私たちが決して忘れてはいけない事件・施設
We are strongly against any discriminations, violences, murders, wars, oppressions, and holocausts. We should say"Never again !"
ご注意!残酷なシーンがあります Photos(R)15 リンクがある写真があります タップしてください Tap on some photo to open album

アウシュヴィッツ強制収容所 (ポーランド・オシフィエンチム)

ナチス・ドイツは親衛隊(NAZI SS)が中心になってユダヤ人・ロマ(ジプシー)・同性愛者・社会主義者・政治犯などを
ヨーロッパ各地の多くの強制収容所に入れ、多数を殺戮
した これは史上最も悪名高い収容所である



アウシュヴィッツ強制収容所 展示写真 (ポーランド・オシフィエンチム) 
「シャワーに入る」として裸にしてガス室に入れられるユダヤ人たち 彼女たちも幼児たちもこの直後の自分たちの運命を知らない
「シャワーノズル」からは猛毒チクロンBが噴射される
Photo: (C)"KZ Auschwitz-Birkenau Gedenkstaette," Polska


アウシュヴィッツ強制収容所 展示写真 ガス室で殺された後の野積みの姿 若い女性も変わり果てた姿に
Photo: (C)"KZ Auschwitz-Birkenau Gedenkstaette," Polska



アウシュヴィッツ強制収容所 展示写真
ナチ兵士に射殺される母子 母は懸命に子どもをかばうが・・ 左下はすでに射殺された者の死体
Photo: (C)"KZ Auschwitz-Birkenau Gedenkstaette," Polska


アウシュヴィッツ強制収容所 展示写真 収容者たちを絞首にしてその前でニヤつくナチSS隊員
Photo: (C)"KZ Auschwitz-Birkenau Gedenkstaette," Polska


アウシュヴィッツ強制収容所 展示写真 連合軍が突入し解放した直後、生き残っていた痩せこけた人々
Photo: (C)"KZ Auschwitz-Birkenau Gedenkstaette," Polska


アウシュヴィッツ強制収容所 現在の姿 (ポーランド・オシフィエンチム)
ナチスドイツによる絶滅収容所のひとつ あの
アンネ・フランクも収容されていた(のち彼女は姉とともに別の収容所で病死)
写真はイスラエルから歴史学習ツアーでやってきたユダヤ人学生

内部リンク:アウシュヴィッツ強制収容所
"Auschwitz-Birkenau" Nazi Concentration Camp, Oswiecim, Polska(Poland)

ベルゲン・ベルゼン強制収容所

「アンネの日記」のアンネ・フランクと姉マーゴット・フランクの墓碑(慰霊碑)
二人の姉妹は一時アウシュヴィッツ-ビルケナウ収容所に居たが、後にこの収容所に移送された
ここの不衛生な環境で姉もアンネもチフスに罹り死亡 アンネ享年15歳
二人の死亡日も断片的証言のため墓は後年作られたものである (ドイツ・ベルゲンベルゼン)

(ドイツにに在住した日本人女性Oさんよりの投稿写真)

(関連写真)アンネ・フランクの家(現博物館)


此処は正確にはオットーの会社建物(左側) 右は新館で入り口がある
アンネたちの「隠れ家」はこの外からは見えない後側の3、4階部分にあった 列をなす世界中から来た見学希望者
(内部は公開中だが撮影禁止) (オランダ・アムステルダム)

Anne Frank huis Museum , Amsterdam, Nederland


ユダヤ人指揮者:カレル・アンチェル(元チェコフィル・首席指揮者)の墓 (チェコ・プラハ・ヴィシェフラド墓地)
第二次大戦中テレジーン、
アウシュヴィッツ-ビルケナウ収容所に送られる 妻と息子はガス室で殺されたが彼は生き残った
戦後、チェコフィル常任指揮者に復帰 1968年チェコの民主化「
プラハの春」運動にソ連軍が軍事介入(チェコ事件)
彼は旅行先で指揮者を退任・亡命し、カナダのトロント交響楽団の指揮者に就任 のちトロントで病死 しカナダに埋葬される
後に遺体はチェコ・フィル後任のクーベリックの尽力でチェコに帰還する チェコの音楽史にもターリッヒとならぶ名指揮者であった

