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ハンガリーのブダペスト東駅は国内東部への起点だけでなく、東ヨーロッパ諸国への窓口でもある 
国際列車の発着も非常に多い 因みに左側の赤の列車はOBBOEBB(オーストリア国鉄)のウィーン行である


<はじめに> 
前置きが長いのが嫌いな人はDAY1に飛んでください
 
 最初にお断りをしておく。今回の旅はタイトル通り、まさに「ふらっと」出掛けたのである。それというのも、急に決まった話で、まったく計画になかったものだ。前回の旅(南米・アンデススキー)が終わってまだ一ヶ月余で、そのHPも八割方完成したばかりであり、頭の中に「また出る」-そういう考えはなかった。ところが、いつも配信されている格安旅行のWAS社の定期メールに「大阪支店開設記念企画・ヨーロッパ5.3万」というのがあった。これでも今までからいうと、「超格安!」というわけではない。しかしあの「9.11」以来、航空券は全体的には高めに推移している。このサイトにもある「ウィーンの墓」を見に行った時は、3.8万という私の購入最低価格の券を使った物だった。

 メールにあったこの航空券は、「オーストリア航空(OS)・ヨーロッパ内・マイレージ付」であった。ということは、<日本からウィーンへ飛び、乗り換えて他の好きな国・場所に行ける>ということである。そしてOSでマイレージが付くということは、私が今集めている<「スター・アライアンス」のポイントが貯まる>ということだ。私は毎年、それでもって「無料(ただ)航空券で北海道でスキーをする」のである。これはおいしい話だ。同じページに「マイレージなし4.7万」もあったが、私は高くても「有り」の方がよい。つまり、マイレージで乗るANA国内線は15000搭乗マイルが必要なのだが、それでも「自腹を切って北海道へ飛ぶ」方が高くつく計算になる。

 行くことが決まると、次は行く先である。そうだ!イタリアだ!もうかれこれ20年も前にイタリアのフィレンツェ、ピサ、シエナなどに行ったことがあるが、あの頃はこういうHPもデジカメもなかった。だから、写真も「記念写真」しか残ってなかった。このHP用に「ちゃんとした写真」を撮りに行こう。特にフィレンツェはチャーミングな町だ。そうなると、空港はローマかミラノだ。こうしてW社にメールすると、「帰りの便が取れません」という。だいたい格安券は直前にどっと出てくる物だ。すぐに完売することもある。時間が余りない。そこで今回はイタリアはギヴアップ。

 セカンド・チョイスはハンガリー。今までウィーンには何度も行きながら、となりのハンガリーには行けてなかった。列車も船もあるのに、しかも近いのになぜか行っていない。ハンガリーはご存じの方もあろうが、歴史で有名なハプスブルグ家「オーストリー・ハンガリー帝国」の一部だった国、そして私の好きなクラシックの音楽家を多く輩出した国、そしてワインのおいしい国でアジア系マジャール人の国でもある。

 
                        ブダペスト・王宮の丘から望む夕陽のあたるドナウ川と国会議事堂(左)

 W社の担当からメールで「ブダペストはだいたい取れますが、ご指定の日は満席で取れません。もう少し短い日程なら可能です。」こうして旅程を短縮して全9日間とした。ただここで問題があった。OSはウィーンとの間に東京・成田と大阪・関西の2路線を持っているが、関西路線は冬季は11月から春まで休便(休止)で東京路線だけが残る。そうなると、10月末に出る関西方面人は「関空出発成田帰着」になるという。ただ、マイレージの関係で東京=大阪間は国内便がタダ、成田-羽田間は専用無料連絡バスが出るという。しかもその間もマイレージが発行される。これでも「時間のたっぷりあるオジさん」にとっては何の障害もないのだ。

 こうして予約できたのが一週間前。さっそく翌日送られてきた請求書で銀行から送金した。(注:私はネットで送金したり、クレジット番号を送るのは安全対策から絶対しない主義である)その後で大阪までの長距離バスを予約し、本屋に行き「地球の歩き方・ハンガリー編」を購入した。急なことなので、まったく下調べも準備もしていなかったのだ。その夜は、ネットでいつも使うH社のサイトを見てホテルをしらべ、翌日岡山支店で予約し金を支払った。(注:本来ならネットで予約、支払いは銀行であるが、そこのホテルは例外的に支店でないと予約できなかった)こうして出発までの慌ただしい日々が始まった。

 今回の大阪関西(KIX)発のオーストリア航空OS56便は11:35発になっている。私は岡山在住なので、朝出るとしても国際線のチェックインである2時間前に関空にいるのは厳しい。そこで前泊をすることにした。大阪の町中のナンバ近くである。ナンバはOCATがあるので、空港まではリムジーンバス一本である。しかも空港までは1時間とはかからない。朝飯もゆっくり食べられる。こうして私は前日には大阪に出没していた。

ハンガリーの世界遺産(ハンガリ−政府観光局・日本語)

    









 


DAY 1 関西国際空港からブダペストへ




関西国際空港(KIX)を飛び立って大阪湾を旋回中のウィーン行オーストリア航空機(写真下中央は当時建設中の神戸空港)

 今回の出発の朝はすべてが予定通りである。難波OCAT発関西空港行きリムジーンバスは予約はきかないが、お盆・年末年始でなければ、少し早めに行けばゆうゆう乗ることができる。高速道路もガラガラで、予定より早めに関空に着いた。

 さっそく関空のカードラウンジ比叡に行く。「VISA・ゴールド」を作ってからは、いつもこのパターンだ。何より荷物を持ってウロウロしないですむ。それにコーヒーなど飲み物は飲み放題、カード自体に5000万の旅行保険も付随しているので安心である。備え付けの新聞・週刊誌に目を通す。ただしCPの設備等は大阪・伊丹APの方がはるかに充実している。
 こうして順調に機内の人になることができた。11:35発の機体はもちろんエアバスA340である。オーストリア航空(OS)はシンガポール航空(SQ)などのように派手な機内設備・サーヴィスがない代わり、必要十分な控えめサーヴィスでストレスはたまらない。離陸後飲み物がきたが、私は迷わず「オタックリンク」ビール(上写真)と赤ワインを頼んだ。オタックリンクはウィーン郊外の町の名で、地下鉄の終点のひとつである。しかし赤ワインはエコノミー・クラスでよく出るテーブルワインで決して旨くはない。その後の食事(左写真)はまあまあで、何の不足もない。
最近の傾向で、どこのエアラインも食事のヴァラエティーや野菜を増やすなど工夫をしているようだ。運動量は限りなくゼロに近いのだから、もっと「量より質」を重視した方がいい。

 食事後はお決まりの映画上映、そしてブラインドを下ろしての「休憩タイム」である。例によってアルコールの影響で眠っていたが、ふと目覚めて外を覗くとそこはシベリア上空、一面雪の世界であった。十月末だから、日本では当然雪はない。しかしここは流石シベリアである。持ってきた本を読むのも億劫なので、またもワインを頼んで飲み始めた。気圧が低いせいか、回りがはやい。
 少しばかり微睡んだら、外は雲海になっていた。機はロシアのモスクワ近辺まで来ていた。いつもシベリア上空では少しはガタガタと揺れるのであるが、どうやらそれもなかったようだ。

