モスク」とは、内部の青みがかったタイルの色から来ている。実際に内部に入ると、造形の巧妙さと幾何学文様の美しいタイルに息を飲む。内部の写真は下のリンクから見ていただきたい。

 サイト内リンク:世界遺産・アヤソフィアとブルーモスク



トルコの至宝アヤ・ソフィア(現博物館)


 上の「ブルー・モスク」より世界中ではるかに知られているのが、アヤ・ソフィア(ギリシャ語:ハギア・ソフィア、英語:セント・ソフィア)である。その歴史は537年の東ローマ時代までさかのぼる。時の皇帝ユスティニアヌスの命を受け、6年かけて建立された。ビザンツ様式の大聖堂で、ビザンツ帝国が滅びるまで、ギリシャ正教*の大本山として栄えた栄光の大聖堂であった。

(*筆者注:キリスト教でカトリック、プロテスタントと並び、三大宗派のひとつ。さらにこれの分派にはロシア正教、アルメニア正教がある)

 1453年、コンスタンティノープル(別名:ビザンティン、現イスタンブール)が陥落すると、勝利者であるオスマン・トルコのスルタン・メフメット2世は、早速これをイスラムのジャミー(モスク)に改装させた。そしてキリスト・マリア像の壁モザイク画も漆喰で塗りつぶされた。

(注:1931年この絵が発見され、復元されて現在に至っている・・上記リンク参照)


 

 中に入ると、さすがに歴史的遺産だけあって、美しく魅力的な場所である。直線と曲線、そして色合いが混ざり合うすばらしい空間である。ツアーでなかったら、一日中でも見ていたい場所である。

 私は気を入れてある場所を探した。それは私が高校時代、何度も通った映画、「007/ロシアから愛をこめて」(旧題:007/危機一発)で登場した場所である。ジェームズ・ボンドがここで後頭部を殴られ気絶する−という場所である。しばらく歩き回ったあげく、やっと「ここの辺りらしい」と断定した。(左写真)

 こんなことは「よほどの映画フリーク」でなければ、「バカバカしくてやってられない」ことなのだが、あの時以来ずっと「実際に行って確かめたかった」場所なのであった。当時、それほどあの映画には「入れ込んでいた」。これでなにか「やっと肩の荷が下りた」ような気がした。

←アヤ・ソフィア内部の映画撮影の場所



トプカピ宮殿中庭にある入り口


 アヤ・ソフィアを出ると、大きな城壁・城門があり、それをくぐるとトプカピ宮殿である。映画に何度も登場したこの宮殿は、中世から現代にかけて中近東に君臨した大帝国、オスマン・トルコの支配者、歴代スルタンの居城であり、宮殿であった。

 入ってみれば分かるのだが、その面積は70万uといわれ、ちょっと歩いただけでは何も分からない、位置も分からない-という場所である。建物内部も豪華で、なかんずく財宝類は世界でもトップクラスといわれる。そういう場所であるから、観光客数ではトルコ一といわれるイスタンブールでも、さらに観光客が多い場所だ。

 折しも中庭には催し物の演台や椅子などが多数並べられていた。一週間もしないうちに、当地でNATOの会議が開かれるそうで、米大統領ブッシュも来るという。過激派のテロ対策のためか、敷地内に兵隊(MP=憲兵)がたくさんいた。それにしても、国教ではないにしても国民の圧倒的多数がイスラム教徒という国で、NATOの会議があるのがおもしろい。

 


トプカピ宮殿全景
(対岸はアジア側)
Post card:(C)Keskin color A.S.