Karel Ancerl, ex. Chief-conductor of Czech Philharmony


ブッヘンヴァルト強制収容所 (ドイツ・ブッヘンヴァルト)

やはり数あるナチスの強制収容所のひとつ 復元保全もきちんと行われている
"KZ Buchenwald" Gedenkstaette, Deutschland


ブッヘンヴァルト強制収容所 (ドイツ・ブッヘンヴァルト)
内部展示写真 裸にされガス室で殺されて室外で野積みにされた様子 人間ではなくまるで丸太のような扱いが酷い

Photo: (C)"KZ Buchenwald Gedenkstaette," Deutschland(Germany)


ブッヘンヴァルト強制収容所 (ドイツ・ブッヘンヴァルト)
死体焼却炉 ポーランドのアウシュヴィッツ収容所にも同じ物があった 「能率良く」囚人の死体を焼き処理する工夫がされている
KZ Buchenwald Gedenkstaette


ブッヘンヴァルト強制収容所 (ドイツ・ブッヘンヴァルト) 死体焼却炉の内部 上部には煤がこびり付いている
KZ Buchenwald Gedenkstaette

内部リンク:ブッヘンヴァルト強制収容所


ユダヤ人ゲットー(強制居住区)跡の慰霊碑 (ポーランド・ワルシャワ)

ドイツのナチは占領したポーランドのワルシャワにユダヤ人ゲットーを作り収容、一部は強制収容所に送っ
ゲットーは劣悪な環境で食料もなく、外へは出られず、不衛生で伝染病もはやった
ユダヤ人監督
ロマン・ポランスキー製作・カンヌ映画祭最高賞受賞の映画「戦場のピアニスト」
("The Pianist"by Roman Polanski) にも登場した場所

Memorial of the Warsaw Ghetto by Nazi, Warshawa, Polska(Poland)


Relief on the back side of the Memorial


ワルシャワ蜂起記念碑 (ポーランド・ワルシャワ)

第二次大戦後期、ドイツのナチに占領され続けたポーランドのワルシャワ市民が蜂起し戦った事件
ドイツの敗色濃い頃にソ連はポーランドのレジスタンスに蜂起を呼びかけた ソ連赤軍は進撃したが苦戦し、なおかつ蜂起軍の戦いを傍観し
蜂起軍を援助しなかった ヒトラーはドイツ軍に弾圧と町の破壊を命じ、蜂起国内軍は敗色濃く町も破壊され、市民への大量虐殺も起こった
この事件での死者は約22万人といわれている 
上述のロマン・ポランスキー映画「戦場のピアニスト」にも登場した事柄
Warsaw Uprising Monument, Warszawa, Polska(Poland)


「カティンの森(虐殺)事件」慰霊碑 (ポーランド・ワルシャワ)

ポーランドは1939年9月(第二次大戦開始)、ナチ・ドイツとソ連・赤軍に攻撃され国土は占領された ソ連軍に降伏した将兵は強制収容所に送られた
1940年捕虜の将官・兵の総数は約23万人(諸説有り)、それらが消息不明となった 後年1943年2月ドイツ軍はカティンの森で多数の軍人の遺体を発掘、
これらの
虐殺はソ連軍の仕業だと喧伝した 同年3月、事件が世界に報道され赤十字が調査に当たった 実数は未だつかめていないが犠牲者は
2万人以上といわれている 現場のロシアのカティンの他各所に慰霊碑があるが、これはワルシャワのSenatorska Streetにある碑

"Katyn massacre" monument , Warszawa, Polska(Poland)


西大門刑務所(現歴史館) (大韓民国・ソウル市)

日本の属国だった朝鮮半島の反日、抗日朝鮮人を刑務所に入れ拷問にかけた
今は歴史博物館となり児童・学生・生徒が歴史学習に教師引率で訪問する 
「加害者」は忘れるが、「被害者」は決して忘れない
The Seodaemun Prison during Japan-occupation period, Seoul, Korea



西大門刑務所歴史館 内部の様子 (大韓民国・ソウル市)
Inside the Seodaemun Prison, Seoul, Korea

     
西大門刑務所歴史館 当時を再現する日本の警察官や特高による男女かまわず拷問するシーン 
人形による展示のあまりのリアルさに見ていても辛い 同様の多数の展示室がある


