We are strongly against any discriminations, violences, murders, wars,
oppressions, and holocausts. We should say"Never again !"
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アウシュヴィッツ強制収容所 (ポーランド・オシフィエンチム)
ナチス・ドイツは親衛隊(NAZI SS)が中心になってユダヤ人・ロマ(ジプシー)・同性愛者・社会主義者・政治犯などを
ヨーロッパ各地の多くの強制収容所に入れ、多数を殺戮した これは史上最も悪名高い収容所である
アウシュヴィッツ強制収容所 展示写真 (ポーランド・オシフィエンチム)
「シャワーに入る」として裸にしてガス室に入れられるユダヤ人たち 彼女たちも幼児たちもこの直後の自分たちの運命を知らない
「シャワーノズル」からは猛毒チクロンBが噴射される
Photo: (C)"KZ Auschwitz-Birkenau Gedenkstaette," Polska
アウシュヴィッツ強制収容所 展示写真 ガス室で殺された後の野積みの姿 若い女性も変わり果てた姿に
Photo: (C)"KZ Auschwitz-Birkenau Gedenkstaette," Polska
アウシュヴィッツ強制収容所 展示写真
ナチ兵士に射殺される母子 母は懸命に子どもをかばうが・・ 左下はすでに射殺された者の死体
Photo: (C)"KZ Auschwitz-Birkenau Gedenkstaette," Polska
アウシュヴィッツ強制収容所 展示写真 収容者たちを絞首にしてその前でニヤつくナチSS隊員
Photo: (C)"KZ Auschwitz-Birkenau Gedenkstaette," Polska
アウシュヴィッツ強制収容所 展示写真 連合軍が突入し解放した直後、生き残っていた痩せこけた人々
Photo: (C)"KZ Auschwitz-Birkenau Gedenkstaette," Polska
アウシュヴィッツ強制収容所 現在の姿 (ポーランド・オシフィエンチム)
ナチスドイツによる絶滅収容所のひとつ あのアンネ・フランクも収容されていた(のち彼女は姉とともに別の収容所で病死)
写真はイスラエルから歴史学習ツアーでやってきたユダヤ人学生
内部リンク:アウシュヴィッツ強制収容所
"Auschwitz-Birkenau" Nazi Concentration Camp, Oswiecim, Polska(Poland)
ベルゲン・ベルゼン強制収容所
「アンネの日記」のアンネ・フランクと姉マーゴット・フランクの墓碑(慰霊碑)
二人の姉妹は一時アウシュヴィッツ-ビルケナウ収容所に居たが、後にこの収容所に移送された
ここの不衛生な環境で姉もアンネもチフスに罹り死亡 アンネ享年15歳
二人の死亡日も断片的証言のため墓は後年作られたものである (ドイツ・ベルゲンベルゼン)
(ドイツにに在住した日本人女性Oさんよりの投稿写真)
(関連写真)アンネ・フランクの家(現博物館)
此処は正確にはオットーの会社建物(左側) 右は新館で入り口がある
アンネたちの「隠れ家」はこの外からは見えない後側の3、4階部分にあった 列をなす世界中から来た見学希望者
(内部は公開中だが撮影禁止) (オランダ・アムステルダム)
Anne Frank huis Museum , Amsterdam, Nederland
ユダヤ人指揮者:カレル・アンチェル(元チェコフィル・首席指揮者)の墓 (チェコ・プラハ・ヴィシェフラド墓地)
第二次大戦中テレジーン、アウシュヴィッツ-ビルケナウ収容所に送られる 妻と息子はガス室で殺されたが彼は生き残った
戦後、チェコフィル常任指揮者に復帰 1968年チェコの民主化「プラハの春」運動にソ連軍が軍事介入(チェコ事件)
彼は旅行先で指揮者を退任・亡命し、カナダのトロント交響楽団の指揮者に就任 のちトロントで病死 しカナダに埋葬される