 ヨーロッパまでは大体12〜14時間くらいかかるが、私たちが初めてヨーロッパに行った1980年頃はまだ「東西冷戦」時代で、ロシア(当時の「ソ連」)の上空は飛行禁止であった。だから資本主義国のすべての航空機はいったんアラスカに着陸、給油をしてから、ヨーロッパに向かっていた。飛行時間は20〜24時間くらいはかかっていたのだ。良い時代になった。
 軽食の後しばらくして機の高度が落ち始めた。おそらくポーランド南部上空であろう。山がちである。取り立てて乱気流もなく平穏だった。こうして関空をでてから12時間10分後の15:40に、ウィーン・シュヴェヒャート空港に軽やかに着陸した。この空港は何度も来ているので、様子がよく分かっている。
 オーストリアはヨーロッパの小国なので、客もトランジット(乗り換え)客が多い。観光客の多い夏ならいざ知らず、特に晩秋から初春にかけてはウィーン自体も観光客が極端に少なくなる。
 
 さて、私が向かったのは、隣国のポーランド、チェコ、ハンガリーなどに向かうゲートである。日本人も多々見かけられたが、ツアーなのかほとんどはチェコとハンガリー行きであった。ここで小一時間待った。乗り換え時間が1時間以内ということは、前のフライトで何かアクシデントがあったら次に乗れないと言うことだったが、まあ今回は問題もなく良かった。
 前回チェコ、ポーランドに行った時も、同様にウィーン乗り継ぎだったが、やはりOS系列のチロリアン航空であった。機体も写真のような小型プロペラ機、ダッシュ8-400型である。客はゲートからではなく、空港内をバスに揺られて運ばれる。この機はひと言で言うと、短距離国内線用の機体で、横4列の狭い機内のうえ前後席のピッチも狭い。さらに座席も幅が狭くクッションも悪い。
 いつもなら「キャリーオン」で機内に持ち込む小型リュックでさえ係員に「預けなさい!」と預かりタッグを付けられ、搭乗直前に「取り上げられた。」仕方がないので、壊れやすいカメラ類は取り出して首から提げて機内に持ち込んだ。まあ5人で乗り合わせたタクシーの車内といえば、分かりやすいだろう。タキシングするときのプロペラ音も決して静かではない。
 管制塔からしばらく待たされた後、OS721便は16:55プロペラを最大角にしエンジンを全開にして滑走路をひた走った。軽い機であるから、通常のジェット機の半分の時間で、まるで牛若丸のようにひらりと舞い上がった。

 晩秋の夕5時は日本より緯度が高いウィーンでは、かなり薄暗くなる。しばらくすると、下の景色は闇に包まれ、左写真の様になる。地平線に沈む太陽と夕焼けが美しい。宵の明星もはっきりと目に入る。
 実搭乗時間35分のこの路線は「国際線」とはいえ、いっさい「国際線のサーヴィス」は受けられない。分かりやすく言うと、日本の国内線と同じと言ったらよい。飲み物だけである。さらに悪いことには、客室乗務員のサーヴィスがANAなどよりはるかに悪い。経験上まあ始めから期待していないから、腹は全然立たないが・・・。

 機体が降下を始めると突然外のライトが点灯され、左写真のようにエンジン部分が照明された。そのむこうに見えるのはブダペストの町で、あのドナウ川もかすかに判別できる。こうして17:30何事もなく静かに暗い滑走路に着陸した。 


:ブダペスト国際空港公式サイト
 
 ブダペスト空港はやはり中央ヨーロッパの小国の空港らしくこじんまりとしている。羽田や新千歳の方がずっとスケールはでかいし、客も多い。 
 
ユーロなどと違ってここの通貨フォリントはこの国に来て初めて手に入る。(注:時間があればウィーンの空港両替でも入手可能)さっそく両替で、EURO・T/C100を23000+フォリントと交換する。こういう国では一度にたくさんの両替は望ましくない。国外では「ただの紙切れ」のような紙幣でなのある。(なぜ「ユーロ」でないかについては後述する)


 両替後、旅行案内書にあるように、一階にある「ミニバス」のカウンターに行き、場所とホテル名を言う。英語は十分通じる。これは次々と客を最寄りから降ろしていく一種の「乗り合いバス」だが、これが一番安い移動手段のようだ。タクシーは約2倍以上である。料金は2300F均一で、日本円1200円ほどだ。

 ここで、二人連れの中年日本婦人と話すことがあった。どうやら彼女たちは「個人旅行」、しかも「旅のリピーター」らしい。短い会話ではあったが、旅が大好きでかなりあちこちの国に行っている様子が汲み取れた。



GRAND HOTEL HUNGARIA

表示は☆☆☆☆
実力は☆☆☆






HIS/Hotel search and booking

 

 自動車道をけっこう飛ばし、40分ほどで日本で予約していたペスト地区のホテルに着いた。ベストウェスターン系の古いが小綺麗なしっかりしたホテルである。それに西駅のほぼ前というのが便利である。今回の旅に西駅は大事な仕事をしてくれることになっている。

 出来た時はそこそこ立派だったと思われる部屋で荷物を開けた後、外に出た。私お決まりの「探検」である。マクドナルドなど外資系テークアウトもあった。しかし結局はホテル一階のレストランでハンガリー風ディッシュを頼んだ。

 此処の客は外国人団体客か結構小金を持ってそうな(中流風)個人客が多い。とは言っても、私は日本のHIS社で一泊アメリカン朝食付き、5000円で予約したので、日本のホテルよりはかなり安い金しか払っていない。チェックインの時にヴァウチャーを渡しただけで、後は何も要らない。

 左上のホテル・リンクを見ていただければ分かるが、公式HPのレート欄には「low-season-single」の料金はEURO$80とある。これを日本円にすると、約10400円(2005/12初旬のレート)になる。ということは、日本で日本の代理店で日本円で払うのがいちばん安い(半値)!ということなのだ。

 それとは別に、いつも思うのだが、観光地や都会の日本のホテルは高い。(因みに私はいつもシティホテル派である)


    
















DAY 2 墓参りとブダの丘へ+大変だ!なくなった


「じいちゃんいたよ!」



これだけ食べてもまだ「お代わり」してしまった「お馬鹿」な私







 
 泊まった「グランド・ホテル・ハンガリア」は建物の設備は4ツ星の割にはやや落ちるのだが、朝食の「アメリカン・スタイル(ビュッフェ)」は大満足である。自分の好きなものをいくらでも食べられるし、野菜もフルーツも山盛りである。旅行中、常に食費をケチる筆者などは、こういうのが一日の大事なエネルギー源になるのである。

 同じヨーロッパでもイギリスの「イングリッシュ・ブレックファスト」はカリカリのベーコンエッグが美味しいし、ミルクの濃いイングリッシュティーも病みつきになる。これにフルーツやヨーグルト、シリアルもついている。これもまあ満足だ。