内部リンク:京城・西大門刑務所


安重根(アン・ジュングン)義士紀念館 (大韓民国・ソウル市・南山公園)
  

     
    安重根(アンジュングン)    日本側の取り調べを受ける安重根(紀念館展示写真)

注:韓国では安重根は「
義士」と呼ばれる

<伊藤博文暗殺事件>

1909年10月26日 韓国統監を辞任して枢密院議長となった伊藤博文は、
日露交渉のために満州のハルピンを訪れた  韓国人安重根が伊藤博文をハルピン駅頭で射殺した


 本人の義挙の理由

 私が伊藤博文を殺したのは、韓国の独立戦争の一部分であり、また私が日本の法廷に立つことになったのは、戦争に敗北し、捕虜になったからだ。私は個人の資格でそのことをやったのではなく、韓国義軍の参謀中将の資格で、祖国の独立と東洋平和のためにやったのだ。したがって、万国公法によって処理することを要請する。 
                             
(紀念館掲示の説明文より)
<事実>
1909年10月26日 朝鮮統監を辞任して枢密院議長となった伊藤博文は、日露交渉のために
              満州のハルピンを訪れた。
              韓国人安重根が公爵伊藤博文をハルピン駅頭で射殺した
              ピストルで6発発射のうち3発が命中した.。(いずれも致命傷)
              「大韓國万歳」と三回叫んで、即刻その場でロシア官憲に逮捕され、
              日本官憲に引き渡された。
              伊藤は「犯人は韓国人」と聞いて、「バカなやつだ」と言ってから死亡した。
  同  11月 4日  伊藤は東京で国葬にされる。
1910年2月14日  旅順の関東都督府地方院で死刑判決。
  同  3月26日  午前十時安は旅順監獄で死刑・殉国(享年32歳)。
                                
(紀念館掲示の説明文より)

両国教科書記述の比較

   
立場が違えば、ひとつの出来事がどう違って書かれるのか?調べてみた

韓国の歴史教科書の記述

  ・「義兵闘争の展開」・・高宗皇帝の強制退位と軍隊解散を契機に、義兵の救国運動は
    その規模と性格面で義兵戦争に発展していった。(1907年)・・・・・・・・・・・・
    一方、全国の義兵部隊がソウル侵攻のために連合戦線を形成したこともあった。・・・・
    その先発隊がソウル近郊まで進撃したが、日本軍の反撃が強くて、それ以上前進できずに
    後退した。このとき、義兵はソウル駐在各国領事館に義兵を国際法上の交戦団体として
    承認 してくれることを要求する書信を発送して、自ら独立軍であることを主張した。
    そして洪範図と李範充が指揮する間島と沿海州一帯の義兵部隊が国内侵攻作戦を計画し、
    義兵として活躍していた安重根は満州ハルピン駅で韓国侵略の元凶である伊藤博文を
    処断*した。(1909年)
                         (国定韓国高等学校歴史教科書)
  ・同教科書歴史年表・・「1909年、安重根、伊藤処断*」
                       *処断・・とりさばいて決めること、裁断

日本の歴史教科書の記述
  
  ・日露戦争中・後の朝鮮民衆による反日義兵闘争の記述はあるが、
   伊藤博文暗殺や安重根の名前は記述がない。
                        (高校「要説世界史」山川出版2003)
  
  ・1907年大韓帝国皇帝が退位させられて、内政は韓国統監府がにぎった。
   このため、韓国では民族的抵抗運動が広まった。兵士や農民が立ち上がったが、
   日本軍に鎮圧された・・という記述はあるが、伊藤博文暗殺や安重根は出てこない。
                        (中学校「新しい社会」歴史、東京書籍2003)

  ・日本が朝鮮人の土地を没収したので、生活がますます苦しくなり、日本の統治に不満が
   高まった。1919年には朝鮮独立万歳を叫ぶ民衆の暴動が全国に広がり、
   100万人が参加し、多くの犠牲者を出した(万歳事件)。独立運動は・・・
   満州・上海などに朝鮮独立政府や朝鮮解放軍が組織された。・・・などの記述があるが、
   やはり伊藤博文暗殺や安重根は登場しない。
                       (家永三郎「検定不合格日本史」三一書房1974)
                       
