日本・世界の古戦場
Battle Fields in Japan and the World
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関ヶ原の戦い
徳川家康の東軍と石田三成の西軍が激突した日本史に残る天下分け目の大戦 (岐阜県関ヶ原町)



関ヶ原古戦場 決戦地に立つ石田三成と徳川家康の旗



石田三成陣地跡



石田三成陣地側からみた関ヶ原 画面中央左山稜に家康陣地が見える



石田三成配下の嶋左近陣跡





桶狭間の戦い
織田信長今川義元が戦った戦国時代重要転機点 (愛知県名古屋市、豊明市)



織田信長と今川義元像





義元がが戦死したと伝えられる古戦場公園にある今川義元墓碑(慰霊碑) 墓所は愛知県豊川市、西尾市などに数カ所、静岡市に一カ所ある



三方原の戦い
徳川家康武田信玄と戦った戦国時代の有名な戦い (静岡県浜松市)



浜松市三方原墓園隅にある三方原古戦場の碑 三方原は家康が大敗した戦で家康は恐怖のあまり「雲古」を漏らしたといわれている



 





三方原犀崖 今も残る古戦場址 家康軍の急襲で武田軍を追い落とした場所 当時は急峻な崖だったという



長篠(設楽原)の戦い
織田信長・徳川家康武田勝頼と戦った戦国時代の重要な戦い (愛知県新城市設楽原)




馬防柵(復元)







日本百名城 長篠城祉 長篠城攻防戦は設楽原の戦い前の戦い



佐和山城の戦い
慶長五年関ヶ原で石田三成を破った徳川家康は小早川秀秋らに佐和山城を攻めさせ城は落城した (滋賀県彦根市)



治部少(三成)に過ぎたものが二つある 嶋左近に佐和山の城といわれた名城であったらしい



ハイキングコースを上がると佐和山城本丸跡がある すべて取り壊され何も残っていない 言われなければ城跡というのさえ分からない
城の石垣などほとんどは彦根城へ運ばれたという 「徳川の執念」が感じられる




龍潭寺 山門奥脇にある佐和山城主・石田三成像



小牧・長久手の戦い
織田信長が本能寺の変で倒れたあと、徳川家康と羽柴(のちの豊臣)秀吉が覇権争いで戦った「小牧・長久手の戦い」 (愛知県長久手市)



家康軍と秀吉軍の激戦地も今は平和な公園となっている 写真外左下に資料館(長久手郷土資料室)がある


長久手合戦の発端(長久手郷土資料室掲示資料・部分)






小牧山城(愛知県小牧市)
小牧合戦の際、家康が陣城とした城 原型は織田信長が創った 写真の城は歴史的考証のない現代の模擬城で歴史館となっている



川中島の戦い
有名な甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が何度も戦った場所のひとつ・八幡原 (長野県長野市)



川中島古戦場・八幡社境内にある武田信玄と上杉謙信像










壇ノ浦の戦い(源平の戦い)
有名な源氏と平氏の最後の戦い 此処で幼い安徳天皇が入水し平氏が滅亡する 傍らに安徳天皇陵がある赤間神宮がある (山口県下関市)



源平合戦最後の地 壇ノ浦古戦場址 八艘飛びの源義経(左)と平知盛(右) 現みもすそ川公園 奥は関門橋






壇ノ浦の海際にある赤間神宮 戦いの末、入水した安徳天皇の墓陵が左にある



安徳天皇陵



安徳天皇像 天皇の母は平清盛娘の徳子(のちの建礼門院)


藤戸の戦い(源平の戦い)
瀬戸内海の藤戸海峡を挟み対峙した源氏と平氏の戦い 源氏の将佐々木盛綱は味方を勝利に導いた (岡山県倉敷市藤戸町)



盛綱橋にある源平合戦藤戸の戦いの佐々木盛綱像



石造五重塔(鎌倉時代) 
源平合戦供養塔 高野山真言宗・藤戸寺






源平古跡 





屋島の戦い(源平の戦い)
源義経、那須与一が活躍した瀬戸内海の屋島、壇ノ浦の戦い (香川県高松市)



屋島山頂横から望む五剣山(八栗寺・左上)と源平古合戦場(壇ノ浦・中央下)



屋島は世に知られる源平合戦・「屋島の戦い」の舞台



屋島合戦説明地図



山中城の戦い(小田原攻め)
秀吉の「小田原攻め」で圧倒的な秀吉軍に半日で落城した小田原北条氏の支城 (静岡県三島市)



北条氏と秀吉の関係が悪くなると改修を始めたが、戦闘に間に合わず「小田原攻め」をむかえた 城兵四千に対し豊臣軍四万のため、わずか半日で落城した



秀吉の関係が悪くなると北条氏(後)は改修を始めたが、戦闘に間に合わず「小田原攻め」をむかえた そのためわずか半日で落城した




上記山中城はこの北条氏・小田原城の出城(支城)である この城も秀吉軍の包囲の末開城する



原城の戦い(島原・天草の乱)
「島原・天草の乱」で天草四郎ら切支丹・農民らが立てこもり、幕府側と長い戦闘後全滅した城 世界遺産 (長崎県南島原市)