 しかしパリなどの「コンティネンタル」タイプはいただけない。パンとコーヒーとジャムくらいだ。もちろんコーヒーはつくが、まあ「無いよりはマシ」という程度。最悪である。朝食の満足度順位は、1位アメリカン、2位イングリッシュ、最下位がヨーロッパ大陸(コンチネンタル)という感じだ。それにしても食った!食った!(下品ですみません)



建物がすてきなブダペスト東駅



 
 ブダペスト(ハンガリー語ではブダペシュト)は西ヨーロッパの二大大河の一つドナウ川が町の中心を貫流し、それを境に丘陵部のブダ地区、下町をペスト(ペシュト)地区の二つの部分から成る。江戸流に言うと、ブダが「山の手」、ペストは「下町」になる。

 そのペスト地区の郊外寄りに東駅がある。ここはハンガリーの東部や東ヨーロッパ諸国とを結ぶ列車が発着する。その駅が見えるところに、我がホテルがある。歩いて数分である。ロケーションは良い。

 食後、身支度をして東駅まで歩いた。駅外側の地下階(左写真下部・露天部分)にあるチケット売り場で、「3日パス」を購入する。(2700F=約1400円)かるく市内観光するのには、最適の券である。もちろん市内電車、バス、地下鉄が乗り放題の優れ物である。



南駅から乗り継いで、墓地へのNo59電車
 
 さて、観光初日の目当ては墓地である。サイト内の他のページを見ていただければ分かるが、私は「墓大好き人間」である。まあ「マニア」と言って良い。といっても墓場を掘ったり、荒らしたりはしないし、他人を墓場に送るようなこともしない。

 簡単に言うと、「有名人の墓参り」である。そういうと急にミーハー的になるが、主として「音楽家と歴史上の人物」のが目当てである。墓地というのは、郊外のファルカシュレート墓地のことである。

   参考:ウィーンの音楽家の墓を訪ねて
        音楽家の史蹟を訪ねて

 クラシック・ファンでない方には、スペースを取って申し訳ないけれど、この国はヨーロッパ有数の「音楽国」で、リスト、コダーイを始めとする作曲家、ユージン・オーマンディー、アンタール・ドラティー他の多くの名指揮者、リリー・クラウス、アンドラーシュ・シフなどのピアニスト、シゲティ他のヴァイオリスト、ヤーノシュ・シュタルケルなどチェリストなどなどを輩出し、他に映画「ベン・ハー」などの音楽を手がけたミクロス・ローザ(ロージャ・ミクローシュ)など枚挙にいとまがない。日本の音楽教育もこの国の影響を受けている。

 


ファルカシュレート墓地正門






 
 さて乗車券は手に入ったが、墓地への行き方が分からない。最近はHPにも優れ物が多くて、アメリカに「墓を探せ!(英語)」という素晴らしい「墓探しサイト」がある。あらかじめ、有名音楽人がいるのはこの墓地と名前だけは分かっていた。

 愛用の「地球の歩き方・ハンガリー編」の地図には、かろうじて場所は載っている。しかし地下鉄はなく、バス、電車の路線図もない。地元の方に訊いても、誰も行き方を知らない。身内はきっと別の墓地なのだろう。

 結局バスの運転手に訊いてまず南駅へ行き、そこから訊きながら間違えながら、やっと正しい電車に乗ることが出来た。その間に何人もの方々に教えていただいた。英語が通じにくい国は、なかなか大変である。

 やっと、これと思われる59番電車に乗ったが、下りる電停名が定かではない。電車内の中年婦人が親切に教えてくれた。この国の人たちは概して親切である。こういうことから、いつも私はその国が好きになってゆく。

 後で考えると、まず最初に「市内電車、バスの路線図」を手に入れておけば良かったのである。たびたび海外に出る割には抜けていることが多いのもご愛嬌である。



 
 
 結局、電車を3回乗り換えてファルカシュレート墓地正門前に降り立った。思いの外、人出は多く、逆に市中心部では閑散としていたのが不思議だった。門の回りには花屋、ロウソク屋などが並んでいて、賑わっていた。

 後で調べると、明日は「万聖節(正式には諸聖人の日」なのであった。キリスト教の「すべての聖人の日」だそうで、祝日である。日本の彼岸のようなもので、墓参りするところもよく似ている。他のキリスト教国でも同様らしい。

ファルカシュレート墓地の指揮者ショルティの墓前で

 
 
 この墓地はかなり広いらしく、なおかつ高低差があるので、ほとんどの墓は斜面にある。道も坂道ばかりで、木々も大変多いので全体は見渡せない。小さな子ども連れの若夫婦やゆっくりした足取りの老夫婦、それに夫に先立たれたらしい老女が、思い思いに美しい花束を手にそれぞれの墓に向かっている。カラフルな花々が多いのは、日本とはやや異なる。だから墓場が華やかな感じになる。

 此処ではカトリックが多いのか、静かで敬虔な雰囲気を持っている。大きな声は聞こえないし、子どもも小さな声で話す。とっくに日本の「墓参り人」が失った空気である。

(写真を見るのがが早いです。下をクリックして雰囲気を感じてください)

          ハンガリーの墓地

 
 墓石のデザインが面白くて見ながら歩いていると、面白い名前に出会った。「キス(キッシュ?)・ヤーノシュ」とある。ハンガリーはヨーロッパでは珍しいアジア系マジャール人の国である。だからか、名字が先に来る。従ってこれは「ヤーノシュ・キス氏」の墓である。ヨーロッパでは日本のような代々墓よりも夫婦墓が多い。

 彼が仮にイギリスなど外国に行ったら「ミスター・キス!」とか呼ばれるのだろうか?そうすると、回りの人たちはきっと一斉に彼を見るだろう。考えただけで何か可笑しい。それにしてもすてきな名前だ。

 
 何時間もかけて音楽家の墓を探し回っていたので、気がつくと昼が来てしまっていた。同じ路線の電車で南駅に戻る。地下階にある大衆レストラン(夜はバーになる)に入る。時間を外したので、客は他に居ない。怠そうな若い娘が出てきた。

 昨夜のホテルの夕食は高かったので、どこでもあるような安い酒のつまみ風の物を食べた。だから今回はハンガリー料理で有名な「グヤーシュ」を注文してみた。ここ特有のパプリカが入って少し辛目だが、特に旨い!というほどではない。しかし具も多く味も私に合う感じだ。

 
 食後、ブダの城壁に向かって歩いた。南駅は王宮・城壁のある丘のふもとにあり、公園を横切ると城壁に辿り着く。公園は紅葉した木が茂り、落ち葉は茶系のモザイク画を描いている。ひと気もゴミもない。

 静かな公園内の散歩の小径を一台の車がゆっくりゆっくりやってくる。怪訝に思ってよく見ると、パトカーであった。何か安心な気分になった。一人旅のせいか、私は外国に出ると常に緊張しているが、こういう一瞬は正直ホッとする。