後に遺体はチェコ・フィル後任のクーベリックの尽力でチェコに帰還する チェコの音楽史にもターリッヒとならぶ名指揮者であった
Karel Ancerl, ex. Chief-conductor of Czech Philharmony
ブッヘンヴァルト強制収容所 (ドイツ・ブッヘンヴァルト)
やはり数あるナチスの強制収容所のひとつ 復元保全もきちんと行われている
"KZ Buchenwald" Gedenkstaette, Deutschland
ブッヘンヴァルト強制収容所 (ドイツ・ブッヘンヴァルト)
内部展示写真 裸にされガス室で殺されて室外で野積みにされた様子 人間ではなくまるで丸太のような扱いが酷い
Photo: (C)"KZ Buchenwald Gedenkstaette," Deutschland(Germany)
ブッヘンヴァルト強制収容所 (ドイツ・ブッヘンヴァルト)
死体焼却炉 ポーランドのアウシュヴィッツ収容所にも同じ物があった 「能率良く」囚人の死体を焼き処理する工夫がされている
KZ Buchenwald Gedenkstaette
ブッヘンヴァルト強制収容所 (ドイツ・ブッヘンヴァルト) 死体焼却炉の内部 上部には煤がこびり付いている
KZ Buchenwald Gedenkstaette
内部リンク:ブッヘンヴァルト強制収容所
ユダヤ人ゲットー(強制居住区)跡の慰霊碑 (ポーランド・ワルシャワ)
ドイツのナチは占領したポーランドのワルシャワにユダヤ人ゲットーを作り収容、一部は強制収容所に送った
ゲットーは劣悪な環境で食料もなく、外へは出られず、不衛生で伝染病もはやった
ユダヤ人監督ロマン・ポランスキー製作・カンヌ映画祭最高賞受賞の映画「戦場のピアニスト」
("The Pianist"by Roman Polanski) にも登場した場所
Memorial of the Warsaw Ghetto by Nazi, Warshawa, Polska(Poland)
Relief on the back side of the Memorial
ワルシャワ蜂起記念碑 (ポーランド・ワルシャワ)
第二次大戦後期、ドイツのナチに占領され続けたポーランドのワルシャワ市民が蜂起し戦った事件
ドイツの敗色濃い頃にソ連はポーランドのレジスタンスに蜂起を呼びかけた ソ連赤軍は進撃したが苦戦し、なおかつ蜂起軍の戦いを傍観し
蜂起軍を援助しなかった ヒトラーはドイツ軍に弾圧と町の破壊を命じ、蜂起国内軍は敗色濃く町も破壊され、市民への大量虐殺も起こった
この事件での死者は約22万人といわれている 上述のロマン・ポランスキーの映画「戦場のピアニスト」にも登場した事柄
Warsaw Uprising Monument, Warszawa, Polska(Poland)
「カティンの森(虐殺)事件」慰霊碑 (ポーランド・ワルシャワ)
ポーランドは1939年9月(第二次大戦開始)、ナチ・ドイツとソ連・赤軍に攻撃され国土は占領された ソ連軍に降伏した将兵は強制収容所に送られた
1940年捕虜の将官・兵の総数は約23万人(諸説有り)、それらが消息不明となった 後年1943年2月ドイツ軍はカティンの森で多数の軍人の遺体を発掘、
これらの虐殺はソ連軍の仕業だと喧伝した 同年3月、事件が世界に報道され赤十字が調査に当たった 実数は未だつかめていないが犠牲者は
2万人以上といわれている 現場のロシアのカティンの他各所に慰霊碑があるが、これはワルシャワのSenatorska Streetにある碑
"Katyn massacre" monument , Warszawa, Polska(Poland)
西大門刑務所(現歴史館) (大韓民国・ソウル市)
日本の属国だった朝鮮半島の反日、抗日朝鮮人を刑務所に入れ拷問にかけた
今は歴史博物館となり児童・学生・生徒が歴史学習に教師引率で訪問する 「加害者」は忘れるが、「被害者」は決して忘れない
The Seodaemun Prison during Japan-occupation period, Seoul, Korea