トプカピ宮殿より望むボスポラス海峡と大橋(向こう側)


 トプカピ宮殿は海峡を見下ろす丘上の一等地にあるため、四方八方に視界が開けている。まことに東西南北交通の要衝である。タンカー・貨物船・フェリーなど海峡を行き交う船はすべて見える。遠くに霞みながらも大橋も見える。反転すると、対岸のアジア側は下から上まですべて見渡せる。歴史上この地を押さえた者が、近東一帯を押さえるのがよく分かる。

 敷地、建物のあまりの広さ、宝飾品の豪華さに疲れた観光客は、ここまで出てくるとホットして一息つくのである。そして決まってカメラを取り出し、海峡をバックに何枚も写真を撮る。

 6月だというのに気温は高く、空は青く紫外線は大変強いのであるが、塩分を含んだ海からの風はなぜか爽やかである。多くの人たちがベンチや階段に座り、遠くを見つめ、風に吹かれていた。本当にここは絵になるところである。

 後日談になるが、私が今回のツアーでもっとも残念だったのは、国立考古学博物館へ行けなかったことである。そこはトプカピ宮殿のすぐ近くにあり、実際にトプカピ宮殿で若干の自由時間があったにもかかわらずである。そこにはあの「アレキサンダー大王の石棺」がある。実際のところはまだ彼の物とは断定できてはいないらしいが、棺側のレリーフに「マケドニアとペルシャの戦闘場面」が描かれているためらしい。

 私は少年時代、「アレクサンダー大王の東征」の話を読んで、想像を広げていた。「ヘレニズム-ガンダーラ-シルクロード」という言葉に惹かれていた。にもかかわらず、出発前はバタバタしていて、案内書を詳しく読んでいなかった。帰国後に再度読み直していて気が付いた。それにツアーの場合は「連れて行ってもらう」ため、個人旅行のように事前調べが細かくないこともある。またこういう場所は、私個人なら絶対行く所なのである。返す返すも悔やまれてならない。

 



1500年以上も前から作られた「地下宮殿」(地下貯水池)


 「地下宮殿」はアヤ・ソフィア傍の地下にある。実際のところ、これは地下宮殿ではなく、簡単にいえば「地下貯水池」である。現地語では「地下に沈んだ」という意味だそうで、4〜6世紀の東ローマ帝国時代に作られた物だという。ここは水道橋から引き込まれた水が貯められて、この都市の水瓶になっていた長い歴史がある。

 階段を下って下りてゆくと、次第に温度が下がってゆくのが体感できる。湿気は多いがひんやり涼しい。ここを支える大理石の柱がおもしろい。一本一本がすべて形、太さ、時代が違う。各地の遺跡から運ばれたという。

 他の国でも、前の時代の遺跡や滅ぼした国の材料を使って作り直した例は多い。日本でも城壁に墓石を使ったり、滅ぼした城の石を積み重ねている例がよくある。また大阪城は秀吉時代の城跡の上に、徳川時代の大阪城を築城したという。遺跡をいちばん壊しているのは、次の時代の支配者、為政者なのかもしれない。
   
 サイト内リンク:文明と歴史の十字路イスタンブール





観光客が多い「グランド・バザール」入り口付近
 客引きが変な日本語で声をかけてくる


内部リンク:グラン・バザールの内部写真

 
 左写真は有名な「グランド・バザール」入り口付近である。ここは地下宮殿からは少し距離があるが、徒歩で行ける距離である。トルコ語ではカパル・チャルシュといい、「屋根付き市場」という意味らしい。ここの歴史はオスマン帝国「征服王」メフメットが作らせた商館に始まるといわれ、中東では最大規模だという。面積は30ha、店舗数は約3500軒といわれる迷路のような大商店街だ。モスクもひとつ設置されている。余談だが、19c半ばまで奴隷の売買が行われていたと、案内書は言う。

 門をくぐって入ってゆくと、店の前や大きな門付近にいる客引き何人もが「コンニチワ、ナニイリマスカ?バッグ、ヤスイヨ!」と変なアクセントの日本語で声をかけてくる。よほどここに来る日本人観光客が多いのだろう。世界中で日本人は「良い客」なのである。金は持っているし、よく買ってくれるし、金払いもいい。

 ここには、貴金属から始まって皿、象眼、スパイス、オリーヴ漬け、刺繍、絨毯、それに特産の皮革製品も数多い。どうやらここも始めは値段を高めに言ってくるらしい。あとは客の交渉力で決まる。この手の店では交渉の最後になってくると、客に「ではあなたはいくらならこの品物に払うことができるか?」と訊き返してきたりする。日本人はこういうのは苦手な人が多い。結局私自身は何も買わなかった。