旧東独の「名(迷)車」トラバント

 
 城壁にある人気のない階段を上がっていると、道路に出会う。そのレベルにも住宅は建っているが、そこに今は無い旧「東ドイツ」の「傑作車」トラバントが止まっていた。車が好きな方はご存じであろうが、これは「大変な車」である。

 「社会主義時代」の大衆車らしく、外板は「段ボール製!」とよくいわれるが正確にはプラスティック、エンジンは600ccで何と2サイクル!、煙をモウモウとあげ、坂道をエンヤラコと走る。今のドイツでは「排気ガス基準」に不適合で走れないはずだが、どっこい東欧で生きていた。他にも旧「ソ連」の四駆・ラダ・ニーヴァも堂々と走っている。クラシック・カー・ファンは東欧諸国で「捜し物」があるかもしれない。


ウィーン門
 歩いて城壁の中段まで上がり回り込むと、ウィーン門に出る。ここに18世紀の城門があったが、現在の物は再建である。

 王宮や聖堂レベルの正規の入り口である。バスもここを通って中に入る。

  ブダの王宮と城郭

ウィーン門右脇のレリーフ
オスマン・トルコとの戦闘を描いた物らしい



閉館中の音楽史博物館







 
 ウィーン門を入り、左手を進むと音楽史博物館がある。この国最高の音楽家、フランツ・リスト、バルトークなどの時代の展示品が集まっている。ここも私の目当ての一つだ。

 しかし工事用柵があったり、人気が全くないのは不思議である。入り口に来てやっと訳が分かった。下写真のように「閉館中」なのである。改装中なのだろうか?理由も開館予定も書かれていない不親切さである。

 この小さなお知らせの紙切れ一枚には、たくさんの書き込み(落書き)がしてあった。曰く「私はパリから来た どうしてくれる?」「アメリカから来た 早く開けろ」など・・。わたしも「日本からはるばる来た 残念!」と書こうかと思ったが、品がないので止めた。


 ブダの丘の最初の訪問でガッカリしたまま歩いて行くと、道の突き当たりにゴシックの大聖堂が見えてきた。この城郭部のシンボル、マーチャーシュ教会である。丘の上に聳え立つので、ブダペストのどこからでも見える。

 「拝観料」を払って中に入ると、いい雰囲気である。ステンドグラスも聖壇も美しく重厚で手が込んでいる。詳しくは下の写真を見ていただきたい。

           ハンガリーの大聖堂

 マーチャーシュ教会の外には「漁夫の砦」があり、そこがドナウとブダペストを望む最高のポイントになっている。観光客の写真を撮るのが多い場所だ。


 その砦の内部にあるのが、聖イシュトヴァーンの騎馬像(写真)である。このハンガリー建国の父(初代の王)と言われる。彼はこの国にキリスト教ももたらした。それが頭に「聖」がつく理由である。

 ブダペストは「ドナウの真珠」と呼ばれるが、なるほどブダの丘から見る川のある景色は、確かに美しい。どこでも水のある風景は素晴らしいことが多い。心が和むのだ。

           ドナウ川とくさり橋

 気がついたら、数十枚の写真をあっという間に撮っていた。しかしこの頃には辺りが暗くなりかけていた。写真も撮りにくい。それというのも、あの墓地で時間を取りすぎたからである。王宮の方を見学する時間は残されていなかった。

 幸いなことに、明日もう一日市内観光の時間を取ってある。それでもやはり時間が足りない。しかしこの町に時間をかけすぎると、地方都市に行けなくなる。

 
 写真を撮りながら石畳を歩いていて気がついた。王宮脇の城壁横の石製ベンチに大きな青銅像が座っている。前に回って判明した。「あっ!コダーイだ」作曲家の彼が散歩の途中ふと座った−という感じの設定なのであろうか?

 嬉しくて、通りがかりの人に頼んで写真を撮ってもらった。並んで座ると、座高は同じくらいなのに、脚の長さが決定的に違う。悔しいなあ!まあ海外ではよくあることなのだが・・。

 
 少し様子の分かり始めた地下鉄でホテルに帰ることにした。なぜ地下鉄は分かりやすいかというと、たった3路線しかないのである。東京のことを考えると、一国の首都で3路線とはいかにも素朴である。

 ここのプラットホームに向かうエスカレーターは、急勾配でしかもかなり底が深い。レトロなM1(一号線)を除けば、たぶんM2もM3も「東西冷戦時代」の物だろうから、当時は防空壕を兼ねていたのかもしれない。左の写真でもその様子が見て取れる。

 私事だが、私は最近国内外を問わず、階段がある時はエレヴェーターやエスカレーターを意識的に使わないことにしている。健康のためである。さっそく左の階段を10kg近いデイバッグを担いで早足で上がったら、さすがに息が切れた。写真のように、使っている人は誰もいない。




 
 東駅まで帰ってきて、界隈の路地裏の大衆レストランに入ってみた。何とメニューがハンガリー語である。外国人観光客も来ない場末の店には、英語のメニューなどは要らない。英語で訊いても、片言の英語しか帰ってこない。諦めて、適当に指さして地ビールと共に注文したら、左の皿が出てきた。大きな皿に牛肉とジャガイモが、「これでどうだ!」とばかりに盛り上げてある。

 私は「しまった!」と思った。日本で「狂牛病」騒ぎが起こってからかなり経つが、それ以来牛肉は食べていなかった。しかし金も惜しいので、「まあ一回だけ」と「清水の舞台から飛び降りる気持ち」で食べることにした。「日本のジャンボ宝くじよりもっと当たらないゾ」と自分に言い聞かせていた。まあまあの味だった。辛口肉がビールに合うのだ。

???

!!!
 
 ホテルに帰り部屋に入ると、いきなり睡魔がおそってきた。日本を出てから睡眠不足で、しかも知らない町で一日中歩き回り、空きっ腹にビールが効いてきたのである。ベッドに転がるやいなや、落ち込むような深い眠りについた。

 どのくらい眠っていたのであろうか、真夜中に目が覚めた。意識がだんだん戻ってくる。「そうだ!今日の買い物やデータを書いておこう」と旅行用の小さな手帳を探した。「ん?ん?ない!」「ここもない!」「あれ?あれ!ない」探してもどこにもないのである。

 そういえば、今日行ったあの墓場で、必死になって写真を撮りまくっていた時、手に持っていた書類などを一時的に墓の生け垣においたような気がする。その瞬間注意力が完全に墓に向いていた。あの時、置き忘れたのだろうか?