   教科書比較の項はすべてサイト・オーナーによる


「三・一独立運動」の聖地 タプコル(パゴダ)公園 (大韓民国・ソウル市)

三・一(独立)運動・・1919年、第一次世界大戦のベルサイユ講和条約が締結された。その骨子は、
1 民族自決、2 軍備縮小 3 国際連盟の設立であった。「民族自決」を受けて、バルト三国などヨーロッパの小国は次々に独立をした。
この流れのなかで、アジアでも
朝鮮の三・一運動中国の五・四運動が起こり、この公園で独立宣言が朗読され、
独立万歳が叫ばれ人々がデモなどを行った
。これに対して、国主義は武力で弾圧、多くの死傷者や逮捕投獄者を出した。
こうして、朝鮮民衆の願いは踏みにじられ、日本帝国主義の支配は日本敗戦の1945年まで続いた。

March 1st Movement against Japan-rule, Seoul, Korea


タプコル公園の多数ある独立運動のレリーフの一枚

内部リンク:
タプコル公園(三・一独立運動の聖地)


日本の植民地統治に対す台湾山岳民(高山族)の蜂起
霧社事件


霧社事件のリーダー:モーナルーダオ像 彼は「抗日戦士(烈士)」と呼ばれる (台湾・霧社)


霧社事件 上の像奥にあるモーナルーダオの墓 「抗日烈士」とある (台湾・霧社)
1930年 日本植民地時代の台湾で過酷な日本支配に対して山岳民(高山族)が蜂起し日本人警察署・
日本人学校などを襲撃
した これに対して
日本は警察だけでなく軍を投入し毒ガスまで使ったという



 
霧社事件について・・・台湾の植民地化を進める日本に対して、「先住民族・高山族」が起こした抵抗事件。現在の南投県仁愛郷(霧社)で、1930年10月27日未明、モーナルーダオ率いるタイヤル族の約300人が、管内の警察、宿舎を襲い巡査とその家族を殺害し、武器を大量に奪った。更に日本人学校と台湾人公学校合同の連合運動会を襲撃、日本人134名死亡、26名が重傷を負った。これに対して日本は警察、軍隊を投入、掃討作戦を行った。日本軍は航空機による爆弾投下、毒ガス作戦を敢行し、50余日で鎮圧した。タイヤル族は160名戦死、自殺者は140名、400名行方不明、500名が投降した。投降者は警察に拘束されたが、警察黙認のまま「味方蕃」に襲われ198名が死亡した。(第二霧社事件)あとの生き残った「保護蕃」は、全員川中島に強制移住させられ「帰順式」を行ったが、その席上で警察は38人を逮捕し、秘密裏に処刑した。こうして蜂起したタイヤル族はほぼ根絶された。以後日本の山地政策はますます強化された。                                 
                                 
(「地球の歩き方」三上美麗氏の文を引用)


霧社事件 山岳民(高山族)が蜂起して襲撃した日本人学校跡(現台湾電力用地)


霧社事件  (C)「合歓禮讃」より転載
日本軍の鎮圧作戦で このタイヤル族は160人戦死、140人自殺、行方不明400人、500人が投降した
こうしてタイヤル族はほぼ根絶させられた 以後
日本の山地民族への弾圧が強化された
Musha Incident in Taiwan in 1930 during Japan-occupied times


霧社事件 捕らわれ殺された台湾人(山岳民)の首 (C)「合歓禮讃」より転載
後ろ中央は日本兵 他は日本側に付いた台湾人 生き残った者も過酷な処分を受けた
Musha Incident in Taiwan in 1930 during Japan-occupied times

内部リンク:霧社事件(霧社抗日事件)の遠因・近因


映画「戦場に架ける橋」の舞台になった クウェー川(通称クワイ川)鉄橋 (タイ・カンチャナブリ)

旧日本軍の「泰メン鉄道敷設」の舞台 クウェー川(通称クワイ川)の橋
一連の工事で連合軍の捕虜将兵が多く死亡 世界にはアカデミー賞映画「
戦場に架ける橋」の舞台として有名で映画に詳細が描かれる
The Bridge on the River Kwai, Kanchanaburi, Thailand


同 カンチャナブリにある「連合軍共同墓地
手入れの良い墓地には連合軍将兵が眠る 墓碑銘には氏名、当時の階級だけでなく
遺族などのコメントが彫ってあり読んでいても涙をそそる

