第二次世界大戦中、ドイツの「支配者」アドルフ・ヒトラーAdolf Hitlerの率いるナチ(ス)NAZI「国家社会主義ドイツ労働者党」とその軍隊はヨーロッパのほとんどを占領支配しましたが、その中心となったのが、国防軍(陸・海・空軍)と親衛隊(SS)そして国家秘密警察(ゲシュタポ)でした。なかでも親衛隊SSが各地に設けたのが、悪名高い「強制収容所KZ」でした。有名なものでは、このアウシュビッツの他、すぐそばのビルケナウやトレブリンカ、テレジエンシュタット、ベルゲン・ベルゼン、マウトハウゼン、ザクセンハウゼン、ダッハウ、ブッヘンバルト、ラヴェンスブリュックなど、ドイツの他、占領地やオーストリア国内に無数に作られました。
親衛隊による「強制収容所」地図 (C)Shoa.de ■印が収容所、■印は大都市
全強制収容所一覧(ドイツ語)"The list of Concentration camps"(German) |
当時、ゲルマン系白人のドイツ人だけが「優秀民族」で、他の「劣等民族」は抹殺(まっさつ=消し去ること)することがドイツの発展につながるとされていました(他民族絶滅計画)。その手段としては、まずこれら「劣等民族」を一カ所に集め管理しました。これを「ゲットー」*といいます。高い塀で他の地区とは仕切られ、自由に行き来をできなくして、多くの人たちを押し込めました。そして武器を持ったドイツ兵が監視・監督しました。
「ゲットー」(ユダヤ人居留区)の写真 ドイツのサイト"Shoa.de"より転載
(C)Shoa.de |
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手を挙げる小さな子どもの姿が痛々しい
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ゲットーについては、最近の映画ではユダヤ人監督スティーヴン・スピルバーグの「シンドラーのリスト」や、同じくユダヤ人監督ロマン・ポランスキーの「戦場のピアニスト*」にたくさん登場します。大規模で有名なのが、「ワルシャワ・ゲットー」です。その後ここからさらにユダヤ人たちは汽車に乗せられて、各地の収容所に運ばれます。そこは「生きても地獄、死ぬのも地獄」の場所でした。あの小説や映画で有名になった「アンネの日記」の作者アンネ・フランクもこうして亡くなりました。
*映画「戦場のピアニスト」・・第55回カンヌ国際映画祭パルムドール(最高賞)受賞
注:正確には、アンネと姉マルゴーはアウシュヴィッツの後で、ベルゲン・ベルゼン収容所に移送され、伝染病のチフスで死亡しました。アンネの死は公式には1945年3月31日とされていますが、実際にはそれよりも少し早いと言われています。戦争がすんだ時にはアンネの父オットー・フランク以外は全員が収容所などで死亡しました。そのオットーがアンネの生前の日記をタイプし直し出版したのが、「アンネの日記*」です
→アンネ・フランクの墓(リンク)
→アンネ・フランク関連サイト紹介・アンネ・フランク関連映像等紹介
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(上)「アンネの日記」の原作者アンネ・フランク"Shoa.de"より転載
(下)映画「シンドラーのリスト」のモデルオスカー・シンドラー"Shoa.de"より転載
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(上)旧「ベルゲン・ベルゼン強制収容所」にあるアンネ・フランクと姉マルゴットの「記念碑」 当然ながら本当の墓は存在しない
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強制収容所 KZでは、考えられるありとあらゆることが行われました。たとえば、もう子供を産めなくするため若い女性の体に手術をしたり、ずっと食事をあたえずどのくらいで死ぬか(餓死)の実験や、コレラ菌など病原菌を植えつけ死ぬまで観察したり、「劣等民族」と「優秀民族」の体がどう違うのか生きたまま手術をして調べたりしました。これらにたずさわった者の中に、ヨーゼフ・メンゲレという医師がいました。彼については、最近「マイ・ファーザー」という映画になっています。ついでにいうと、こういう人体実験*は日本の「大日本帝国の軍隊」でも行われました。旧満州731(石井)部隊です。
また所内では、なぐるけるなどの暴力や非人間的強制労働、極端に少ない食事などは、日常的におこなわれ、「人間としての扱い」はまったくありませんでした。またドイツ兵は機嫌の悪い日などは、リンチをしたり撃ち殺して「生活の楽しみ」にしていました。この辺の描写は収容所体験のあるポランスキー監督の「戦場のピアニスト」に出てきます。また一人でも逃げようとしたら、そのグループ全員が処罰、処刑されました。「見せしめ」のためです。またドイツ兵の中には、女性の「囚人」に性的暴行(レイプ)をはたらいた者もいました。