 あれにはパスポート番号の他に、クレジットカードの番号や有効期限、住所、T/Cの記録その他、個人情報が書き込んである。特にクレジット・カードの一連のデータで、CPで買い物が出来る。悪い奴が知ったらマズイ!「これはヤバイ!」と思ったら、頭が真っ白になった。そして眠気が完全に吹き飛んだ。

 慌ててはいたが、少し考えて日本のカード会社に電話することにした。電話番号はいつも持っている。ところがこういう時に限って、部屋の電話が繋がらない。そこでトールフリーを止めて、有料国際電話で試したら、日本のオペレーターがやっと出てきた。こうして訳を伝え、カードを止めてもらった。一応安心したが、逆にここからはカード類が一切使えない。キャッシュを倹約して使うしかなかった。




   















DAY 3 ブダペスト旧市内・世界遺産のアンドラーシ通りと美術館


ブダの丘をバックにルーズヴェルト公園で語らう恋人たち




朝のブダペスト東駅前




 昨夜の「騒動?」のため睡眠不足の赤い目をこすりながら、朝食のため地上階*のレストランに下りる。まだ始まったばかりで、ほとんど誰もいない。「見渡す限りの食べ物が自分の物!」のようで嬉しい。ボーとしていたけれど、それでもどんどんお代わりをして、昼食を浮かせようとしている自分が浅ましい。

 部屋に帰りデイバッグを担ぐと、足早に東駅に向かった。バス乗り場を探した。地図を見ると、メトロで乗り継ぎで大回りするより、バスは一本でさらに近い。乗り場は駅の横手にあった。運転手に尋ねると、何とか意味が通じたようで、「このバスで行ける、公園の通りに入ったら4つ目で降りる」ということらしかった。彼は決して愛想は良くないが、親切な感じだ。
 
(注*地上階・グラウンドフロアー:概ねヨーロッパで「一階」は日本の二階のこと)



ブダペスト西洋美術館






 
 バスは駅裏の露地や通りを左折、右折しながら客を拾いながら進む。やがて緑の多い市民公園に並行する大通りに入った。右手に博物館風の建物が見えてきて、「これかな?」と思った時バスが停まった。 運転手を見ると、こちらを向いて首を振っている。「Thank you !」といいながら下車し、左側へ歩き出した。

 ところが、後ろでバスのクラクションが鳴った。振り返ると、運転手だけでなく乗客全員がこちらを見ている。そしてみんなが反対の方向を頭や指で指し示した。私は反対の裏方に歩いていたのだ。「こっち?」と指さすと、窓の顔全部が「うんうん」と頷いた。手を挙げて合図をすると、バスは発車し去って行った。窓の客はみんな微笑んでいた。

 私は歩きながらしばらくほのぼのとしていた。世界のあちこち旅行したが、ここまで暖かい乗客は見たことがない。この瞬間、私はこの国が大好きになった。この国は小国で「大金持ちの国」ではないかもしれないが、人々の温かい心と「民度」の高さがすてきである。そういう気持ちのまま西洋美術館に入っていった。

 

エントランスのマリア・テレジア像は意外に若い 
ふつうは中年時代の物が多いが、やはり若い方がカワイイ!
ウィーンの美術史博物館前の像もかなり中年である

 
 
 美術館は外装が工事中らしく、脚組が組まれ保護網が被せてあった。それでも全館が公開中らしく何ら制限はなかった。質素な外観と比べて、内部の雰囲気ははるかに良い。なにより歴史が感じられる。流石に近代ヨーロッパを支配したハプスブルグ家のコレクションが中心だけのことはある。それでもウィーンの美術史博物館は全ての面でさらに凄いのだが・・。

 日本でもっとも有名な上野の西洋美術館はフランスの有名建築家ル・コルビュジエが設計した物だが、所蔵品の量はともかく、建物の外観・内部だけなら岡山の大原美術館の方が雰囲気がよい。

 西洋の美術館は、大英博物館もルーブルもメトロポリタンもおおむね左写真のように落ち着いた雰囲気があって、置いてある絵画・彫刻類もなんだか素敵に見えるのは、私だけなのだろうか?なぜか日本の美術館は「近代的」な建物が多い。もう「コンクリートの打ちっ放し」は最悪だ。
    
  参考:私たちが行った海外の美術館のリンク


 

 
 流石に当美術館の公式サイトが「スペイン本国以外では、ルーブル、エルミタージュに並ぶ・・」というようにスペイン画家のコレクションは充実している。
 
 ただ無理な話だが、プラド美術館のコレクションには全く歯が立ってはいない。それでも、私の好きなエル・グレコ(本名:ドメニコス・テオトコプーロス)のそれはまあまあ集められている。

 その他には、なぜかゴーギャンがあったし、地下階にはエジプト、ギリシャ関係展示がかなり揃っていた。この美術館はひと言で言うと、中欧の美術館では優れ物といえる。

 



英雄広場警護の兵士たち


アンドラーシ通りの文化遺産とメトロ1号線

ハンガリーの歴史

 
 西洋美術館のすぐ前は、大きく広い「英雄広場」である。反対側には現代美術館がある。こういうバランスの良い都市設計は日本では見られない。強いて上げると、上野の森が近い感じである。

 さて、ハンガリーの世界遺産はいくつかあるが、このブダペストでは下のようである。
ドナウ河岸・ブダ城地区とアンドラーシ通りを含むブダペスト - (1987年、文化遺産)
 このうちのアンドラーシ通りを含む一帯の突き当たりが、この英雄広場になるだろうか。写真正面の騎馬軍団は、建国の父とでも言うのだろうか。1000年以上も前、マジャール族の首長アールバードと7人の部族長がこの平原を征服してハンガリーの母体が出来たという。

 ここはハンガリー人の心、アイデンティティーを示す場所なのだろうか。ここを日本で例えるのは難しいのだが、強いて言えば、奈良県橿原神宮の神武天皇陵か靖国神社の大村益次郎像前にでも当たるのだろうか。いや少し違う。もっと一般的で庶民的な感じである。遊びに来た子どもたちが走り回る中、二人の衛兵が身じろぎもせず銃を持って警護していた。




天井は低いが色合いが素敵で、なぜか落ち着くもっとも古い地下鉄一号線の駅{間に線路がある}




陶器製地下鉄駅名プレート:コダーイ・ケレンド



陶器製地下鉄駅名プレート:オペラ


 英雄広場のある市民公園からドナウ川に向かって走るのが、由緒あるアンドラーシ通りである。比較的古い建物と鬱蒼とした街路樹が続き、いかにも「文化遺産指定」という雰囲気である。もちろんゴミはない。

 この通りはまた真下を地下鉄1号線(U1)が通っているが、それがレトロでオシャレなのである。(上写真)天井も低く、柱はペンキを塗った鉄製、駅名のプレートや壁は左のように陶器製で何十枚も何千枚も張り合わせてある。

 こう書くと、「古く汚い臭い駅」のように聞こえるが、実は正反対である。駅名プレートをもピカピカ、ホームの床もピカピカ、ゴミ一つない。電車も古いが、清潔さが保たれている。タバコの吸い殻一つない。その代わり、小さなキオスクひとつない。

 如何にこの町の人たちが、これを愛し、大切にしているかがよく分かる。日本の大都市の地下鉄はもっと速いし、駅も大きく近代的であるが、もっと汚くせわしない。風情もない。ニューヨークのそれは落書きと小便の香りで満ちていた。このM1に乗ると私は郷愁さえ感じるのである。忘れられないメトロなのだ。

 
 メトロ「Vorosmarty Utca」駅で降り外に出ると、目前に「リスト・フェレンツ博物館」のどっしりした建物が建っている。外壁にはリストと何故かコダーイのレリーフ板が貼ってある。コダーイの家は少し離れているのだが・・。