スィルケシ駅のプラットフォーム


 グランド・バザール見学は時間が掛かったが、集合時間までもう少しだけ時間があったので、同行のOさんと一緒に露天カフェでお茶をすることになった。

 路上を見ていると、靴磨き道具一式を持った小学生くらいの男子が、制服、私服の警官に小突かれていて、道具を持って行かれそうになった。少年は「止めてくれ!帰る!」などと言いながら(と思う)、何とか道具を持って路地に消えていった。無許可営業なのか、未成年だからかはよく分からなかった。日本にも戦後すぐの頃には、生活のためにこういう少年たちがたくさんいたものだ。

 すでに薄暗くなりかけた本日最後の見学は、スィルケシ駅である。すでに書いたように、イスタンブールはアジア側とヨーロッパ側に分かれている。私たちが乗った寝台車は、首都アンカラからイスタンブール・ハイダルパシャ駅までであった。つまり、アジア側を旅行してきたのである。



駅外壁にある「オリエント急行」記念プレート


 ところがこのスィルケシ駅は、ヨーロッパ側の始発・終着駅である。だから、ハイダルパシャ駅まできた客は、海峡を渡ってこの駅までこなければならない。なぜなら、ここからギリシャや東ヨーロッパ諸国に行く列車が発車するのだ。

 あの有名な推理小説・映画の「オリエント急行殺人事件」や既出の「007/ロシアから愛をこめて」では、ここから列車が発車した。その「オリエント急行」の記念プレートが駅の外壁にあった。(左写真)

 「ロシアから愛・・」では、ジェームズ・ボンドはロシアの美人スパイ、タチアナ・ロマノヴァと暗号解読器を持って、駅のホームを走って列車に飛び乗る。それを追いかけてきた犯罪組織「スペクター」の殺し屋は、列車内のコンパートメントでボンドと格闘となる。その結果・・・・。

 あの中で出てきた駅がこの駅なのだが、想像していたよりずいぶん小さかった。まるで田舎の駅並みだ。それは上の写真でお分かりになろう。私は少しがっかりしたが、アヤ・ソフィアと並んで、映画のロケ現場に行けたのでまあ満足していた。

 なお、映画に出てきたような完全な「オリエント急行」の列車は、現在では存在しない。イタリア国内路線を観光客だけを乗せて、同名の豪華列車が走っているだけである。「完全版オリエント急行」が復活したら、ぜひとも乗ってみたいものだ。

Day 9 イスタンブール−タシュケント(乗り継ぎ)−



イスタンブール空港のウズベキスタン機
(エアバス310)


 帰るだけの一日である。だから朝は少しいつもよりゆとりがあった。ホテル出発はこの旅最遅の9:45、一階ロビーで待つことにした。ここのホテルは観光客よりもビジネスマンが多い。
 アタチュルク国際空港は旧市街から20kmほど西にある。高速道路に乗ると快適にアクセスできるが、市内観光のない日は何となくつまらない。またこの空港も近代的ではあるが、特に特徴もないのであまり印象もない。

 チェックインしてしまうと残りは2時間弱、一階ロビーにある土産物店で、絵はがき、観光説明本などを買い、所持金をほとんど使い切った。なにしろこの国の金は、発展途上国の金と同じく、国外では「タダの紙切れ」になってしまうのだ。再訪の可能性がない場合は、使ってしまうに限る。

      



ウズベキスタン航空のアテンダント

今回会ったアテンダントの中ではいちばん美人で
なおかつ微笑みを絶やさず、サービス態度ももこなれていた



 ウズベキスタン航空HY272便、タシュケント行きは定刻よりわずか2分の遅れでテイクオフした。黒海、カフカス山脈、アムダリア川などを見ながら中央アジアの乾燥大平原上を飛ぶ。そして4時間10分後の17:10にタシュケント空港に着陸した。

 往路と同じく、またあの古めかしいトランジット・ビルに運ばれたが、今回は人間が少なかった。それでも出発までに2時間あったので、冷房空調もなく、小さなキオスクくらいしかない場所では、時間をつぶすのが大変であった。買い物や食事・喫茶などの楽しみがない空港は、最悪である。