Allied War Cemetery, Kanchanaburi, Thailand

内部リンク:戦場に架ける橋


カウラ戦争捕虜収容所 
(オーストラリア・カウラ)

カウラ戦争捕虜収容所 (オーストラリア・ニューサウスウェルズ州・カウラ)
第二次大戦中にオーストラリアでの日本人捕虜、在住日本人の他、敵国であるイタリア人、朝鮮人などを奥地に
強制収容した 
日本兵捕虜たちは計画して暁に脱走(カウラ脱走事件)したが、多くは殺されたり残りは全員捕らえられた
今は整備された日本人墓地とともに日本庭園もある記念公園となり「日豪友好」に役立っている
Cowra P.O.W.Camp during WW2

(C)Photo transferred from the official page of Visit Cowra ,NSW, Australia


(C)Photo from local postcard, Cowra, NSW, Australia

内部リンク:カウラ日本人捕虜収容所


アメリカの日系人強制収容所 (アメリカ・カリフォルニア州他)

日系人強制収容所 写真はトパーズ強制収容所 (アメリカ合衆国・ユタ州・ミラード郡)
日本軍の真珠湾攻撃後、
米大統領 フランクリン・.ルーズベルト西海岸の日系人を収容所に強制連行した
もっとも有名な物に
マンザナー収容所がある しかし当時敵国だった独・伊系市民にはこのような非道な処置はなかった
Topaz War Relocation Center, Utah, USA
(C)Photo transferred from the book,”Executive Order 9066 ”


強制収容所に送られるため軍隊に監視されて集結する日系人 (カリフォルニア州・サンタアニタ)
(C)Photo transferred from the book,”Executive Order 9066 ”


収容所内の葛藤「二つの祖国」に耐えきれずに鉄道自殺した23歳の日系人の若者
あとに父、継母、妹が残された (ジェローム収容所、1944.1)
(C)Photo transferred from the book,”Executive Order 9066 ”

内部リンク:戦争で人生が変わったアメリカの二世たち(日系人強制収容所)


日系人強制収容所 (カナダ・ブリティッシュコロンビア州・ホープ郊外)

日系人強制収容所・タシュミ日系人強制収容所
(写真はヴァンクーヴァーの「日系人博物館」展示の収容所模型)
第二次世界大戦の戦局が太平洋に移ると、総数約21000人と言われた日本の血をひくカナダ人は財産を
ほぼ没収され、ブリティッシュコロンビア州沿岸部から強制的に立ち退かされ、海岸から167km(100マイル)以上
離れて暮らすよう強制された
。そのような一時的強制収容所であるタシュミは、ブリティッシュコロンビア州ホープの
およそ25km東方に急造され、約2600人の男女や子どもたちが収容された


内部リンク:カナダの日系人博物館(カナダ・ヴァンクーヴァー)



毒ガスを使用したイラクのサダム・フセイン 毒ガスで殺されたクルド人母子

イラクのサダム・フセイン時代、国内の反体制少数民族・クルド人の村が毒ガスで攻撃され多数が死亡
かばって抱きかかえる母の姿とあどけない赤子の死顔が悲しみを誘う
ポーランドを旅行中に現地で買ったガゼット新聞より転載
Kurd-Genocide by Sadam Hussein, Iraqi dictator, Iraq


人類最初の原爆被害 世界遺産 「原爆ドーム」 (広島市)

米軍B29に原子爆弾を落とされた広島市に残る「原爆ドーム」
正式名:広島県産業奨励館 (旧名:広島県物産陳列館)
反核・反戦のシンボル 戦後の平和日本はここから再出発した
A-Bomb-Dome, Hiroshima city, Japan


広島原爆資料館 展示の写真:大火傷の少年
(C)Hiroshima Peace Memorial Museum


広島原爆資料館 展示の写真:顔が大火傷の青年
(C)Hiroshima Peace Memorial Museum


広島原爆資料館 展示の写真:多数の死体を並べる
(C)Hiroshima Peace Memorial Museum

広島原爆の被災者である「語り部」の老人はかつてこう仰った
日本人は被害者として広島、長崎の被害を強調するが、私たち日本人が外国人にした悪い行いも決して忘れてはなりません・・」と
まことに重い言葉である