 入り口に回ってドア脇の掲示を見ると、何と「休日休館」である。「万世節」なのであった。キリスト教では大切な日である、ずっとむかし、スペイン・プラドの「エル・グレコの家」に行った時も、新年で休館だった。おっちょこちょいな私には、この手の話が多い。

 日を変えて来ることにして、地下鉄で二駅先の「Opera」に向かった。
 
←リストの横顔レリーフ





 
 ハンガリー音楽の中心、ブダペスト国立歌劇場である。ハンガリーは隣国オーストリアにならぶ「音楽の国」である。オーストリアに「支配」された「オーストリア・ハンガリー帝国」は歴史でよく登場する。この国を代表するリストをはじめ、戦前から現在にかけて海外で活躍した音楽家(特に指揮者、ピアニスト、ヴァイオリニスト)は多い。またこの国の「音楽教育メトード」は我が日本にも大いに影響を与えた。
  
ハンガリー出身の主な作曲家・音楽家

 ここから奥に何ブロックか歩くと、有名なリスト音楽院がある。あの有名なリストはこの国では「大御所」あつかいである。劇場正面左に劇場創設者で国家作曲者のエルケル、右手にリスト像がどしっと鎮座している。ここには内部ツアーがあったが、時間が合わなかった。

 
 歌劇場からライン川方向に少し歩いたところに、聖イシュトヴァーン大聖堂がある。「イシュトヴァーン」という名は男子の名前で、この国では大変多い名前だが、初代の王の名前だという。因みに同じ名前が他の国では、「スティーヴン、ステファン、エステヴァン」などと呼ばれる。

 高さ96mのこのドームは、正式にはバジリカといわれる。1905年に50年かかって完成した。内部は豪華荘重で、かなり迫力があり一見の価値がある。ハンガリーを「ただのアジア系騎馬民族の国」から「キリスト教を国教とするヨーロッパの国」にしたイシュトヴァーンは、後に聖人に列せられ内部に祭られる像となっている。

 
 大聖堂から歩いてラインにかかる橋中もっとも有名で美しい、くさり橋(正式名:セーチェニのくさり橋)に向かう。ハンガリー観光の本やポスターでこの橋が出ないことは、絶対にないくらいよく知られている。

 まだ11月に入ったばかりだが、この国ではすでに秋はたけなわ、様々な色の落ち葉がモザイクが美しいルーズベルト公園では、恋人たちが語らっている。羨ましいシーンである。

 そこからはくさり橋は目と鼻の先。ライオン像を横目で見ながら、王宮のあるブダの丘(写真向こう側)めざして橋を渡る。こうしてみると、やはりラインは大きい。流れは穏やかである。河岸には、観光船が係留されている。こういう船で少しゆくと、ウィーンだ。

 
 橋を渡るとすぐに、花の咲き乱れるきれいなクラーク・アーダム広場があり、さらに王宮の丘(ブダの丘)へ上がる短いケーブルカー乗り場と、左手に階段がある。 その前のちょっとした広場には、手作りパンを売る屋台や土産物の露店が並ぶ。

 少し自信はあったのだが、階段を一気に上がると少し息が切れた。王宮のある場所は丘の最上部で、まことに景観の素晴らしいスポットであった。町全体が見渡せる。呼吸が落ち着くのを待ちながら、素敵な景色に見とれていた。

 「もしもし〜」何か耳が変だ。気のせいか日本語が遠くから聞こえてきたような気がした。振り返ると、何と何と!あの空港にいた中年日本人女性たちではないか!やはり少し息が切れている。

 宮から見たライン川とくさり橋



 ブダの王宮と城郭

 「わあ奇遇ですねえ!どうして分かったんですかあぁ?」「どうも見たような人がいるなあと話していたんですよ。それで声をかけてみたんです」

 私たちは確かに空港で少し話はしたが、まだ名前も行程も泊まっている宿もお互いに知らなかった。今日の予定も行き先も何も知らなかった。広いブダペストでバッタリ会うとは・・。この後景色を見ながら、話が弾んだのは当然であった。

 丘の上で黄昏れるまで話をしてから、私たちは別れた。もちろんメアド交換をしたのは言うまでもない。日本人であろうが、外国人であろうが、旅先で出会う人たちとの会話が、私の旅の喜びのひとつとなっている。


(後日注:帰国後もメール交換をしているが、あれからこのコンビはまだまだ世界旅行を続けているという)

 
 バスで南駅まで下って、そこから地下鉄に乗った。ホテルのある東駅まで帰って、駅のプラットホームに向かった。明日は列車で東部にあるハンガリーワインの大産地、トカイに向かう。乗るホームを確認し、発車時刻を確かめた。地上に出ると、すでに外光はなく街の明かりだけになっていた。

ハンガリー国鉄(日本語)
ハンガリー国鉄MAV(公式サイト・ハンガリー語)


   







DAY 4 列車で貴腐ワインの町・トカイTokaj



ラーコーツィ通り(奥突き当たりがブダペスト東駅)







 
 朝食後、チェックアウト前に近くの銀行を探しにラーコーツィ通りを下る。ホテルの両替はレートが悪いので、場所を聞いて向かったが、そのBudapest Bankは見あたらなかった。

 何人かに訊きながら探そうとしたが、誰も英語をしゃべらなかった。何人目かの老年に近い婦人は流暢な英語を話した。「私が連れて行ってあげましょう」

 歩きながら話した。「英語が上手ですね」というと、「私は30年アメリカに住んでいました」という。「この国を脱出して住んでいました」「ソ連の弾圧ですか?」「そうです。1956年です」

 ハンガリー動乱といえば、当時日本でも新聞に大きく扱われ、小学生だった私でも知っていた。いまだにこの国の人々の中には、「社会主義時代の苦い思い出と体験」が生きているのだ。

 その辺の話を少し聞かせてくれた彼女は、銀行に連れて行ってくれたが、時間が早く閉まっていた。「駅へ帰る」というわたしを地下鉄まで連れて行ってくれた。「いろいろありがとう、長生きしてくださいね」と言って別れた。

 


ブダペスト東駅構内

いわゆる「終着駅」でここが車両止め


 
 ホテルへ戻ると、荷物を持ってロビーに下り、チェックアウトをした。さすがに「昨夜の騒動」のせいで、国際電話代だけで4000Ft(2400円位)近くかかっていた。海外でめったに国際電話しない私としては大きな出費である。

 駅地下の個人経営らしい両替屋のレートを見てから、プラットホーム脇にあるK&H Bankに入った。ガードマンもいて、しっかりした感じである。
 
 T/C100ユーロ=24372Ft(コミッション1%)
 当日の交換レート一覧

 駅構内にあるのなら、朝わざわざ銀行を探して歩き回ることもなかった。しかしこれも経験・・というのも、国によって場所によって、レートが違う。昨日ブダペスト空港内で換えたら、ここより1000FT近く安かった。空港がいつも安いとは限らないのだ。

 
 