原城石垣上から海を見つめる像たち 彼らは何を思うのだろうか



原城本丸にある天草四郎像(北村西望作) 墓が写真外右方にある



天草四郎墓 他所から移葬されたもの





月山富田(がっさんとだ)城の戦い
国史跡・日本五大山城・百名城・尼子氏居城 尼子氏vs毛利氏 (島根県安来市)



尼子氏は下剋上で戦国大名になったが最後は城に立てこもり毛利氏に滅ぼされた





富田城想像復元図 (山中御殿跡掲示の図)


備中高松城の水攻め
秀吉水攻めされ自刃した毛利方武将・清水宗治の城 (岡山県岡山市)



本丸跡は周辺より僅かしか高くない まさに低湿地に浮かぶ城であっただろう 時は梅雨の時期といい水攻めの条件が揃っていたという


清水

宗治自刃の地にある塚 本来は自刃は堰止め湖の船上であった 宗治は自身の自刃と引き替えに将兵の助命を望んだ



本丸跡にある清水宗治首塚



高松城址公園近隣の民有地内の清水宗治・胴塚



わずかに残る現存する築堤跡の蛙ヶ鼻



蛙ヶ鼻築堤跡にある説明板の地図(岡山市教委)
赤線が堤防、中央水色が堰き止めで出現した人工湖 高松城はその中にある
上図には羽柴秀吉の他、羽柴秀長、黒田官兵衛、浮田秀家、加藤清正、吉川元春らの陣が見える
名が見える



備中常山城の戦い
毛利・小早川隆景に攻められた上野肥前守隆徳の城 女軍が敵と戦い散華した天正三年の戦い(岡山県玉野市/岡山市)



「常山合戦」で戦死・自刃した女軍の供養墓(北二の丸)





城主上野隆徳が切腹したといわれる「腹切岩」



小谷(おだに)城の戦い
元亀・天正の争乱で織田信長に攻められた淺井(あざい)長政の城は落城し淺井氏は滅亡した (滋賀県長浜市)



小谷城の最高地点(495m)・城の詰曲輪・山王丸跡



桜馬場跡と「浅井氏及家臣供養塔」(左)



淺井長政が自刃した最期の地 赤尾屋敷跡







上田城の戦い(上田合戦)
日本百名城 真田氏が徳川方に抵抗し守り抜いた城 しかし関ヶ原戦後徳川方に徹底的に破壊される
上田城跡公園・(長野県上田市)



南櫓と東虎口櫓門 関ヶ原後破壊されたこの城はのちの仙石氏によって復興された






南櫓、東虎口櫓門と北櫓



明治期以後もたった一つ生き残った隅櫓(西櫓)



本丸にある真田神社 「落ちなかった」城なので受験生に人気があるという神社



禁門の変(蛤御門の変)の戦い
1864年 長州藩と松平容保に指揮された旧幕府軍が京都で衝突 長州軍は敗戦、「朝敵」となり「長州征伐」が行われる
のち「
薩長同盟」が結ばれたり政情は大きく揺れ動いた 当時の門が残り現在も弾痕が残る 
(京都市・京都御苑)



現在の蛤御門 現在の門は明治の移築で当時の門は30m東に南に向いていたという(烏丸通り)



五稜郭の戦い
幕臣榎本武揚に指揮された旧幕府軍は当時の蝦夷地(北海道)に逃れ「蝦夷共和国」を樹立した
戊辰戦争(1869)で五稜郭を本拠に新政府軍交戦したが敗北し、ここに幕藩体制は終決した 
(北海道函館市)



日本でも珍しい西洋式築城の五稜郭 幕末に北辺警備のため江戸幕府が築城し1864年に完成





五稜郭外堀



五稜郭の戦闘を指揮し戦死した旧幕府方の土方歳三



徳川幕府海軍軍艦「開陽」に積まれていた「30ポンド短カノン砲」(江差沖海底より引き揚げ)の実物大復元模型(五稜郭タワー)


< 外 国 >

ワーテルローの戦い
プロシア・イギリスなど「連合国軍」がナポレオン軍に勝利した場所 勝利の記念碑「ライオン像の丘」



人工の「ライオン像の丘」



ライオン像のある頂上から望む戦場 向こうがナポレオン軍の陣地

この戦いに敗北したナポレオンは大西洋のセント・ヘレナ島に流され人生を終える




トロイ(トロイア)戦争
トロイアに対してミュケーナイを中心とするアカイア人の遠征軍が行った戦争 (ギリシャ神話に記述)
しかし史実とは異なると指摘されている




伝説の「トロイの木馬」を復元したもの



シュリーマンの発掘で知られるトロイ遺跡 現地では彼の発掘方法が考古学のやり方に反すると指摘されている



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