沖縄戦・悲劇の丘・摩文仁(まぶにのおか) 20万人の死者を出した沖縄戦の終焉の地 (沖縄県糸満市)

摩文仁の丘から見下ろす太平洋 激戦の中このあたりの崖から多くの日本兵や住民が身を投げたといわれる
私たちはこの事実を忘れず語り継がなければならない


摩文仁の丘から見下ろす「平和祈念公園」 左は平和祈念堂 右は沖縄県平和祈念資料館、中央は「平和の礎(いしじ)


平和の礎(いしじ)
亡くなったひとりひとりの名前が刻まれているが、在日の「外国人」にはこれ(刻名)を拒否した遺族もいるという


摩文仁の丘・国立沖縄戦没者墓苑 この奥に多くの骨が眠っている


摩文仁の丘には各都道府県ごとにそれぞれ「慰霊碑」があり、
沖縄戦でなくなったすべての人の冥福を祈る これは岡山県のもの


若くして散っていった女子学生「ひめゆり部隊」の洞窟(ガマ) (沖縄県糸満市)

この穴の下には奥深い洞窟(ガマ)がある 米軍の激しい攻撃で、この中にいた若い女学生たちの多くが折り重なって死んでいった
生き残った者は少ないうえ現在になって老齢化がすすみ、死亡している方も多い


洞窟(ガマ)そばの「ひめゆりの塔・碑」(左)と全国から寄せられた修学旅行生たちの「千羽鶴」
「ひめゆり部隊」は沖縄戦・摩文仁の丘の悲劇や長崎・広島の原爆とともに「決して忘れてはいけない日本の歴史」である


「洞窟」の傍らにある「沖縄戦殉職医療人の碑」
この戦争は軍人のみならず沖縄県民多数の命と人権と夢と希望を奪った
いかなる戦争も戦勝国も敗戦国の国民も「幸福になる戦争」は存在しない



明治政府は国家神道を重視し、仏教とキリスト教を抑圧・弾圧した
明治政府のキリシタン弾圧 津和野・乙女峠マリア聖堂 (島根県・津和野町)
 
幕末から明治初に「発見」された長崎・浦上の切支丹たち3392名は萩・福山などに配流、明治元年に153名がこの地に送られた
津和野藩は棄教させようとしたが失敗、酷い拷問の末36名が殉教した 流罪になっていた信者たちは明治6年「禁教解除」により釈放、浦上に帰された
カトリック広島司教区は昭和14年、田畑になっていた土地を購入し昭和23年乙女峠記念堂を建立 「マリア聖堂」と呼ばれるようになった
Christian-Oppression by Meiji-Government, Tsuwano, Shimane pref.


明治政府の太政官布告・
切支丹禁止令

内部リンク:津和野・乙女峠<明治政府のキリスト教弾圧・切支丹殉教の地>



第二次大戦中に日本の捕虜になった連合軍兵の捕虜収容所
大江山捕虜収容所(正式名:大阪捕虜収容所大江山分所)
Oheyama P.O.W prison during WW2, Kyoto pref.

「大江山捕虜収容所」連合軍捕虜エヴァンス氏の祈念碑(英語、ウェルズ語)
この収容所では蓮国軍捕虜が劣悪な環境の元で過酷な労働をさせられていたという


フランク・エヴァンス(Wikipedia)


エヴァンス氏の祈念碑の裏側(日本語記述)


「大江山捕虜収容所」の収容者(戦争捕虜)が働かされた日本冶金(NAS)の露天掘り鉱山


旧「収容所」跡地 1mくらいの土を被せてあるという 現在も日本冶金(NAS)の所有 GoogleMap

関連参考リンク:当事業所で通訳をした日系米人の「川北対合衆国事件」(Wikipedia)
参考サイト:POW研究会「オーストラリア人捕虜軍医ステニングの足跡をたどる」
参考文献:「憎悪と和解の大江山」 フランク・エヴァンス著、糸井定次・細井忠俊共訳、彩流社

Wikipedia参考関連項目:
ハーグ陸戦条約 バターン死の行進
 満州731部隊


このページは当サイト・オーナーが旅行中訪問した場所、見聞した事柄、撮影した写真を中心に編集しています
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