 地下の切符売り場に行って、トカイではなくミシュコルツ行きを買う。時刻掲示板の読み方がよく分からず、「とりあえず手前の大きな都市まで行ったら何とかなるわ」と考えた。すぐに連絡がなくても、そこで観光すればよいだけの話。

 10:00発ミシュコルツ行き
  2550Ft(乗車券2030+IC520)

 まだ時間はかなりあるし、この感じだと並ぶ必要もないだろう。例によって「構内探検」を始めた。写真は赤色のOBBオーストリア国鉄:ウィーン行きである。この駅からはモスクワ行きも出ているし、東欧諸国も簡単に行ける。







 
 ブダペスト東駅発は定刻数分遅れで出発。車両はコンパートメントではなく、日本と同じタイプだ。学生もたくさん乗っていて混んではいたが、座る席はたくさんあった。

 やがて初老の夫婦がやってきて、通路を挟んで反対側に座った。私は彼らに話しかけた。「すみません。私はミシュコルツ行きの切符を持っているんですが、この列車はトカイまで行きますか?」「ああ行きますよ。私たちはもっと先まで行きますから・・。」

 彼らはかなり分かりやすい英語を話した。東欧の人たちは少し訛った英語をしゃべる。そう言う私もたぶん日本訛りの英語であろう。特に奥さんの方は、インテリぽい論理的な話し方をした。

 これで安心した私は時間つぶしにもなると話を始めた。ご主人は旅行代理店経営、奥さんはホスピスの看護婦であった。

  車内での夫婦との話

 私たちが話をしていると、通路を挟んで反対側にいた三十前くらいの女性が声をかけてきた。夫婦にハンガリー語で何か訊いている。




車窓から見える景色・・「プスタ」とよばれる大平原




 
 その女性はこちらに向き直って、「ハイ」と言いながら手を差し出した。「私はマリア、さっきから聞いていました。」と言った。私も自己紹介した。彼女の英語は先ほどの夫婦よりさらにきれいで、文法的にもしっかりしていた。「これはインテリだな」と思えた。

 彼女は「ブダペスト大学、経済学部を出て、現在はブダペストのツーリスト・ビューローで働いている」と言った。

 話してみると、話好きで頭の回転がはやい。打てば響く感じである。たちまち話が進みだした。

 →マリアさんとの話



トカイ駅・・プラットホームで別れたくない恋人たち

 
 13:40、トカイ着、駅で「乗り越し」の精算をして出口を出た。何と駅前は何もない!店も人家もなく、バス停があるだけだった。素敵な田舎である。私は好きだ。

 案内書には「村まで歩ける」とあるが、20kg以上ある重いバックパックを担いで、知らない村を歩きたくなかった。何十分に一本というバスに乗ると、客は誰もいなかった。

 バスは大通りに出ると左折し川沿いに少し走っていたと思ったら、村中の道に入っていった。世界に知られた貴腐ワインを生産する村にしては質素である。




二つの川が合流する水郷のようなトカイの町 ワイナリーは山側にある

ンガリーワインの郷を訪ねて




「とびこみの宿というより小屋の宿」

 
 ほんとにどこにでもあるような田舎のバス停で降りると、家があるだけで案内板も何もない。見当つけて奥に入ると、鄙びた飲み屋があった。「Hotel」と小さく書いてあった。

 覗くと、飲み屋の主人と村のオッサンと野良が済んだばかりのような青年がビールを飲んでいた。入り口の字をさして「Hotel」というと、主人は電話をかけた。数分で迎えがきた。やはりただのオッサンである。

 値段を聞くと、「食事なしで3000Ft」と言った。日本円で1800円くらいだ。「安いから良いか」と思ってついて行ったのが、左の家(小屋)であった。すごい民宿だ。一目見て驚いたが、一泊だったのでそれに決めた。

 
 荷物を置いて、カメラをもって教会がある広場に出た。コシュート広場である。人影もまばらで、通り過ぎるのは土地の人たちである。「貴腐ワインの大産地」とはいえ、オフ・シーズンである。

 それにしても、日本の勝沼や北海道の池田町だったらもっと客がいるような気がする。もっとも私個人はこちらの方が好きなのだが・・。

 そうこうしていると、腹の虫が鳴き出した。無理もない。かれこれ3時だ。何か食べなくては・・。そばの小洒落たレストランに入った。案の定、客はいなかった。

旅の思い出!「漁師のスープ」



忘れられない味!ハラースレー・スープ










 
 暇そうなギャルソンがメニューを持って何故か愛想良くやってきた。英語は片言だが、何となく通じる。けっこういい値段だ。当然、当地産の「貴腐ワイン:トカイ・アスー☆☆☆☆☆☆をグラスで注文する。これを飲みにはるばる来たのだ。これより高い最高級は、エッセンシアしかない。

 カゴに入ったパンがたくさんあったので、後はスープだけにした。折角だからハンガリー風「ハラースレー」スープを注文した。ところが、これが失敗だった!。

 パンをムシャムシャ食べていると、少し遅れてスープがきた。ハンガリー料理は辛いパプリカが多く使われる。これが唐辛子の感じだ。しかし一口口に入れると、少し傷んだような生臭い魚のかおりが口の中に広がっていった。思わず「オエー」とムカついてきた。危うく吐くところだったが、ガマンして飲み込んだ。

 中身はナマズだろう。もともと川魚は臭いので嫌いだ。二口目を口元にもってきて止めた。もう金の問題ではない。「金を上げる!」といわれてもイヤ、金だけもらう。

 旅行をしていて食べ物は楽しみのひとつだが、私が食べられなかった物があと二つある。(ほんとはもっとあろうが)とりあえず思い出した物は、ドイツの「血のソーセージ」、これは動物の生き血を飲む感じで生臭い。琵琶湖の「鮒寿司」、これは今回のに近い。どちらも「オエー「とくる「逸品」だ。

 これらも「好きな人にはたまらなく好き」なのだろうが・・。これからいうと、「くさやの干物」なんぞ十両クラス、かわいいものだ。これで料金は1860Ft (=1110円)。

 



地下ケラーに置かれたワイン樽


 
 食事のあとは、広場から坂道を上がって、たまたま開いていた小さなワインケラー:「ヒメス・ウドヴァル」に入った。ここも客は誰もいない開店休業状態である。

 オーナー夫人らしい中年女性が明るく迎えてくれた。英語が通じる。「ケラーを見たい」というと、先になって地下へ降りていった。

 暗くて湿気の多い、重い空気が漂っていた。樽詰めも瓶詰めもあった。ただ小さなワイナリーなので、貯蔵量は多くない。




 
 上がると、「テイスティングできますが、しますか?」とマダムが訊くので、お願いした。写真のいちばん左がアスー☆☆☆☆☆☆で、右に行くほど格が下がる。チーズ付である。

 飲み比べると違いは歴然!右から飲んでいった方がよく分かる。このアスーは遅積みの房に貴腐菌という黴菌が付いて甘みが凝縮する。それから作ったワインはリキュールのように甘い。値段も高いし、テーブルワインのように量を飲むワインではない。

 
 