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親衛隊が彼らを「処分=殺す」のに使ったもっとも一般的方法は、有毒ガス「チクロンB」*でした。狭い部屋に押し込め、閉め切ってからガスを入れました。その後は死体を取り出して、髪を切り取り、金歯を抜き、肌をはぎ取りました。その「作業」は同じ「囚人」にやらせました。また「囚人」の中でドイツ兵に従順な者を「手先」にして収容所を運営していました。この辺の描写は映画「戦場のピアニスト」で見られます。さて死体からは髪を切りこれらからマットや敷物を作りました。入れ歯の金は溶かして再利用しました。また死んだ人間の脂肪から石けんを作っていました。こうして人間はまるで牛や馬のように「処分」されました。
さて、収容所ではふつうは、ユダヤ人だけを殺したようにいわれていますが、そうではありません。収容所によっては、ユダヤ人よりも他の人たちの方が多く、ロマ(ふつうは「ジプシー」と呼ばれる流浪の民)や何十もの少数民族、共産(社会)主義者、反ナチス活動家、同性愛者、支配した国の国民、特に「政治犯」などを捕らえては、裁判もなく殺してゆきました(処刑)。
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最終的にこのアウシュヴィッツだけでも28民族150万人★、すぐとなりのビルケナウ収容所では百数十万人、オーストリアのマウトハウゼン収容所では、約11万人(内ユダヤ人が3万8千人)が命を奪われました。全体の死亡者(殺された者)については本当にさまざまな説があり、いまだにくわしい正確な統計は出ていませんが、全体では1100万人以上*(英BBCの報道、2005)と言われています。その内、あなたたちのような子どもは150万人以上**(同・英BBCの報道)いたと言われています。ただ一部の人たちは、「死者数は誇張されていて、実際はもっと少ない」と言っています。
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上のようにのべてきたような「人間を人間とも思わないとんでもないこと」、「人命人権を軽視無視したやり方」は、現在では完全に否定(ひてい)されていますが、こういうやり方はその時代にはかなり多くのドイツ国民に支持されました。というのは、当時のドイツ社会は第一次大戦後の敗戦・大不況にくわえて、連合国から当時「天文学的」といわれた1320億マルクという賠償金(ばいしょうきん)を要求されていました。そのため仕事も金もなく、さらに超超インフレが市民生活をおびやかしていました。このような中で、「ドイツ民族は最優秀である!」と訴えたのが隣国オーストリア出身のヒトラーでした。彼は当時の社会のひずみや矛盾を、彼ら(ユダヤ人などドイツ人と違う人たち)に押しつけ憎ませることによって、人間の心の中にある「差別意識」を助長し、それを使って国をまとめようとしたのでした。
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これを少し説明します。ユダヤ人(ユダヤ人の定義)は何千年も前に国が滅びてからは、世界に散らばってゆき、生きるためにいろいろなことをしました。どこの国民から見てもユダヤ人は「よそ者」でしたから、決して歓迎はされませんでした。いくらお金があっても、土地を買うこと持つことさえ禁じられていました。職業としては、いちばん頼りになるお金を扱う金融業(銀行、金貸し、世界有数の大金持ちロスチャイルド家、モルガン家・・)や、実力さえあれば活躍できる芸術家(作曲家、演奏家、作家、画家など)や大学教授、学者(有名なアインシュタイン博士、精神科医フロイト・・)などが多かったようです。
「ユダヤ人の金貸し」はシェークスピアの「ヴェニスの商人」の劇にも出てきますが、ユダヤ人を大変悪く書いてあります。その他には、裕福な銀行家ユダヤ人の子どもであったメンデルスゾーンやマーラーなどの名前が残っていますし、現在でも歴史に残るクラシック演奏家、指揮者はかなりの数がユダヤ人です。特にヴァイオリン奏者で有名な人は、ユダヤ人が圧倒的に多いのです。有名な「屋根の上のヴァイオリン弾き」というミュージカルは、そういう人たちが登場します。
参考資料:音楽家、学者、ノーヴェル賞受賞者、実業家、映画人などユダヤ系有名人一覧