 やがて搭乗案内のコールがなされたが、チェックインの際の係員の態度、機器類の古めかしさや旧式なチェックイン・システムは、まだまだ先進国から観光客を誘致するレヴェルではなかった。

 元「社会主義」の国で、「社会資本」の整備が遅れているのも皮肉だが、役人や空港担当者の非能率さやサービス業の概念のない地上職員など、ヨーロッパ諸国のそれと比べると、4、50年くらい遅れているような気がした。これらは「社会主義」の残滓であり、弊害である。本当に「人間の育成」は、一朝一夕ではどうにもならない。

 21:15、東京成田行きHY527便出発

 
Day 10 帰国/シベリア、北京、ソウル上空-成田AP−関西AP 


紀伊半島上空のウズベキスタン機


 途中、夜中に乱気流があり少し揺れたが、騒ぐほどではなかった。スクリーン上には到着予定時間、機体速度、外気温や飛行コースが表示されるが、興味深いのは奇妙な飛行コースだった。シベリア上空から北京上空は当然としても、そこからいきなり南下して黄海上空を下り、それから急に真東に向かい、ソウル上空を通過、それから成田に向かった。まとめて簡単に言うと、北朝鮮上空を避けて大回りをしたのだ。なるほど管制もできないし、何よりテポドン・ミサイルが飛んでくると困るわけである。

 思い出せば25年前、新婚旅行でヨーロッパに行った頃は、当時あった「ソ連のおかげ」で、シベリア上空は飛行禁止であった。そのため、ヨーロッパへは「南回りルート」を別とすれば、北回りはかならずアラスカ・アンカレッジ空港に立ち寄っていた。この遠回りのために、20時間近く掛かっていた。南コースはさらに時間がかかり、評判は悪かった。それが「ソ連」の崩壊とともに、モスクワ上空を飛べるようになったので、今では12〜14時間くらいで行くことができる。時の流れを感じさせる。早く「北朝鮮」も民主化されて、国際社会に入ってほしいものだ。

 到着2時間ほど前になると、朝食が出た。機は本州上空を横断して、成田空港に朝9時過ぎに着陸した。ふつうのゲートではなく、機体は空港端に留められてバスに乗せられた。これもまた国際便としては日本ではやや珍しい。いったんトランジット待合室に入れられ、また同じ飛行機に乗せられた。

 

 この機体は、タシュケント、東京成田、大阪関西を一回りしながら飛んでいるのである。さらに、その後トルコに飛んだのも同じ機体だった。ウズベキスタン航空は保有機体数が少ないのか、フルに回転させ飛ばしているようだ。よく見ると、タイヤも非常にすり減っていて、不安になる。

 今回のツアーがなぜこういうマイナー航空会社を使うかというと、一言で「極端に安い」からである。添乗員に尋ねると、同じツアーをスター・アライアンス加盟のトルコ航空で組むと、「10万円近く高くなる」そうである。要するに不平を言ってはいけないのだ。そういうことが不安なら、お金を出せばすむことである。世の中ほとんどの事は、お金で片が付く。

 10時半前成田発、11時40分大阪関西到着。この間ジュース一杯出ただけだった。これは日本の国内線と一緒だ。こうして今回の「楽しい旅」が終わった。機内食もなく、昼時でもあったので、早速空港のレストランに入って、ビールと豚カツ定食で旅の無事を祝った。

←関西空港に着陸した瞬間のウズベキスタン機
 向こうは空港と大阪「りんくうタウン」をつなぐ橋





オスマン・トルコ帝国
の基礎を作った
征服王メフメット2世









スルタン・アフメット広場とブルーモスク
19cの版画









トプカピ宮殿・ハレム・スルタン大広間

                  
                  おわりに

 このたびの「トルコの旅」はすでに述べたように、旅行会社の「ツアー」参加であったが、今まで行きたかった場所が結構網羅されていた。それは「東ローマ帝国の首都、コンスタンティノープルの聖ソフィア寺院」であり、「トロイ戦争とシュリーマンのトロイ」であり、「奇岩奇景のカッパドキア」であった。