西大門刑務所歴史館 内部の様子 (大韓民国・ソウル市)
Inside the Seodaemun Prison, Seoul, Korea
西大門刑務所歴史館 当時を再現する日本の警察官や特高による男女かまわず拷問するシーン
人形による展示のあまりのリアルさに見ていても辛い 同様の多数の展示室がある
内部リンク:京城・西大門刑務所
安重根(アン・ジュングン)義士紀念館 (大韓民国・ソウル市・南山公園)
安重根(アンジュングン) 日本側の取り調べを受ける安重根(紀念館展示写真)
注:韓国では安重根は「義士」と呼ばれる
<伊藤博文暗殺事件>
1909年10月26日 韓国統監を辞任して枢密院議長となった伊藤博文は、
日露交渉のために満州のハルピンを訪れた 韓国人安重根が伊藤博文をハルピン駅頭で射殺した
本人の義挙の理由
私が伊藤博文を殺したのは、韓国の独立戦争の一部分であり、また私が日本の法廷に立つことになったのは、戦争に敗北し、捕虜になったからだ。私は個人の資格でそのことをやったのではなく、韓国義軍の参謀中将の資格で、祖国の独立と東洋平和のためにやったのだ。したがって、万国公法によって処理することを要請する。
(紀念館掲示の説明文より)
<事実> 1909年10月26日 朝鮮統監を辞任して枢密院議長となった伊藤博文は、日露交渉のために 満州のハルピンを訪れた。 韓国人安重根が公爵伊藤博文をハルピン駅頭で射殺した ピストルで6発発射のうち3発が命中した.。(いずれも致命傷) 「大韓國万歳」と三回叫んで、即刻その場でロシア官憲に逮捕され、 日本官憲に引き渡された。 伊藤は「犯人は韓国人」と聞いて、「バカなやつだ」と言ってから死亡した。 同 11月 4日 伊藤は東京で国葬にされる。 1910年2月14日 旅順の関東都督府地方院で死刑判決。 同 3月26日 午前十時安は旅順監獄で死刑・殉国(享年32歳)。 (紀念館掲示の説明文より) |
<両国教科書記述の比較> 立場が違えば、ひとつの出来事がどう違って書かれるのか?調べてみた *韓国の歴史教科書の記述 ・「義兵闘争の展開」・・高宗皇帝の強制退位と軍隊解散を契機に、義兵の救国運動は その規模と性格面で義兵戦争に発展していった。(1907年)・・・・・・・・・・・・ 一方、全国の義兵部隊がソウル侵攻のために連合戦線を形成したこともあった。・・・・ その先発隊がソウル近郊まで進撃したが、日本軍の反撃が強くて、それ以上前進できずに 後退した。このとき、義兵はソウル駐在各国領事館に義兵を国際法上の交戦団体として 承認 してくれることを要求する書信を発送して、自ら独立軍であることを主張した。 そして洪範図と李範充が指揮する間島と沿海州一帯の義兵部隊が国内侵攻作戦を計画し、 義兵として活躍していた安重根は満州ハルピン駅で韓国侵略の元凶である伊藤博文を 処断*した。(1909年) (国定韓国高等学校歴史教科書) ・同教科書歴史年表・・「1909年、安重根、伊藤処断*」 *処断・・とりさばいて決めること、裁断 *日本の歴史教科書の記述 ・日露戦争中・後の朝鮮民衆による反日義兵闘争の記述はあるが、 伊藤博文暗殺や安重根の名前は記述がない。 (高校「要説世界史」山川出版2003) ・1907年大韓帝国皇帝が退位させられて、内政は韓国統監府がにぎった。 このため、韓国では民族的抵抗運動が広まった。兵士や農民が立ち上がったが、 日本軍に鎮圧された・・という記述はあるが、伊藤博文暗殺や安重根は出てこない。 (中学校「新しい社会」歴史、東京書籍2003) ・日本が朝鮮人の土地を没収したので、生活がますます苦しくなり、日本の統治に不満が 高まった。1919年には朝鮮独立万歳を叫ぶ民衆の暴動が全国に広がり、 100万人が参加し、多くの犠牲者を出した(万歳事件)。独立運動は・・・ 満州・上海などに朝鮮独立政府や朝鮮解放軍が組織された。・・・などの記述があるが、 やはり伊藤博文暗殺や安重根は登場しない。 (家永三郎「検定不合格日本史」三一書房1974) 教科書比較の項はすべてサイト・オーナーによる |