 こういう貴腐ワインは他にフランスのソーテルヌ、ドイツのトロッケン・ベーレン・アオスレーゼがあるが、トカイは歴史が古い。類似で、菌は付かないが同じように甘くなるのが、ドイツに多い採り入れ前に凍結させたブドウから作るアイスヴァインである。これらは全て値段は高い。

 アスーを堪能した私は、記念にアスー☆☆☆☆☆☆を二本購入した。テイスティングと合わせて15200Ft (=9120円)、決して安くないが日本だともっと高い。

 
 グラス6杯のテイスティング後、アルコールが体内を気持ちよく循環する足で、坂道をゆっくり歩いて下って行った。

 観光シーズンでないワインの村は、住む人だけが自分たちのペースで生活している。そういう落ち着いた佇まいは、安堵の気持ちを増加させる。日本の村のような美的センスを疑うイヤらしい看板も、目につく電柱と電線も見あたらない。静かな村だ。

 
 こうして暗くなりかけた頃、長かった一日がやっと終わった。最初、外から見て驚いた「ボロ民宿」も中は意外と使えそうだった。ベッドはツインだし、冷蔵庫もガスレンジもシャワーもある。テレビはないが、あっても意味が分からないから要らない。

 熱いシャワーで汗を流したあとは「お楽しみ」だ。近くの小さな万屋で買った自分用の安いトカイ・アスー☆☆☆ワインも甘くて美味しいし、聞いたことがない名前のチーズもイケてる。ウン、ヨーグルトも変なフレーバーがつてないぞ。農業国の農産物はおおむね大丈夫だ。こうしてコンピューターもテレビもない夜は更けていった。

 
  

   












ハンガリー(旧ハンガリー領を含む)出身の主な作曲家・音楽家

作曲家 フランツ・リスト、ゾルターン・コダーイ、ベラ・バルトーク、フスカ・イェネー、ミクロシュ・ローザ(J)(映画音楽:「ベン・ハー」)、ヨーゼフ・ヴァイグル、フランツ・レハール
指揮者 ゲオルク・ショルティ(J)、フリッツ・ライナー、ユージン・オーマンディ(J)、ジョージ・セル(J)、フェレンツ・フリッチャイ、モーシェ・アッツモン(J)、ハンス・リヒター、アンタール・ドラティ(J)、イシュトヴァン・ケルテス(J)、ハンス・スワロフスキー、クリストフ・フォン・ドホナーニ、アルトュール・ニキシュ、
ピアニスト ゲザ・アンダ、ターマス・ヴァシャーリ、ゾルターン・コチシュ、ジェルジ・シャンドール、ジョルジ・シフラ、ディジェ・ラーンキ、リリー・クラウス(J)、アンドラーシュ・シフ(J)、アニー・フィッシャー(J)
ヴァイオリニスト レオポルド・アウアー(J)、ヨーゼフ・シゲティ(J)、カール・フレッシュ(J)、ヨーゼフ・ヨアヒム(J)
チェリスト ヤーノシュ・シュタルケル
(注:表中(J)はユダヤ系)

主な出典:フリー百科事典
Wikipedia,Japan









 残念ながら、その夫婦の名前は今となっては思い出せない。彼らは海外旅行からの帰りだった。「チュニジアは良かった」と異口同音に言った。「自由に行けるのか?」と訊いたら怪訝そうな顔をした。私の中には「ハンガリーは社会主義国=不自由」というステレオタイプな考えが未だにあった。あのハンガリー動乱のイメージがつよい。「今は自由主義」と言われても半信半疑なのである。

 それはともかく、料金は日本円で7万円くらいだそうで意外と安い。「ホテルも良くて食べ物も良かった」らしい。「空や海が青くてきれいだった。また行きたい。」と奥さんは嬉しそうに言った。北アフリカの空と地中海の青さは、本当は「紺碧色」(フランス語でAzur)なのである。私も隣のアルジェリアにいたから、よく分かるのだ。その話も彼らに少しした。ハンガリーはプスタと呼ばれる大平原が国の大勢を占め、もとは牧畜・農業国、空の色も違う。チュニジアはきっと新鮮だったに違いない。

 さて、すでに書いたようにご主人は旅行代理店経営ということなので、「すべてご自分でするのですか?」と聞くと、「ツアーに入った」と言った。彼は代理店経営といっても、「バスで近隣国ツアーを主催する」だけのようで、今回のようなツアーはしないらしい。彼は元々は建築関係だったらしい。「アーキテクト」と言った。

 奥さんは英語が達者である。話も明快、さすがホスピスの看護婦だ。きっと婦長くらいだろう、てきぱきとしている。息子はブダペスト大学を出てもう独立しているという。現住地は東部の町で、その話もしてくれた。

 そこへ通路の反対側に座っていた20台後半らしい女性が、話に割って入ってきた。

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 マリアは頭の回転が速い。私の英語だって決して流暢ではない。言いたいことがいっぱいあるのに、単語が出てこないことがある。それを察して繋いでくれる。さすが仕事柄、人と話をするのが慣れている、それに、話していても「距離感」がない。ふつう「初対面の外国人」といったらお互い母国語も使えないし、何だかもどかしいものだが、「昔からの友人」という感じで会話が弾む。

 彼女は頭の回転が良い代わり、ときどき「つっこみ」があったり、ややきついことも言った。
「この国は今景気が悪いのです。東部にあった大きな化学工場が閉鎖になりました。失業者が増えています。政治が良くないです。・・」
私が「この国は日本車がたくさん走っている。特にスズキが多いが・・?」
「この国にスズキの工場があります。スロバキア側の国境近くの町です。」
「それなら良いじゃないですか。雇用が増えるし・・。」
「ダメなんです。ハンガリー人は雇ってもらえない。スロバキア人は給料が安いから仕事が取られます。こういう格差が問題です。雇ってもらっても条件が厳しい」
こういう話が延々と続く。はじめは聞いていた件の夫婦はいつの間にか消えていた。

 後日注:ハンガリーのそのスズキ工場で、「2005年12月、労働条件の改善を求めて、労働者がストライキをした」との報道があった。

 列車は東部中都市のひとつ、ミシュコルツに近づいた。彼女は「話してくれてありがとう。私は次で降ります。」と言った。私が「トカイまで行くのだが、この列車はどこ行きですか?ミシュコルツまでしか切符を持ってない。」というと、来合わせた車掌に訊いてくれた。車掌は私の切符を見てから、「この列車はトカイの向こうまで行く。トカイで降りた時、駅で精算すればよい」と言った。

 マリアが居てくれて助かった。私はマリアに礼と別れを言った。彼女は「メールアドレスはあるか?」と訊いた。「もちろん!」と言い名刺を出した。互いのアドレスを交換してから別れた。沿線の景色は見えなかった代わり、彼女のおかげで時間があっという間に過ぎた。

 後日注:日本に帰ってからメールが来た。「覚えていますか?もう日本に着いた頃でしょう。良かったらメールでやりとりできますよ。日本の写真でも送って下さい。もう一つのアドレスも使えます。」苗字と携帯電話番号も添えてあった。

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