 トルコ語もアラビア語もできない筆者が、ハップニングもなくこれだけの物を見られたし、またすでにご覧になったように、写真もたくさん撮ることができた。(デジタルカメラ2台で約600枚)また格安ツアーなのに、ホテルは3ツ星〜5ツ星とまず満足できる範囲であった。個人で行くとなると、とてもこんなホテルには泊まれない。ガイドのシナンさんもインテリで、歴史、地理、民族、生活、政情、軍隊など多岐に渡って説明してくれたし、質問にも気安く答えてくれた。

 ただ仕方がないことであるが、筆者の大好きな博物館、美術館などが少なく、訪れた所も見学時間が少なかったし、自由時間もわずかだった。もう一つは、参加者は筆者より年輩者が多く、それらの方々が、ほとんど喫煙されるというやや苦痛が伴う状態になった。

 さて、この旅は国内移動が一夜の寝台列車を除き、すべてバスによるものであった。一日に100km〜400kmを走っていたので、決して楽な旅ではなかった。しかしそのために、飛行機、列車よりよく景色や人々の生活が垣間見えた。ツアーなので、個人旅のような現地の人との会話・交流はほとんどなかったが、雄大な自然と人々ののどかな生活、田舎の方々の暖かそうな視線、そしてイスラム国なのに女性が顔を隠さず、その明るく開放的な暮らし方を見ることができた。

 閑話休題、トルコはケマル・アタチュルク以来、国の近代化、民主化につとめ、顔を西欧に向けてきた。ドイツに多数の出稼ぎという労働力を供給してきた。その集大成が、念願の「EU加盟」であった。しかし、何度もEUからこれを拒否された。最近では国民の間に、「無理にヨーロッパにならなくても良いではないか」と言う風潮が、拡大してきているという。

 ここ数年の世界の情勢は、「キリスト世界とイスラム世界の対立・抗争」となってきている。これは11世紀のあの「十字軍」の再現のようでもある。しかしその裏に「南北問題:先進国と発展途上国間の貧富の格差」であり、石油資源の問題、さらにユダヤとアラブの対立が複雑に絡まり合っている。

 トルコはアジアの一員であり、紛れもないアジア人国家であるが、位置的にはヨーロッパとアジアにまたがり、経済的にもヨーロッパとのつながりが深い。だからこそ、トルコの古い長い歴史や文化的特性を捨ててまで、「ヨーロッパ」になるのではなく、アジアとヨーロッパの架け橋を目指し、またNATOの一員で親アメリカ国家ではあるが、国民の圧倒的多数がモスレムの特性を生かして、両サイドの対立の仲介・仲裁に努めるような生き方はできないであろうか?

 また経済的に問題があると言うが、豊富な歴史的遺物という特性を生かして、さらに観光設備・社会資本を充実し、やや評判の悪い一部観光業者、小売業者に強力に指導をして、ギリシャをしのぐ「観光立国」を目指すのも立派な生き方である。以上述べた二点がこの国の長い歴史と地理的環境に合致すると思えてならない。
                                 (おわり)


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参考・引用・転載の文献・サイト・写真・資料など
地球の歩き方:E03 2004-2005
イスタンブールとトルコの大地
ダイアモンド・ビッグ社
イスタンブール・文明の発祥地
(日本語版)
Rehber Basim Yayin Dagitim RekLamcilik ve Tic.A.S.,
Istanbul, Turkey
綜合地歴新地図 世界・日本 三訂版 帝国書院
Keskin Postcards Keskin Color A.S., Istanbul, Turkey
トルコ政府観光局公式サイト http://home.turkey.or.jp/
イスタンブール市公式サイト http://www.istanbul.com/
阪急交通社トラピックスサイト http://www.hankyu-travel.com/kansai/index.html
ユネスコ日本公式サイト http://www.unesco.or.jp/


トルコ早回りの旅
(C)2004 All Rights Reserved
by
Kenji Kakehi
Completed in Aug.28, 2004