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またユダヤ人は自分の故郷でもない外国で「自分らしさ=アイデンティティ」を保つために、「ユダヤ教」を信じ*、ヒゲを生やし丸い帽子をかぶり、彼らだけで集まって生活しました。また彼らの生活の独特なやり方をかたくなに守りました。それがことさらに「嫌われる」理由ともなったのです。また同様な理由で、住所の定まらない「自由で流浪な民、ロマ」も差別、弾圧を受けました。こういう差別の感情(差別意識)は、人々の生活が苦しい時ほどはっきり出てきて、ヒトラーはそれをおおいに利用したのです。当時のドイツ人たちが、ヒトラーを「大歓迎」したことは、当時の記録フィルムにも残っています。
*注:ユダヤ人の中には生きるため、その社会にとけ込むため、キリスト教に改宗した者も多くいます 「結婚行進曲」などで、みなさんも知っている有名な作曲家フェリックス・メンデルスゾーンは父の代にキリスト教に改宗しました。また作曲家・指揮者グスタフ・マーラーは結婚のため37歳でキリスト教(ローマ・カトリック)に改宗しました。しかしキリスト教徒になっても、差別され続けました。
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さて話は現在にとびますが、戦後から60年もたった今、アジア、アフリカからの有色人種の移民が多くなったイギリス、フランス、ドイツでは、一部の者たちによって、有色人種に対する差別さべつ、偏見へんけんや「外国人はこの国からでて行け!(外国人排斥はいせき)」という運動や放火・殺人までもが起こるようになっています。特にドイツでは「ネオナチ」と呼ばれる人たちが、イスラム教を信じるトルコ系移民に対して「攻撃」を始めています。「ネオナチ」の中心は職のない若者たちだと言われていますが、彼らの仕事がさらに安い賃金(給料)の「有色またはアジア・アフリカ系移民」たちに「奪われて」いるのが一因だと言われます。そういう人たち(極右きょくう)がいちばん多いのが、未だに失業率の高い「旧東ドイツ地区」というデータもあります。
第二次大戦後、西ドイツでは「ナチの犯罪」「ドイツの過ち」を国民に知らせ、学校でも教育をしてきたのに対し、旧東ドイツ地区ではそれが十分になされなかったと言われています。そして同じようなこと・事件が、となりの国オーストリア、フランス、そしてイギリスでも起こっています。これらの国では、ドイツ国内ほど「ナチの犯罪」についての啓蒙(皆に広く知らせること)が行われず、「戦争を知らない世代」が増えたことが原因といわれています。
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現実に「ネオナチ」の彼らは「ドイツ至上主義(ドイツこそいちばん、白人であるゲルマン民族(アーリア人種)こそいちばん)」という意味で、「ヒトラーの思想」に共感・共鳴しているといいます。また仕事(職業)がない*不満をそこで表現しているとも言われます。それだけにドイツ政府は、他の国以上に敏感に「ナチの再生・復活」に神経をとがらせています☆。このように経済、景気が悪くなると、そういう人たちが多くなり、再び「以前来た悲しい道」をくり返さないとも限りません。このこと(経済状態が悪くなると、人の心が狭くなるという傾向)は歴史の中でも明らかですし、他の国々にも同じことが言えると思います。
*注:ドイツの失業率は2003年現在10.6%で、日本5.3%(2003)の2倍、旧東ドイツ地区は約17%で圧倒的に高く、
その若者の失業率はさらに高いと思われる(独法/労働政策研究・研修機構HP他)
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いずれにしても、このような「人類の汚点(おてん)」または「マイナスの遺産(いさん)」を私たちは決して忘れてはいけません。そういう意味でも、このような施設を消してゆくのではなく、人間の愚行(おろかな行い)の記録(生き証人)として、永久に残してゆく必要があります。
今でも世界の各地では、一部の国によって少数民族への虐待(ぎゃくたい)などの愚かな行為、大国による小国への攻撃、戦争が行われ、または内戦によって、毎日尊い命が失われています。国家による大量殺人や人権無視、差別などは「もう過去の話」ではないのです。だからこそ、私たちはこの「アウシュヴィッツ収容所博物館(記念館)」を「負の世界遺産」として、いつまでも人類のために、より良い世界のために、また次の時代を考える手がかりとして大切にしたいものです。若いみなさんもヨーロッパを訪れる機会があったら、ぜひ「アウシュヴィッツ」に行ってみてください。これから人類が、自分が何をしたらよいかよく分かります。 |